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痣 第3話

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記者

 「いい加減にしてくれませんか」

 ローテーブルを挟んで、雪彦と女性が対面している。

 30代だろうか。黒のパンツスーツ姿で、髪は高い位置で引っ詰めている。
 額を露わにした顔は、きっぱりとした性格を表しているようだった。

 「何度ご連絡をしても通じなかったので」

 「もう、そっとしておいてくださいよ!」

 雪彦がローテーブルを叩いた。
 女性はそれを気に留める素振りもなく、雪彦の隣で遠慮がちに控えているつぐみに名刺を手渡した。

 雪彦の説明によれば、彼女はフリーの記者で、5年前の五百扇いおぎ家の事件を追い続けている。また、事件の関係者である雪彦に執拗に付き纏っているのだという。
 
 つぐみが受け取った名刺には、『西見 凛』とある。

 「取材で何度も現地へ行きましたけど、山は空気が美味しいですね。
 素晴らしい環境です」

 西見凛は、初対面となるつぐみの警戒心を解くように柔らかに話しかける。

 「現地の人は、本当にそんなことを思っているのかしら」

 表情こそ変わらないが、つぐみの声音は冷たい。
 凛を、雪彦に害をもたらす存在として認識したようだった。
 つぐみの態度に臆するでもなく、凛は言った。

 「単刀直入に申し上げます。
 5年前の事件。私は、五百扇さんが関わっていると思っています」

 「まだそんなことを!
 父を殺しても、俺には何の得も無いって言ってるでしょう!?
 昔の俺は」

 雪彦は声を荒らげたものの、つぐみの方を窺って急に言い淀む。

 「お父様が、大事な金ヅルだったからですか」

 凛が後を引き継いだ。
 雪彦が忌々しげに凛を睨む。

 「そうだよ! 何回言わせる!?
 遊ぶ金が欲しかったんだ、わざわざ殺すわけないだろう!」

 「現地では、皆さん口を揃えて言っていましたよ。
 あなたとお父様の関係は最悪だったと」

 凛は、わなわなと拳を震わす雪彦の様子を楽しむように口の端を上げた。

 「当時18歳の多感な少年が衝動的な行動に出る。
 有り得ることじゃないですか」

 「どうでも良いことをベラベラと。だから嫌いなのよ、田舎者は!」

 つぐみが、吐き捨てるように話に割り込んでくる。

 凛はその様子に少し眉を上げたものの軽く受け流し、雪彦の目を覗き込むようにして言った。

 「弟さんの遺体が発見されましたね。彼も、あなたが?」

 「帰れ! もう二度と来るな!」

 雪彦は顔を真っ赤にして立ち上がると、凛の脇に置いてあった鞄を掴んだ。玄関に向かって投げつける。その拍子に、鞄から資料らしき紙が数枚飛び出した。

 つぐみが落ちている資料へ歩み寄る。
 そのまま、ピタリと動きをと止めた。


 ◇

 5年前の事件当時。
 五百扇雪彦は、未成年ながら一時期容疑をかけられていた。
 雪彦の素行の悪さが原因で、父・泰造との折り合いが悪かったのだ。

 しかし、絶対的に白という証拠もないが、決定的に黒という証拠もなかった。
 雪彦はその後、しばらく親戚の援助を受けてから上京している。

 いたずらに時間が過ぎるばかりで、捜査は難航していた。
 元愛人や金銭トラブルの相手など容疑者は上がったが、どれも決め手に欠けた。

 五百扇泰造とともに焼死体で発見された女性は旅行者だと判明したが、居合わせた理由は分かっていない。

 屋敷は全焼してしまっている。
 事件の形跡を辿るのは難しかった。

 ──でも絶対、雪彦だ。

 事件記者としての勘が、そう言っている。
 1億。あの大金を、今もどこかに隠し持っているに違いないのだ。

 使いたくてうずうずしている筈だ。
 いつか絶対に尻尾を出す。
 これが暴かれたなら、当時未成年とはいえ凄いことになる。

 これでスクープを取る。どこまでも昇り詰めてやる。
 西見凛は、そうした野心をもつ女だった。


 ──不思議な人だった。
 凛は珍しくパソコンに向かわず、スーツのままベッドに仰向けになっている。

 「風岡つぐみ……」

 白い天井を見つめながら呟いた。
 あのとき感じた違和感は何だっただろうか。
 目を閉じると、並んで座る2人の男女が蘇る。


 都会的で美しい顔立ちではあるが、表情に乏しい女だった。
 その女に、雪彦の方が夢中に見えた。
 取材に基づく雪彦の女遍歴から考えると、どこかズレているような気がする。
 今夜は何故か、事件とは直接関係のないことばかりが気になった。

