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ヒカリとカゲ 箱入り令嬢の夢見がちな日常 第二話①

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第二話 ピアノ男子


♡プロローグ♡

広い舞台。艶を放つグランドピアノと美しい青年に、スポットライトが当たっている。

儚い余韻を残して、青年は鍵盤から指を離した。ホールが割れんばかりの拍手に包まれる。

客席では、ヒカリが彼を見守っている。

青年が立ち上がってマイクを握ると、会場が水を打ったように鎮まった。すらりとした体躯に、シルバー・グレイのタキシードが良く似合う。彼が美しい所作で礼をすると、亜麻色の髪がふわりと揺れた。うっとりするような甘い容貌に、そこかしこから堪え切れないように溜め息が漏れる。

青年は、濡れたように艶やかな唇から柔らかな美声を発した。

「次の曲は、僕が愛するただひとりの女性ひとに捧げます。曲名は『ヒカリ』……。聴いてください」

青年は、客席のある一点だけを見つめる。

「イヤぁ!」
「誰なのよ、愛する人って!」
「きいぃっ!」

会場中の女が悲鳴を上げる。
ヒカリだけが、潤んだ瞳で彼を見つめていた。

(なんて素敵なの。私だけのために……)

青年は目を閉じて、鍵盤に伸びやかな指を落とした──。


「ふにゃー……奏斗かなとしゃまぁ……ムニャ……」

レースのカーテンを通して、柔らかな陽が部屋の中に入ってくる。

「おい! 朝だっつってんだろ!」

ピアノ王子

無情にも毛布が引き剥がされた。

「何すんのよ!」

悲鳴を上げたのは、この屋敷の令嬢・胡桃沢くるみざわヒカリである。腕の中には大判の写真集。切れ長の三白眼が、誘うようにこちらを見つめている。

奏斗かなと
名前以外は神秘のベールに包まれたピアニストだ。

別名、ピアノ王子──。

ヒカリが抱えているのは、そんな彼の1st写真集である。昨晩は、写真集を抱いて妄想しつつ眠ってしまったのだ。

「勝手に入ってこないで!」

パステルピンクのモコモコパジャマ姿のヒカリは、不満そうにベッド上で身体を起こす。大人が五人は悠々と横になれそうな、天蓋付きの豪奢なベッドだ。

「何度ノックしても起きねえからだろうが」

「そうだわ、鍵! かけたのにどうして!」

「コレがありゃ、どの部屋にも入れるんだよ」

使用人の男は、小さな鉤状の針金をコイントスのように指で弾くと、パシッと掌に受けた。

いや、使用人にしては口も素行も悪いようだが。

「女の子の部屋をジロジロ見ないでよ! イヤらしいわね!」

「そんなことより、こいつ写真集まで出してんのかよ。本業はどうした、本業は?」

「いいじゃないの。素敵なんだから」

「けっ! 作り物みてえな顔しやがって、気持ちわりぃ」

「なあに、カゲ。僻んでるの?」

カゲ。それがこの男の名だ。
職業(?)は泥棒である。

屋敷への侵入がバレて拘束されていたところを、ヒカリが気まぐれで雇ってしまったのだ。護衛として。

……異を唱える者はない。
この屋敷では、「お嬢様の言うことは絶対」だ。

カゲはこの機に乗じてお宝をゲットし、サッサと逃げてしまおうと目論んでいるようだが。未だこの屋敷に留まっているところを見ると、計画は難航しているようである。

「もう! 着替えるんだから出てって!」

不機嫌なヒカリお嬢様である。ピアノ王子との夢を邪魔されたのが、余程お気に召さなかったとみえる。

食堂に向かって歩きながら、カゲが言った。

「なあ。この家って現金あんのか? やっぱジジイの部屋か?」

ヒカリは、これを華麗にスルー。
直接訊く方がどうかしてるのだ。

(仕方ねぇ、もっかい自力で調べるか)

財界のトップに君臨する胡桃沢くるみざわ家だ。現金以外にも、金になるものは山ほどあるだろう。

(こうして見ると、そう悪くはないのよね……)

一方のヒカリも、カゲの横顔を盗み見て考え事をしている。この屋敷に盗みに入った時はだらしなく不潔な印象であったが、こうして不揃いだった髪を整え、護衛用の黒服に身を包んでみると──。

悪くない。

シャープな輪郭。鋭い目元は、護衛としては頼もしくも見える。意外に綺麗な横顔を眺めながら、ヒカリはあの日のことを思い出していた。

──屋敷を汚されたくなければ、トイレ貸しな!


