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24年7月歌舞伎座 特別公演(怪談牡丹燈籠・越路吹雪物語)

🕯夢のような ”落語芝居”

舞台に2つの高座が設けられて、上手側に春風亭小朝、下手側に坂東玉三郎。

語られるのは、お露と新三郎の見初みそめから、伴蔵が新三郎の家の御札を剥がすところまで。

玉三郎が、お露とお米とお峰。全体の語りと他の登場人物を春風亭小朝が担当する。

これは、お露とお米とお峰を、玉三郎でいっぺんに聴けるということ。こんな幸せ、あっていいんだろうか。

小朝の、新三郎から白翁堂はくおうどうまで幅広い語り分けも見事で、そこに玉三郎が演じる、恐すぎる女3人。
いやもう、怖いのなんのって

🕯生きてても、死んでも怖い

お露とお米が幽霊になってからが見どころ(聞きどころ)だと思っていた。
間違いだった。

お露が、最初から怖い。
見初めの場面で新三郎に「近いうちまたおいでくださらないと、わたし死んでしまいます」と囁く。
…もう怖いじゃん!

焦がれ死にだと志丈しじょうは言うけども、このお露の様子を思うと、いっそ肉体を離れるために自らそうなったんじゃないかとさえ感じる。

お米も、最初っから「お嬢様かわいや」感が普通でない。
お露の死後すぐ、看病疲れで死んでしまったと。看病疲れ? 本当に?? 怖怖怖。

お米は幽霊になってから凄味が増して、「新三郎さまはお心変わりされたようです」とか、「御札が剥がれておりませんが」とか、主役級の存在感。

それも、幽霊お米の声、語尾の音がひずんで下がる…!
たとえばお風呂のとき、頭から桶のお湯をかぶると、周りの音がモワと低く聞こえる、ああいう感じ。
はじめは、マイクの不調かと思ったけど、どうも違う。たぶん違う。
久しぶりにこの距離で感じる、玉三郎のヒトを超えた感じ。怖い、でも快感

そして、お峰。
彼女は最初、お米が伴蔵を二晩続けて訪ねてきたことに嫉妬して、伴蔵に食ってかかる。悋気したり、幽霊を怖がったり、可愛らしいところがあると思いきや。

幽霊の言いなりに御札を剥がしていいものだろうかと迷う伴蔵に、幽霊と交渉しろと策を授ける。
怖がる姿を笑っていた唇を、どう収めていいか困るような、聴いててちょっとずつ嫌な感じが胸の奥にあらわれる、お米の幽霊とは違うタイプの怖さ。

人数としては女性3人だけども、お露とお米は生前と幽霊とで調子が変わる。だから5人という数え方もできる。これを、玉三郎が一人で聴かせる。

🕯『牡丹燈籠』 はサスペンス

これは「未必の故意」のサスペンス。

新三郎は死相が浮かぶほど弱り、御札で守られた部屋で、かろうじて命を保っている。
その御札を剥がしたら、何が起こるか。

なかば分かっていて、お峰と伴蔵は幽霊に、百両の交渉をする。

天井から小判が落ちてくると(音のみ)、お峰はガタガタ震えながらも、「ちゃんと百両あるだろうね!?」と叫び、「ちゅうちゅうたこかいな」と数える。

どうしてだろう。
歌舞伎で観ていたとき、わたしはお峰と伴蔵に、もっとおかしみを感じた記憶がある。幽霊にビビりながらも、ちゃっかりと金をせしめる呆れた夫婦。

今回は、恐ろしさが強い。
こんなこともでなければ、それなりにまともに暮らしただろう夫婦が、御札を剥がす選択をする恐ろしさ。
幽霊は出なくとも、「そうなったっていいや」という選択が、自分のすぐそばにもあり得る恐ろしさ。

御札を剥がして、伴蔵は窓から転げ落ちる。
その彼の前で、お露は口元にかすかな笑みを浮かべ、スゥと窓へ吸い込まれていく。

見えないはずのお露の笑みが、闇の中に見えるような錯覚。
小朝と玉三郎の、語りの威力。

御札はがしまでだと知っていたのに、終わるのが惜しいと思う隙もないほど聴き入った。

『牡丹燈籠』ってこんなに怖い、そして面白い話だったのか。

まくらの「本当に怖いのは人間」という言葉の見事な効かせ方に感嘆した。

🎤 越路吹雪物語

当日配布の冊子より、越路吹雪物語の曲目と写真

正直、越路吹雪をあまり知らない。
だから前半は、きれいだなぁ上手だなぁというくらいの気持ちで聴いていた。

『白い夜』から、演劇的というか、時間も空間も一瞬で飛び越える玉三郎らしい世界が見えて、ようやく自分なりに見方を掴んだ。

小朝が越路吹雪に関するエピソードを少し語って、まつわる曲が歌われる。
歌と歌の間隔は数分なので、衣裳やセットを大きく変えている時間はない。

しかし玉三郎なので、ストールやライトが変われば充分で、曲ごとにまるで違う恋の色、情景があらわれる。

歌を愛し、たくさんの恋をし、緊張しぃで、自分は眠れないほど苦しんでも、周りへの気遣いに溢れていた越路吹雪の姿を、玉三郎が歌詞の情景に映すようにしてこちらへ見せる。

越路吹雪の歌の力が、玉三郎を依代にして蘇る。

🎤 玉三郎という絶対

最後の曲は『愛の讃歌』。
キラキラとライトを跳ね返す長いストールが床まで伸びて、すらりと美しい。

この舞台は、越路吹雪が懐かしいとか、シャンソンに詳しいとか、分かる部分が多い人ほど受け取れるものも多いのだろう。わたしはたぶん、ゼロに近い。

それでも、わたしは「玉三郎の世界」との再会だったな、と感じる。
歌舞伎座の本興行で観るのとはまた違う、玉三郎の世界。

好きなもの、作りたいもののために、とことん自分を追い込むのが玉三郎だと思う。だから玉三郎から生まれる美しさは、厳しく神々しい。

尊い美だ。
横を向いた立ち姿、腕の上げ下ろし、何もかも。

こんな美しい存在が、いま同じ空間にある奇跡を思うと、手を合わせたいほどありがたい。同時に、身を恥じる気持ちになる。

ことさらに生きようと努力しなくても、次の朝が来てくれる幸せを、だらだらと浪費している自分。
これほど素晴らしいものを肉眼で見られる幸運をよく考えもせず、四半世紀、わたしはいったい何をしてきたのか。いかんじゃないか。

歌舞伎座に降り立つ眩く美しい存在にひれ伏したい幸福感と、怠惰をめちゃくちゃに叱られているようなこの感覚。そうだった、これだった。

わたしに特別な信仰はないが、信じるものを一つだけ挙げろと言われたら、玉三郎だと答えるかもしれない。

…これ以上書き続けると、変な方向へ行きそうなのでやめておこう。

ともかく、7/25は、約25年の時を経てわたしがもう一度、玉三郎という絶対の存在に出会えた日だった。

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