 あの女が血相を変えたのは2回。
 感情が顔に出やすいタイプと見たが──。

 ──それだ。
 凛は、跳ねるように起き上がった。

 風岡つぐみは、雪彦を疑うような発言に対しては表情を変えなかった。
 恋人が疑われたりしたら、普通はもっと顔に出るのではないか。
 しかし、彼女の揺らぎは別のところにあった。
 あの言葉だ。


 ──どうでも良いことをベラベラと。だから嫌いなのよ、田舎者は!


 あの場にいる時は、雪彦に不利な材料ばかり出すことに激昂したのだと思った。凛に向かった怒りだと。

 しかし初対面にも関わらず、つぐみが凛の出身地など知る筈もない。
 あの怒りは、文字通り『田舎』に向いている。雪彦の故郷へ。

 五百扇家の事件で現地に入った時のことを思い出す。
 周辺の住民は、驚くほど多くの情報を惜しげもなく披露してくれた。

 ここに限らず、有益な情報が早く得られるのは比較的長閑な場所だ。
 地域全員の顔が知られていて、人同士の繋がりが深い。

 しかし、それは逆に苦しいことでもあるのではないか。

 隣人の職業と収入。あの家の子どもの成績。誰と誰が良い仲だ。
 すぐに広がってしまう。

 凛が現地に入って間もない頃も、全身を舐め回すようにジロジロと眺められたものだ。


 ──”だから”嫌いなのよ。


 あれは、狭い人間関係特有の閉塞感を知っているからこその言葉ではないのか。
 一見すると都会的な女のようだが、地方の、それもかなり田舎の出なのだろうか。

 凛は、ハッと口を押さえた。
 ここまでを検証してみると、あの部屋の前でインターホンを押す前に漏れ聞こえてきた声が俄かに思い起こされた。


 ──嫌よ!! もう、あっ。


 そこで声は途切れた。
 一緒に岐阜へ来てくれないかとの懇願に対する答えだ。

 仕事人間の凛は男女の機微には疎い。それでも。
 愛する男が弱っている時に、そんな物言いをするものだろうか。
 凛は、途切れた言葉の続きを推測する。



 ──嫌よ。もう、あんな所。



 風岡つぐみは、あの田舎町に居たことがある……?
 凛は、すっと目を細めた。どうも掴みどころのない女だ。

 つぐみの揺らぎは他にもあった。
 雪彦が、凛の鞄の中身をぶち撒けた時。
 つぐみは散乱した紙へ歩み寄り、そのまま動かなくなった。

 雪彦に付き纏う記者の手助けをしたくなかったのか。
 ならば、わざわざ歩み寄る必要はない。
 途中で気が変わったか。凛は違うと思った。


 ──そんなものじゃない。あの時の顔色は。


 結局、自分で拾い上げた資料。
 つぐみの足元にあったのは、どの資料だったか。
 凛は、ベッドから降りると鞄の中を探った。

 ──これだ。『東京湾の魔女』。

 数年前から噂になっている都市伝説のようなものだ。
 岐阜の事件ばかりに顔を突っ込んでいては金にならない。
 凛は、こういった娯楽記事でも原稿料を稼いでいた。

 東京湾の魔女に頼めば、過去を消してくれるという。
 対価の相場は3千万。
 顔を変え、戸籍上問題のない名前まで手に入るとなれば3千万は安いと言える。

 しかし、何故そのようなことが可能なのかは謎だった。

 この資料は、記事にするための情報をまとめたものだ。
 その記事の書き出しは、既に凛の頭の中にある。

 『あなたの目の前にいる人が、実は過去ウラを隠した“り変わり”かもしれない』

 つぐみは、何故この資料に血相を変えたのか。
 あれは魔女を知らなかった表情ではない。

 知っているものを予期せず目にして、驚愕した──?

