生きるために泣く赤ちゃん、生きる目的が欲しい高齢者
赤ちゃんが泣く理由は様々です。
でもその中には、ウソ泣きもあります。
かまって欲しい。離れないで欲しい。
泣くのが得意で、あっという間に涙をぽろぽろ流せる赤ちゃん。
大人のウソ泣きは顔だけですが、赤ちゃんは全身で表現できます。
つくづく赤ちゃんって役者だなーって思いませんか。
観衆の反応次第で、芸が磨かれていくよう。
保育園に子どもを預けている親なら、誰もが経験する入園当初の朝の光景。
親と離れるのが嫌で、今生の別れと言わんばかりのギャン泣き。
もう、心が引き裂かれそう。
後ろ髪を引かれる思いで、赤ちゃんと離れる親たち。
仕事に出かける途中も気になって仕方ない。
一方、赤ちゃんの方はしばらく泣き続け、それでも親が戻って来ないとわかると、案外けろっとしちゃってます。
なんだ、これだけ泣いてるのに戻ってこないのか。
もう疲れたから、そろそろ泣くのをやめようかな。
ま、こんなもんです。
意外とクールだったりします。
生まれた瞬間からものすごいスピードで脳が発達していくのは、脳科学者でなくたってわかります。
周りの人間や動物が自分の味方か敵か、これは食べても安全なのか毒なのか。
まだ視覚が未発達でも、五感を研ぎ澄まして、生まれてきた世界を全身で感じ取っているよう。
未知への冒険者ってところでしょうか。
生きていくために必要なら、ウソ泣きだって得意になっていくのですね。
保育士さんが自分の味方だとわかり、このあと恐ろしい出来事が起きないんだとわかるころには、後追いギャン泣きも次第に収まってきます。
我が家ではたまに孫を預かります。
孫は、本人の意思ではないにしろ、私に色々指摘してくれます。
お節介にも。
いつの間にか静かだな、と思っていたらたくさんの本が、本棚から放り出されていることもありました。
ねえ、どうして読まないの?
そう言われたようで、ドキリ。
帯付きで読まれた形跡のない英単語本を、孫はめくりながら真剣に読んでいる様子。
見ているだけですが。
あったね、そんな本が、何冊も。
読めば英会話が少しは上達するだろうと買って、それだけで満足してしまう。
結局、ほとんど読みもしないで本棚にしまい込んでいた自分に、反省しきり。
何かを握りしめているときもあります。
小さな手を開いてみると、半年前に探していた調味料のフタだったり。
ソファの下かどこか、大人には見えない場所に落ちていたのを、お宝を発見したかように取り出したのかな。
見つけてくれてありがとう。
でも、もうフタのなくなった小瓶の方はとっくにないけどね。
こんな面白いふれあい、親や祖父母だけじゃもったいない。
超高齢化社会の日本に、もっと赤ちゃんと触れ合える環境があってもいいはず。
赤ちゃんや小さな子のエネルギーってものすごくパワーがあります。
一緒にいるだけでポジティブシンキングになれます。
駆け引きなしで頼ってくれるのが嬉しいんです。
例えば、老人ホームと保育園の共同イベント。
年に1回とかではなく、毎月でもいいんじゃないかな。
認知予防につながるかも。
感染症リスクとか、色々クリアしないといけない事情があるのはわかります。
でも若いエネルギーを近くで感じると、ホントに少し若返る気がするんです。
自分を気にかけてくれる。
必要としてくれる。
もちろん小さな子どもだけでなく、ペットでもいいのかもしれません。
ささやかな会話や触れ合いから、高齢者は生きる活力が湧いてくるもの。
生きる目的にもなります。
昔、長男が3才になる前のころ。
同居していたひいおばあちゃんと息子の会話を、隣の部屋で偶然聞いたことがあります。
「ねえ、おばあちゃんは大きくなったら何になりたいの?」
「そうだねえ、何になりたかったんだっけねえ」
おばあちゃんはしばらく考えてから、思い出したように答えました。
「あ、そうだ。おばあちゃんは学校の先生になりたかったんだよ」
「へえ、おばあちゃんは学校の先生になりたいんだ。大きくなったら、なれるよ、きっと」
「ありがとね、じゃあ、大きくならないとね」
盗み聞きしていてクスリとし、今でもたまに思い出す会話です。
呉服屋さんからの注文で、着物の仕立てを手縫いでしていた器用なおばあちゃん。
88才で亡くなる前年まで、現役で働いていました。
でもまさか、学校の先生にあこがれていたとは知りませんでした。
そういえば、ドラえもんでもこんなエピソードが。
小さいのび太
「おばあちゃんは大きくなったら何になりたいの?」
おばあちゃん
「もうなりたいものになっちゃったからねぇ」
小さいのび太
「えっ?何になったの?」
おばあちゃん
「のびちゃんのおばあちゃんに」
小さなのび太とおばあちゃんの素敵な会話。
いつか孫がこの質問をしてきたら、私もそう答えたいな。