あの時カゲは、自分にナイフを突きつけてそう言ったのだった。内股の足は、仔鹿のようにプルプルと震えていた。

「……やっぱないわ」

一度地に堕ちたイメージは、二度と回復することはない。

(やっぱり奏斗様がいちばん素敵。カッコ良くて清潔感があって、言うこともやることも超スマートなんだもの)

カゲが突然きびすを返した。

「な、どこ行くの?」

さっきの「ないわ」が聞こえたのかと、少々焦るヒカリお嬢様である。

「ヤボ用だ」

早速のトイレだ。
これでもまあまあ我慢した方である。

(この後、時間がないかもしれない……!)

護衛はお嬢様を学校へお連れし、さらにその後のお世話もしなくてはならない。その間のおトイレが心配だ。

お食事中の方、大変申し訳ない。しかし。

彼は尋常じゃないほどトイレが近く、とにかく日々大変な思いをしているのだ。

しかし、彼の尿意はある種のセンサーでもある。様々な危険を知らせるセンサーだ。盗みを実行する際には特に役に立つ。トイレを探して彷徨さまようことで、追手から逃れることも可能だ。実際、カゲは何度も自分の尿意に救われているのだ!

もっとも、ヒカリと出会った時にはセンサーの調子が少々狂っていたようだが──。

広いダイニングに、ドラマや映画に出てくるような長いテーブルが鎮座している。

今朝は洋食だ。フワフワのパン、野菜スープにスクランブルエッグ、フレッシュジュース。一流ホテルから引き抜かれた料理長が、材料からこだわって腕を奮っている。

ところで。胡桃沢家では、主人も使用人も全て同じ食卓について食事を共にするのが慣例である。

当主・胡桃沢春平くるみざわしゅんぺいが、ヒカリの寂しさが少しでも紛れるようにと提案したのだ。

ヒカリの両親は、不慮の事故で亡くなっている。ヒカリが小学校へ上がった頃のことだった。

春平にとっては息子夫婦を失ったことになる。遺されたヒカリは大事な孫だ。あの事故以来、溺愛ぶりに拍車がかかっている。

「何だよ、朝っぱらからこの曲は? ここは地獄か」

後から入ってきたカゲが小指で耳を掘りながら、うんざりとした声を上げた。ダイニングルームには、先ほどからクラシック音楽が流れている。奏斗様のピアノ演奏を収録したCDである。

「お黙りなさい!」

既に席についているヒカリは、パンを片手にカゲを睨んだ。

「ねーえ、橋倉。この曲は?」

「フレデリック・ショパンの『練習曲第12番ハ短調作品10-12』。いわゆる『革命のエチュード』ですな」

例によって、万能執事が即答する。

「素敵だわ、奏斗様」

うっとりと目を輝かせるヒカリを、祖父の春平や使用人らは温かく見守っているようだが。

(茶番か)

激しく叩きつけるような音が降ってくるダイニングルームで、カゲ以外の全員が爽やかな表情でパンを食べ、スープを飲む。

芸術に疎いカゲは、クラシックなど聴いても眠くなるか暗くなるか、トイレに行きたくなるかのどれかだ。特に『革命のエチュード』の激しさは膀胱が急き立てられる。

(せっかくトイレ行ってきたのに!)