 何故。ただの都市伝説だ。
 つぐみは、何故あんな顔をしたのか。

 彼女に対する疑惑が、マグマのようにドロドロと凛を蝕んでいく。


 つぐみ。渡り鳥のつぐみ
 日本などでの越冬中は殆ど鳴かないことから、『口を噤む鳥』としてこの名がついたという説もある。

 口を噤む。
 彼女には、墓場まで持って行かなければならない何かがある。


 まさか。


 対象者は、あくまでも五百扇雪彦だ。
 事件のことを、記事のことを考えなければ。

 しかし、凛はこの日、パソコンの前に突っ伏して泥のように眠った。


 ◇

 同じ頃。


 「黙っててごめん。昔の俺は、君に顔向けできるような男じゃないんだ」

 雪彦は、乱れた感情を鎮めるかのように、つぐみを求めていた。
 激しい呼吸の合間、雪彦の悲痛な声が混じる。

 「でも信じてほしい。俺は変わったんだ。見捨てないでくれ……!」

 つぐみは無言で首を振り、雪彦にしがみついた。
 2人は夜に溶けていく。

 どれくらい時間が経ったか。
 気怠げな息遣いの中で、つぐみが呟いた。


 「許せない……これ以上は」


動く

 五百扇雪彦と時をほぼ同じくして、西見凛は岐阜県に入った。
 すぐに現場へと向かう。
 影彦の遺体が発見されたことで、事件が再び動き始める気がしていた。

 雪彦の方は県警で事情を聞かされていると思われる。
 どの面を下げて遺体を拝むことか。
 凛は、雪彦への疑惑をより強めていた。

 遺体が発見されたのは前日のことで、慌ただしさは消えている。
 県警へ寄らず現地に来たのは、五百扇影彦の人物像を改めて取材しておきたかったからだ。


 「可哀想になぁ。山に埋められとったなんて」

 影彦の幼い頃を知るという老人は、こげ茶のシルバーカートに寄り掛かかって嘆息した。

 「おっとりした良い子やってぇ。
 けど顔にあんなあざができてなぁ」

 「痣、ですか」

 5年前には得られなかった情報だ。
 話し声を聞きつけたのか、目の前の家から中年の女性が出てきた。

 「知らん人のが多いね。
 影彦くん、ほとんど出て来んかったから」

 女性は急に声を落とす。

 「五百扇の旦那と愛人が揉めとったのは知っとるら?」

 凛は、かつて五百扇泰造に愛人がいたことは突き止めていた。
 上手くいっていないところへ何らかのトラブルがあり、それが別れの決定打になったことも。
 二人の不仲は相当噂になっていたらしいが、詳細までを知る人は少なかったようだ。

 その女性によれば、愛人が激昂し、影彦に火傷を負わせてしまったのだという。

 「そうそう。愛人の娘も巻き込まれたんやよ。
 もうらんようになっちゃったけど」

 証言者の2人は、親切にも元中学の教師という人物のところへ案内してくれた。

 事件発生時、この娘が行方をくらませていたことは凛も把握していた。
 家庭環境や、いじめを苦にしての家出ではないかとされている。
 自殺の可能性もあったが、本人らしき遺体は発見されていない。

 偶然同時期に起きた事柄として、凛はその少女のことは詳しく調べていなかった。



 「この子ですよ。水浜一香」

 禿頭を鈍く光らせた初老の男性が、眼鏡を持ち上げて目を瞬しばたかせた。
 雪彦たちが中学3年生の頃に担任をしていたという。
 事件の3年前だ。

 「顔が見えませんね」

 縁側に腰掛けて、凛は色褪せた学級写真を覗き込む。
 端の方に写っている水浜一香という少女は、顔の大部分に髪がかかっていた。男性は声を落とす。

 「ああ。顔の痣を隠して……」

 また、痣か。

 「いじめがあったと聞きましたが?」

 凛の問いに、一昨年教職を退いたという男性は苦い顔をした。

 「記者さん、そりゃ無理やってぇ」

 「五百扇のもんには何も言えんよ」

 ここへ案内してくれた中年の女性と老人が口々に言う。
 老人は遠い目をして緑茶を啜った。

 「五百扇雪彦が、いじめを主導していたということですか」

 答えは返ってこない。
 泰造亡き後も、ここまで口を噤む。それだけ五百扇家の威光が強かったということか。

 だぶついたズボンに踵かかとを履き潰したスニーカーで、斜に構えるように写真に収まる雪彦。
 父・五百扇泰造との確執は、この頃もあったのだろうか。

 1学年1クラスという山間の小さな学校で。
 よく言えば絆が深く、悪く言えば逃げようのない狭い世界で、1人の少女が壮絶ないじめを受けていた。

 水浜一香は、未来をも恨むような眼差しで写真の外にいる凛を睥睨してくる。

 写真を借り、凛はその家を辞した。
 紅葉に色づいた山が迫り、冷たい風が降りてくる。

 雪彦も影彦も、5年前までこの景色を眺めていたのだろうか。
 そして生まれ育った田舎町に背を向けた時、一香という少女は何を思っていたのか。


 前方に見知ったフォルムを見つけた。

 「綿貫さん!」

 凛が声をかけると、熊のような男が顔を上げる。

 「よぉ、女記者。今回は出遅れたか」

 定規で引いたように太く真っ直ぐな眉の下で優しげに目元を綻ばせる男は、岐阜県警捜査一課のベテラン刑事である。
 学生時代、相撲で鍛えたという体躯は堂々たるもの。
 取材を通して、凛とは顔見知りだ。
 今日ここにいるのは事後処理のためだという。

