身一つになった時の私の価値
ミニチュア作家のいわなり ちさとです。
紹介した作品は販売します。気軽にお問い合わせください。
ミニチュア制作をし、田んぼにもチャレンジしています。
やりたいことを見つけられたことに感謝しています。
もとより、ミニチュア作家というのは自称に過ぎず、田んぼ作業も多年草化という目標はあれど、まだまだ海のものとも山のものとも判別できそうにもない活動をしています。
肩書というものを持たず、自分がこうしたいと思うことは実践しようとしています。
歯に衣着せず、意見を言ったり、noteで書いたりしては知り合いが減っていっています(笑)
そんなもんだよなという思いはあって、だんだんと人嫌いになりつつある中で”嘘っぽい希望より絶望を”というフレーズをnoteの中で見つけました。
このフレーズ、一昨年後半からの私の気持ちにグッときました。
知り合いの連絡が途切れた時、一昨年の私なら自分からどうしてる?と連絡していました。
もちろん、今でもつながっていたい方にはこちらから連絡します。
でも、こっちから返事をして、相手の返事を待つのに、何の連絡もないのなら、あきらめることにしました。
なんで、返事がもらえないのかわからなくて最初はもんもんとしましたが、私から聞く必要はないかなと思うのです。今まで、どうしたの?と聞くといろいろ言い訳を聞かせる人もいました。
言い訳するならメール一本くれたらいい、頭の中で考えたんならそれを言葉にして伝えてくれないと私にはわからないよと何回か言ってきました。
でも、やっぱりこっちの連絡が最後になる人がいて、気遣うのに疲れちゃったので、なにもしないことにしました。
日々の生活の中で、私がいなくても忙しいんでしょう。嫌われたというか、面倒だと思われたんだなと思います。
こういう時、私から連絡すれば言い訳を聞かされても関係はつながってそこそこ、一緒に行動する仲が復活したでしょう。
でも、それは「嘘っぽい希望」でしかないなと気づきました。
そういう一方が我慢する関係はたくさんあることでしょう。
私もそれでもと関係を続けてきたけれど、もう御免だと考えました。
軽い遊び相手が減るという絶望?をしっかり受け止めたほうがいいんだと感じています。いないとランチに簡単に誘う相手が減るくらいな仲の知りあいを自分の友人としておくのは噓っぽい希望なんだと気づいたのです。
自分に落ち度があったなら少なくとも謝りますが、ちっとも悪くない時は連絡を取ること自体が情けない行為だと思うのです。
そんな風に媚びたりせずに、一人静かに絶望し、一人で先に進んだ方がいいわと感じています。
遊び相手というのは誘いやすい存在だと私は思います。たぶん、相手も同じ。だから、面倒になると連絡しなくなるんでしょう。
だって、その人との連絡が途絶えても、私には別の友人がいてくれるし、noteでのやり取りで十分幸せを感じられているのです。きっと、その人も淋しがってるわけじゃないはず。
noteは書き手の人となりがよくわかるツールです。
そういうツールを通して仲良くなった方はどんなに遠くにいても気持ちが通じるのです。だからnoteが好きです。
FBも相手がなにしてるかはわかりますが、気持ちはどうかな?
私はnoteのほうが人となりが伝わるので、安心して会えます。先日のながつきさんも初対面とは思えなかったのです。不思議な感覚。
「嘘っぽい希望より絶望を」と言うフレーズにグッと来た(解釈は違うのかもしれないけれど)のは、表面上の仲良しといる時間はいらないと思うようになったからです。
人に合わせるということはあるけれど、自分に嘘をついてまで一緒にはいたくないし、心の中でバカにしながら一緒にいれば得だからとか、とりあえず誘えばOKするからとかいう関係は自分を汚してしまう気がするようになりました。
だから、肩書などない私がどんな価値を持つのか?と問うとなにができるのかだと思うのです。
粘土細工ができて、作品のアイデアを生んで制作することだったり、庭の花を育てることだったり、野草を採ってお茶にしたり、チンキを作ることだったり、、、
そういった日々の動き?こそが私の価値になるのだと思います。
少なくとも坐してただ批判するのは嫌ですし、そんな存在は認めたくないと思っています。
批判するくらいなら自分の信じる方法で行動するほうがいい。
反対と唱えるのは簡単。
代替案もないのに、ただ反対するくらいなら自分のできることを粛々とこなしていきたいと思うのです。
そういう行動こそが私の価値なのだと私は確信するようになりました。
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