悪くない生活だったのに、とカゲは嘆く。早起きと護衛が面倒だが、美味い食事にありつける。

しかし、お嬢様がピアノ王子に目をつけて以来、頭の痛くなるようなピアノ曲ばかり聴かされるようになった。

(早いとこ金を引き出さねえと)

カゲがフレッシュジュースを一気に飲み干した時。屋敷内に、ドタバタと足音が響いた。

「会長!!」

脂ギッシュな中年男性が、大きな腹を揺すりながら走り込んで来た。春平は顔をしかめる。

「何じゃ、朝から騒々しい」

財界のトップに君臨する胡桃沢家は、多数の事業を手がける。しかし、春平が外へ出ることはほとんどない。実際に動いているのはこの脂ギッシュな中年男性、胡桃沢あつし。ヒカリの伯父に当たる人物だ。

事故で亡くなったヒカリの父には姉と妹がいる。厚は父の姉、秋子の夫。婿養子である。名前の通り全身が分厚い。

「新しく立ち上げた警備会社の名前ですよ! お願いですから止めてください、『ペコム』なんて!」

厚の悲壮感漂う叫びは、ダイニングルームに流れるショパンの『革命』に妙にマッチしている。

「そんなことか」

春平は心底面倒くさそうに、海苔のように黒々とした髪を撫でた。

「おじいちゃん、また会社作ったの?」

「そうなんじゃよー。R警備保障が気に食わんから、儂が作っちゃった」

ヒカリには、とろけるような笑顔を向ける春平である。パリッとした白いシャツを着こなす春平は、『財界の鉄人』の異名に相応しく矍鑠かくしゃくとしている。

春平とR警備保障の会長は、何故か昔から折り合いが宜しくない。恩を売るためにR警備保障を利用していたものの、気に食わなくて警備システムを切ってしまったのである。

今、泥棒カゲがこの屋敷で平然と過ごしているのは、ジジイ同士の喧嘩が原因であった(第一話参照)。

「ヒカリちゃんからも言ってくれ! 『ペコム』なんて軟弱な名前」

「『ペコム』っていうの? カワイイよ、おじいちゃん。キャラクターとかを作ってみたら?」

ヒカリが身を乗り出すと、春平は「そうじゃなあ」と相好を崩す。

「警備会社の名前なんだよ……?」

もう、誰も厚の話を聞いていない。
絶望的な響きをもって、ショパンの『革命』が終わりを告げた──。

ライバルお嬢、満を持して登場

「ねえ、鈴木さん。この曲は?」

学校へ向かうリムジンの中でも、奏斗かなと様のCDを聴くヒカリお嬢様である。
 春平に追い返された厚の車が横をすり抜け、別の道に入って行った。

「えーっと……」

さすがに、万能執事のように即答とはいかない。

鈴木さんは護衛の一人だ。七三分けの、温和を絵に描いたような人である。最近は、この鈴木さんとカゲが護衛についている。

「ハンガリー狂詩曲第2番、ですね」
「そう。ありがと」

ヒカリは、愛おしそうにCDジャケットを撫でた。シンプルな黒いシャツで、少年のような笑みを浮かべてピアノを弾く奏斗様が写っている。斜め横からアップで撮られたものだ。

「お前。学校行く前によくこんなもん聴けるな」

カゲが暗い顔で言った。胸の中に黒雲が広がるかのように気分が重くなり、同時に催してくる。

「何をクネクネしてるのよ? 気持ち悪いわね」

「う、うっせえ。曲名も分からねえくせに何が奏斗様だ」

カゲが落ち着きなく吐き捨てた時。前方に、お伽話に出てきそうな城が姿を現した。桃色の三角屋根に真っ白な外壁。この城こそ、ヒカリが通う『蓮乃宮はすのみや女学院 高等部』。この城だけで高等部である。
 
守衛の敬礼に迎えられ、整えられた庭園を悠々と進めば、モネの『睡蓮』さながらの美しい池が心を和ませる。車寄せには続々と高級車が連なり、お嬢様たちが護衛を伴って降りていく。

ヒカリたちも、開け放たれた大きな扉からエントランスへ入った。一般的な学校で言えば、昇降口みたいなものであろうか。ともかく、2年生専用の棟へと歩き出したその時。甲高い声が響いた。

「あら。胡桃沢ヒカリさんじゃありませんこと? 相変わらず地味! ですのね」

エントランスが一瞬シンとなる。ヒカリは迷惑そうに溜め息をついた。

「あら、冷泉姫華れいぜいひめかさん。それ、お支度に何時間かかりましたの?」

ヒカリの目の前にいる同級生は、紫のタイトなドレスに黒いショールを羽織り、髪は縦ロールでグルグルに巻いている。

こちらの女学院は、私服(?)通学が可能なのだ!