 「遺体は五百扇影彦なんですか?」

 「鑑定中だ」

 綿貫は慎重に答えた。
 バナナのような指の間から、ハガキ大の紙が覗いている。

 「遺留品ですか?」

 凛は、ヒョイと綿貫の手元を覗き込んだ。

 「捜査資料だ! 油断のならん奴め」

 綿貫は、それを慌ててコートの懐に収める。
 凛は、チラリと見えた資料をしっかりと記憶に刻んだ。

 遺留品を写した写真。スニーカーだった。
 遺体が身につけていたのだろう。恐らく、影彦が。

 5年間も土中にあったことからボロボロだが、どちらが爪先かは辛うじて判断できた。

 凛の第六感が何かを叫ぶ。
 違和感が、もやのように広がっていく。

 「なぁ、女記者さんよ」

 靄が晴れない内に、綿貫が深刻な声を出した。

 「お前さん、そろそろ結婚でもしたらどうだ?」

 「セクハラですよ」

 凛がこめかみに血管を浮かせると、綿貫の太い眉が困ったように下がる。
 綿貫は、凛のくたびれたパンプスに目を落として言った。

 「いや……もう、この事件には首を突っ込まない方がいいってことだ」

 それぞれ立場は違えど、同じ事件を追いかける同志に近い存在からの言葉だった。
 瞬間的に頭がカァッとなり、凛はすぐに言葉を探せない。

 「どうも嫌な感じがするんだ、この事件ヤマはよぉ」

 山から再び強く冷たい風が流れてくると、綿貫は眉を寄せた。
 木枯らし。もうすぐ、あの事件から丸5年になる。

 「何……? 何を言ってるんですか、今更!?」

 凛は綿貫に食ってかかった。

 「結婚くらい、いくらでもしてやるわよ!
 この事件でスクープ取ったらね!」

 そのままきびすを返す。
 この事件は、雪彦の裏は、自分が暴く。
 
 「あまり深入りするな……!」

 綿貫が後ろから叫んでいた──。


 ◇

 午後6時過ぎに名古屋を発車したのぞみ242号は、三島を通過したところであった。

 疲労から座席で眠り込んでしまった凛は、ふと目を覚ました。
 普通席の車両の乗客はまばらで、凛は3列のシートに一人で座っている。
 車窓には、疲れた女の顔が映っていた。


 ──そろそろ結婚でもしたらどうだ?


 そう言われると、今まで何にこだわって駆けずり回っていたのだろうとも思えてくる。

 でも、この事件だけは。

 「これが終わったら、キリつけようかなぁ……」

 凛は、車窓に映る自分に向かって呟いた。
 その顔はすぐに難しいものに変わる。


 ──どうも嫌な感じがするんだ、この事件ヤマはよぉ。


 綿貫が『何となく』という感覚でものを言うのは珍しい。
 ずっと胸に引っかかっていた。
 あれは刑事の勘なのだろうか。

 凛は、鞄から写真を取り出した。
 元教師から借りてきた、色褪せた学級写真。

 不良のような格好をした五百扇雪彦は、中学3年時とあってやや幼く見える。
 そして、過酷な環境の中にいた水浜一香という少女。


 15歳。
 この3年後に事件が起こることを、誰が想像できただろう。

 
 帰りの道中で、何度もこの写真を取り出しては考えていた。

 髪で隠された水浜一香の顔。
 僅かに見える顔の輪郭。
 下からすくうようにカメラを見据える目。

 いじめの首謀者、五百扇雪彦──。 

 突として、凛の頭の中に閃光が走った。
 何故、今まで気がつかなかったのだろう。

 凛は駅弁に手をつけるのも忘れ、食い入るように写真の2人を見つめた。


 事件が動く。
 とんでもない方向へ。


 この仮定が正しければ、”あの人たち”が使えるのは”あの金”しかない。
 東京湾の魔女は、実在する──。


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