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正欲

先日、「正欲」という映画をみてきた。
死んだ目をしている人たちが
何人もでてくる。

心に闇を抱えて
それでもなんとかこの地球に
ぶら下がっている感じ

あくまでも私の感想だけど、
「ふつう」ってなんだ?
を、問いかけられているような
作品だった。

私もたくさんの
「ふつう」を握りしめてきた。

そしてもちろん
今も私の中の「ふつう」は
ある。

挨拶できない奴とか
レスポンスが遅い奴とか

人として
好き嫌い
相性の問題は
あるにしても

なんでできないの?
ねえ、社会人やってきた人?
人に気をとられてないで自分のことをやれよ!

とか
ものすごーい、傲慢な人間に
成り下がる瞬間がある。

まあ、
それでも
お互い様だと思っている。

人のこと
あーでもない
こーでもない
って、思ってしまう自分が
いるし、

そうは言っても
できていない私もいるから。

そんな時は
私がゆるんでなくて
ガチガチっと
しているんだろうな。

まあ、そんな私も
スナオに
かわいいと思える。

仕事をしていると、前に進めるため
我がままな私が全開になって

・パズルのピースだけじゃなくて全体像をみせろよ!
・「あとだしじゃんけん」って、かっこわるー!
・今言うくらいなら、前もって言っとけよ!
・気が利かねーな!
・ねえ、見るのって上の人の顔色だけ?

って、思う私もいる。

それも私だから
まっ、いいか!

そうは言っても
母から私は
そう言われてきたんだった。

別にそれがダメということでないし
それで進むならそれでいい。

気づかないうちに
私もそういう目で
他者にきびしーい目で
見ているって事かも?

必要な時は
遊ぶように全力でやる

ただ
いつも全力より
たまにちょっと抜けていても
OKを「ふつう」と捉えるのも
悪くないかも?

また、映画の「正欲」の話にもどるが
「ふつう」を握りしめていると

そのガチガチに握りしめている
「ふつう」では
本質を解決できない問題が
あるってことも
だんだん気づいてきた。

悟りの境地みたいね。

ただ、スピリチュアルは
よく分からないし
別に分からなくてもいいかな。

人のことは言えないけど
ガチガチの「ふつう」を
握りしめている人をみると

胸がチクンとする。

かつてのガチガチの私を
見ているようで心が
苦しいのかもしれない。

それでも、
そこが好きならそれでいいし
いやなら変わればいいだけ。

もっともっと
私自身が
ゆるめば

他人のことで
胸がチクンとすることもないし
「へー」という言葉だけに
なっていくんだろうな。

最後に映画「正欲」の話に戻るが
私は、人とのつながり、希望、再生を
感じてきた。

数年前の私には
理解できないことが
たくさんあって、
「はぁ?何?」って思っていたことが
ちょっとずつ
感じられるようになってきたのかも
しれない。


きらり✨きらきら✨

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