ちなみに、ヒカリはジャケットとタータンチェックのスカートという高校生らしい服装。ドレスなど着てくる生徒はほんの一部である。

(……ケバ)

カゲは、辟易しつつヒカリの後ろに控えていた。毒々しい色彩が目に入ると膀胱の運動が活発になるような気がする。ただでさえ催していたのに。

姫華の背後には、取り巻きと思しきお嬢様が数人。似たり寄ったりの格好だ。もちろん、それぞれに護衛がついている。

「お支度前にすれ違っても気づいてさし上げる自信がないわ。大変ね。“名前負け”しないように飾り立てるのも」

憐れむような表情で嫌味を繰り出すヒカリお嬢様である。

姫華がグッと言葉に詰まる。控え目ながら、遠巻きにクスクスと笑い声が……。

冷泉姫華。悔しそうに唇を噛み締める彼女は、例の『R警備保障』の社長令嬢である。祖父の代から、何故か冷泉が一方的に突っかかってくる。

「フン、地味女の負け惜しみね! ねえ、新しい護衛さん」
 
姫華はカツカツと踵を鳴らしながら進み出ると、まじまじとカゲを見上げた。スッと腕を伸ばしてカゲの頬に手を添え、猫撫で声を出す。

「へえ。まあまあ良いじゃないの。こんな女のところじゃなくて、家へいらっしゃいよ」

近くへ寄られると甘ったるい香りが鼻につく。カゲは顔を背けた。

「俺に指図するな」

トイレに行きたい。
喋ってる暇があるならトイレ行きたいんだよ、腹が立つ。

カゲの事情を知らない姫華の顔が怒りに歪んだ。同時に、冷泉家の屈強かつイケメンな護衛が飛び出してくる。

次の瞬間。

屈強な護衛は、大理石の床に背中をついていた。鈴木さんが涼しい顔で手を払っている。姫華と取り巻きが息を飲んだ。

「ご愁傷様」

ワナワナと震える姫華を尻目に、ヒカリは満足気に踵を返す。

鈴木さんと並んでヒカリの後ろを歩きながら、カゲは口の端を歪めた。護衛として側につくようになって分かったことがある。ヒカリは、決して群れないのだ。カゲはキュッと拳を握った。

(トイレ……)

(何度見ても違和感が拭えねえ……)

落ち着いたディープブルーのベロア生地のソファが、ごく普通の教卓と大型スクリーンをぐるりと囲うように配置されている。どう見ても異様であった。

因みにこのソファ、この学院だけのために作られた高級品だ。長時間授業を受けても疲れないよう、これまた特別に開発された超高級低反発素材が内臓されている。このソファで、タブレット端末を片手に勉学に励むのだ。
 
フカフカの絨毯、猫足の本棚に暖炉、高い天井にはシャンデリア。アーチ状の大きな窓に掛かったレースのカーテンが、庭園からの光を上品に和らげている。

そしてあの、やたらとヒダの多いカーテン。とぷんと丸みをもたせたところを房のついた紐でキュッと止めてある。わざわざ“とぷん”とする意味が、カゲには分からない。一体どれだけの布地が無駄になっているんだろうと考えると途方もない気分になり、膀胱がモゾモゾする。
 
ここは、ヒカリを含めた10名が所属する2年A組だ。こんな部屋なのに、すごく普通に「2年A組」。各学年3クラス、大体こんな感じである。

ここへ通うお嬢様たちへの待遇は破格。掃除当番なんて、もちろん無い。

「世界に通用するレディを!」などと大層な方針を掲げてはいるが、通ってくるのは有力者の令嬢ばかり。高額な寄付や学費を納めてくれる彼女たちの保護者は、学院側にとっては大切なお客様なのである。

「ごめん、鈴木さん。ちょっと野暮用だ」

カゲは、鈴木さんに断りを入れて部屋を抜けた。やっとトイレに行ける。鈴木さんは温厚なので助かる。

数少ない『職員・護衛用トイレ』で事なきを得た後、金目の物を物色しながら歩いていると人とすれ違った。教員ではなさそうだが。首から下げるタイプの名札を見て、カゲは眉を上げた。

その人物は物陰へ入ると、スマートフォンを耳に何やら話し始めた。すぐ側の壁にピタリと張り付いているカゲに気づく様子もない。“職業”柄、これくらいはお手のものだ。口に手を当て、込み上げる笑いを抑える。

(面白いことになってきやがった……)

教育実習生、担当教科は

奏斗かなと様……)

ホームルーム前のわずかな時間。教卓をぐるりと囲んだソファの、いつもの位置に座ったヒカリはスマホを見つめていた。待ち受け画面も奏斗様である。

「ちょっと、ヒカリ! 何であなたが奏斗様を知ってるのよ?」

ヒカリの前に立ち、腕組みして尖った声を上げるのは冷泉れいぜい姫華。同じクラスなのだ。他のお嬢様が2人、金魚のフンのようにくっついている。

「姫華……。いつも真似をしてくるのはアンタの方でしょ」

「何を言うの? “ホテル・ヨルトン”のラウンジでピアノを弾いてる彼をスカウトしたのは、この私よ」

ヒカリは耳を疑った。この女が?

「その縁で、今度の我がR警備保障の新CMには彼が起用されるの」

ハッタリとも思えない。今度は、ヒカリが唇を噛み締める番であった。金魚のフンたちが、「さすが姫華さんね」などと持ち上げる。

「あなたたちも撮影の見学に来るといいわ」

姫華が満更でも無さそうに声をかけると、金魚のフンたちはワァッと沸き立った。

「ヒカリ。どうしてもって言うなら土下座でもなさい。そしたら見学させてあげても良くてよ。端っこの方で」

姫華と金魚のフンが、意地悪そうにクスクスと笑う。

「……お断りよ!」

一瞬、間が空いてしまったのが悔しい。
奏斗様。何故、冷泉の会社のCMになんか!

「まぁ。姫華さんの寛大なお心を無下にするなんて」
「失礼ね」

金魚のフンが囃し立て、姫華は高笑いしながら去っていく。

(きっと断れなかったのよ!)

冷泉側が汚い手を使ったに決まっている! ヒカリはギリリと歯噛みした。

(そうだわ! こっちには『ペコム』があるじゃないの!)

祖父・胡桃沢春平くるみざわしゅんぺいが新たに立ち上げた警備会社。今から手を回せば間に合うかもしれない。奏斗様を冷泉に取られてたまるか。

(決めたわ。『ペコム』のキャラはワンちゃんよ! 奏斗様には、犬耳をつけて『ペコム』のCMに出てもらう!)

可愛いバージョンの奏斗様が見られる。奏斗様とお近づきになれる! ヒカリは春平に連絡を取るべく、スマホのメッセージアプリを開いた。

「皆さん、ホームルームを始めますよ」

担任が来てしまった。銀縁眼鏡の神経質そうな女教師だ。ヒカリは思わず舌打ちしそうになる。隠れてスマホ操作できないのが、このソファ席の欠点だ。

「本日より2週間、教育実習の先生が入られます。入って。モリシタ“カナト”先生」

クスクス……。

失笑が漏れる教室に、彼はおずおずと足を踏み入れた。
前方の大型スクリーンに彼の名前が映し出されている。

森下奏人もりしたかなと──。

あのピアノ王子、奏斗かなとと一字違いの同名。なのだが。

「これから2週間、森下先生にはこのクラスの担任の他、音楽の授業を担当してもらいます。じゃ、先生」

銀縁眼鏡の担任は、やや心配そうに彼に挨拶するよう促した。顔を強張こわばらせた彼は、ロボットのような歩き方で何とか教卓へたどり着く。

「あ……も、森下か……と、いいます。皆さ……どうぞ宜し……ねが……しま……」

消え入りそうな声だった。

急場凌ぎで揃えたと思しきグレーのスーツはブカブカで、まるで制服に着られた中学生のよう。鼻のまわりのソバカスが、彼の顔立ちをより一層幼く見せている。

「聞こえませーん」

誰かが言うと、教室はイヤな笑いに包まれた。彼は、生白い顔をサッと赤く染めて俯いてしまう。

彼、森下奏人先生は。
全てにおいて自信なさげでぎこちなくて、「先生」には程遠かった。

同名の、今をときめくピアノ王子・奏斗とのギャップも相まって。
彼は来校初日にして、癖の強いお嬢様たちの格好の笑い者となってしまったのだった。

「そいつなら俺も見かけたぜ」

カゲは、そう言って煙を吐き出した。

「こんなところで吸わないでよ。寒いし」

「カビ臭えんだよ、俺の部屋」

胡桃沢邸、ヒカリの部屋である。

「カビ臭い」というカゲの部屋は、ヒカリの部屋に近い書庫だ。胡桃沢邸に忍び込んだのがバレた際に連れて行かれた書庫が、そのまま彼の部屋になっている。

トイレまでの距離は申し分ないが、古本独特の匂いには慣れない。お嬢様の部屋の方が何百倍も過ごしやすいのだ。

バルコニーへ続く窓を開け放し、カゲは煙草をふかしている。
かつて、カゲがよじ登ったバルコニーだ。

煙草の銘柄にこだわりはない。大きな声では言えないが、適当にくすねた物で充分なのだ。

ただし。この煙草は温厚な護衛仲間、鈴木さんから了解を得て貰った物である。

「ああいうの見てるとイライラしちゃう! もっと堂々とできないの!?」

ヒカリが話すのは、教育実習の森下奏人先生のことだ。
初日とはいえ、彼は結局、生徒の前で何一つまともにできなかった。

「実は、あいつな」

カゲは途中まで言いかけると、ニヤリと笑って口をつぐんだ。

「やっぱいいや」

今朝、学校でトイレに行った後、カゲは奏人先生とすれ違っていたのだ。奏人先生は物陰に隠れて電話をしていたのだが……。

その内容を思い出し、再び笑いが込み上げる。

「何よ?」

気になったヒカリがどれだけ聞いても、カゲは意味ありげに「カカカ」と笑うだけだった。

Part of your World 

「えー……17世紀……バ、バロック時代……ポイント……として……は……」

奏人かなと先生の実習3日目。今日は初めての音楽の授業だ。

「……で、次第に現代の……クク、クラシックの、形式、に……」

実習が始まって数日経つというのに、奏人先生は相変わらずだった。教室の隅で、担任が頭を抱えている。

「こ、この頃に活躍した……さっ……作曲家……は……」

奏人先生をよそに、お嬢様たちはヒソヒソとお喋りに興じる。ヒカリは欠伸を噛み殺した。一応はお嬢様なので、人前で大口を開けて欠伸をするようなことはない。どこからかクスクスと忍び笑いが漏れると、奏人先生は目を泳がせて何も言えなくなってしまった。

ランチタイム。
お嬢様たちは食堂へ移動する。

教室の端の方で、奏人先生が担任に説教されている。あのヒステリックな担任にガミガミ言われたら、余計に萎縮しそうだ。

(あーあ、あんなに肩を落としちゃって)

ヒカリの横を、姫華と金魚のフンたちが通り過ぎて行った。今日も華美なドレスを身につけている。ヒカリは肩をすくめた。

この学園でいう食堂とは、普通の学生が思い浮かべる学食とは違う。いざとなれば要人の晩餐会が開ける広さと装飾だ。お嬢様の給仕は護衛が行う。

カゲが呆れたように言った。

「昼からそんなもん食ってたら太るだろ」

フォアグラのステーキを堪能するヒカリお嬢様である。

温厚で職務に忠実な護衛、鈴木さんが青くなる。お嬢様に向かって何てことを。

「大切なのはバランスよ」

ヒカリは素っ気なく言い返す。

「それにしてもお前、友だちいねえな」

少し離れたテーブルでは、姫華を囲むように多くの取り巻きが席についている。ヒカリは一人だ。

「泥棒さん、もうその辺で……」

優しい鈴木さんが遠慮がちにカゲを止める。

胡桃沢くるみざわ家で、カゲを「カゲ」と呼ぶのはヒカリだけだ。泥棒に「さん」を付けてくれるところに、鈴木さんの優しさが垣間見える。

「ああいうのは友だちって言うのかしらね?」

姫華たちのテーブルにチラリと目をくれ、ヒカリは満足そうにフォアグラを口へ運ぶ。カゲはフンと鼻を鳴らすと、ちょっと口の端を歪めた。

(こういうところは嫌いじゃねえんだよな)

今日は食後のお紅茶をいただく気にならず、ヒカリはみんなよりも一足早く食堂を出た。

濃いグリーンのカーペットを進んでいくと、2年A組の手前に音楽室がある。音楽鑑賞も座学も教室で事足りるので、滅多に使われることはないが……。

特殊なガラス張りの音楽室。
ヒカリの目にグランドピアノが映る。

奏斗かなと様に逢いたいなぁ……)

生のピアノ演奏は、どんなだろう。至近距離で見る奏斗様は。ヒカリは、考えるだけで胸がドキドキした。

(えっ?)

ピアノのあたりに誰かいる。
よく見ると、奏人先生だった。

グランドピアノの前に立つ奏人先生は、いつもと様子が違う。いつもオドオドしているのに……。

外からヒカリに見られているのにも気づかない様子で、奏人先生はピアノの椅子に腰掛けた。程よい距離に椅子を開いてスッと椅子の高さを調節し、鍵盤の上に静かに指を乗せる。そこまでの所作は、何気ないようでいて流れるように美しかった。
 
奏人先生の指が動き始めると、ヒカリの足は音楽室に吸い寄せられていく。

「先に行ってて」

後ろに控えるカゲたちに早口で伝えると、ヒカリは音楽室のドアを開けた。

先に行けと言われても、お嬢様を守るのが護衛の務めである。職務に忠実な鈴木さんは、律儀にも音楽室の前で姿勢を正す。

カゲは驚きをもってヒカリの後ろ姿を見送った後、ニヤリとした。

(ますます面白れぇことになりそうだな)

忠実な鈴木さんが音楽室の前に張り付いているのをいいことに、カゲはフラリと姿を消す。

(トイレ……)

音楽室に入った途端、圧倒的な音がヒカリを包んだ。繊細でありながら、胸の奥には強く響く。音が呼吸してるみたい。昼の陽がたっぷり注ぐ音楽室が、奏人先生の音で満たされていく。

これが、本当のピアノの音。
CDじゃなくて。

奏人先生が奏でるメロディー。
“Part of Your World “

映画『リトルマーメイド』のテーマ曲だ。童話の『人魚姫』を元にした、人間の王子様に恋をする人魚のお話。

ヒカリは、我を忘れてピアノに駆け寄った。メロディーが急に途切れる。

「ご、ごめ……」

いつものオドオドした奏人先生が、そこにいた。

「あ、違うの!」

胸の中に言葉はたくさんあるのに、先が詰まったみたいに何も出てこない。咎めに来たんじゃないの。

「君は……く、胡桃沢さん……?」

奏人先生は、恐る恐るといった感じで声を出した。

「え……ど、どうしたの!? 胡桃沢さん!?」

いつの間にか、涙がヒカリの頬を濡らしていた。

「どういうことだ、泥棒! 何故お嬢様の元気がない!?」

執事・橋倉は、蒼ざめた顔でカゲの胸ぐらを掴んだ。

「ヒカリや。どうしたんじゃ? じいちゃんだぞ」

両開きの真っ白な扉の前で、春平が涙ぐんでいる。ヒカリは、帰宅するなり部屋に閉じこもってしまったのだ。一緒にお茶を飲もうと、和菓子の老舗・獅子屋の羊羹を準備していた春平は肩を落とす。

「知るか」

カゲは、心底面倒臭そうに欠伸をした。面倒は、できれば鈴木さんに押し付けたい。しかし、もう帰ってしまった。彼は通いの護衛なのだ。今日は鈴木さんが保育園へ子供をお迎えに行く順番だそうだ。

「何とかしろ、泥棒」

橋倉は、カゲを掴む手に一層力を込めた。カゲは舌打ちする。厄介なジジイどもめ。溺愛も、ほどほどにしてほしい。

「わーってるよ。いちいち指図すんな」

カゲは、やんわりと橋倉の手を退かすと、懐から鉤状の針金を取り出した。

カゲとて心当たりがないわけではない。ヒカリの様子がおかしくなったのは。

(音楽室に入った後なんだよな)

屈み込んで鍵穴に針金を差し込む。少し躊躇った後、カゲは思い直したように立ち上がった。

春平が不満の声を上げる。

「何しとるんじゃ、泥棒! 早う何とかせい!」

「うっせえ! トイレだ!」

……やはり、少しでも違和感がある時は先に済ませておくべきだな。

 「おい、ガキ」

カゲは、すこぶる爽やかな気分で部屋の中に向かって声をかけた。橋倉たちの鼻先で、バタンと扉を閉めてやる。側でうるさくされては堪らない。

部屋には誰もいない、と思いきや。ヒカリは、バルコニーに出て風に吹かれていた。

「ああ、カゲなの」

無断で入室したことを咎める様子もない。余程の放心状態とみえる。

「ジジイたちが嘆いてるぞ」

カゲは、バルコニーへ出ると柵に背を預けて腕組みした。

「お前、あの坊やみたいな先生と何かあっただろ?」

「な、何も……!」

分かりやすい反応である。カゲは、揶揄うように笑みを浮かべた。ヒカリは、ますますムキになる。

「先生がピアノ弾けるなんて知らなかったから驚いただけ! 知ってる曲だったし……」

「ほぉ。ピアノをねぇ」

カゲは、未だ薄笑いを崩さない。なんか腹立つ顔である。ヒカリは、放心状態から次第に現実へ引き戻されていった。

(不覚にも泣いちゃったことは、誰も知らないはず……)

あの後、すぐに始業のチャイムが鳴って……奏人かなと先生とはそれきりだ。ずっと心配そうにこちらを見ている気がしたが、結局何も言われなかった。

奏人先生が弾いていた曲、“Part of Your World ”。

本能みたいに、ヒカリの耳に残っているメロディーだった。

あの頃は、物語の意味なんて分かっていなかった。
ただ、キラキラした水中の世界と、王子様に憧れた。

唐突に両親を喪った現実から逃れるように。
“Part of Your World”は、そんな現実の傍に、ごく自然に在った。

その曲を、奏人先生が──。

「なにボケッとしてんだよ?」

カゲの声で現実に立ち戻る。

カゲがバルコニーの柵に肘をついて、ヒカリを覗き込んでいた。

「……っ」

カゲがこんなに近いのは、出会った夜以来だ。男の顔をここまで至近距離で見たことはない。祖父を除いては。一見細面なのに、明るい場所で見るカゲは男の骨格だった。

「惚れたのか?」

何を言われているのか分からなかった。
ただ頬が熱くなっていく。

「ピアノが弾ける坊ちゃん先生に」

バリッと音がした。

「痛えな! 何しやがる!」

カゲが、顔を押さえて怒号を上げる。ヒカリが、カゲの顔に爪を立てたのである。

「ヘンなこと言わないでよ!」

ヒカリは憤慨して踵を返す。

「橋倉ぁ!」

ヒカリは、部屋を出ると執事を呼んだ。

ほどなくして、嬉し涙に目を潤ませた祖父と万能執事が駆けてくる。

「宿題やってー。今日数学なの」

「かしこまりました。私がいたしましょう」

「ヒカリ、羊羹があるぞ」

「やったー!」

カゲを引っ掻いて、すっかり己を取り戻したヒカリお嬢様である。

どうして忘れてたんだろう。
奏斗かなと様のこと。
私の王子様のこと。

(私、どうして先生のことなんか……)

今日はまだ、奏斗様の写真集を拝んでいなかったことを思い出す。羊羹の後にしよう。ヒカリは大きく頷くと、祖父と並んで歩き始める。

バルコニーに残ったカゲは、一人不貞腐れて大きな庭を見下ろしていた。

【Part of your World 】
作曲:アラン・メンケン
作詞:ハワード・アシュマン

映画 リトルマーメイド より

◇第二話②へ続く◇


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