ヒカリとカゲ 箱入り令嬢の夢見がちな日常 第二話③
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第二話 ピアノ男子③
無情にも教育実習は最終日
何もできないまま時は過ぎた。
教育実習の最終日は明日だ。
奏人先生がいない教室を思い浮かべるだけで、ヒカリの胸は締めつけられる。姫華たちが邪魔するせいで、以前のように話もできない。
邪魔が入った方が盛り上がる?
いや。いくら妄想モードのヒカリでも、実習が終わって接点がなくなってしまえばどうしようもないことくらい分かる。
午後四時。もう迎えの車が来る時間だ。ヒカリは、わざとノロノロと荷物を片付けていた。他の生徒たちはとっくに教室を出ている。
こんなことしたって、時間が止まるワケじゃないのに。
「胡桃沢さん」
心臓が跳ねた。奏人先生が手招きしている。
「は、はい」
「少し時間あるかな。あの、ピアノ……」
「えっ」
「ずっと気になってたんだ。昼休み、急に来なくなっちゃったから。良かったら、今からどうかな」
「本当に? いいの?」
ヒカリの顔が上気する。奏人先生は大きく頷いた。
「もちろんだよ。胡桃沢さんは、僕が変わるキッカケをくれた人だからね」
「おい、貴様」
鈴木さんがいつになく尖った目で凄んだ。彼は、奏人先生がヒカリをたぶらかしていると思い込んでいるのだ!
「まあ、いいじゃねえか。運転手には連絡しといてやるからよ」
カゲは今にも飛び出しそうな鈴木さんの肩を抑えつつ、「さっさと行け」とばかりに手を振った。空いた時間でトイレへ行こうという腹である。
「……ごめんなさい」
音楽室へ向かいながら、ヒカリはポツンと呟いた。
「いいんだよ。護衛さんは、お嬢様を守るのが使命だからね」
「いえ。それもあるんだけど、時間取らせてしまって」
こんなの、いつもの自分じゃない。奏人先生のピアノを聴きたいクセに姫華たちには混ざりたくなくて。いじけてずっと教室に残ってて。
(わざと気を引いたみたい。カッコ悪い)
どうしようもない生徒だと思われているかも。ヒカリは急に恥ずかしくなった。横目で、隣を歩く奏人先生を窺う。
「僕がしたくてするんだから。気にしないで」
先生は、また子犬のようにクシャッと笑った。
音楽室に、あの音色が響く。
ほんの数日ぶり聴く“Part of Your World”は懐かしかった。
先生の長い睫毛も、細い指も。
これが最後になる。
そう思ったら、ヒカリは鼻の奥がツンとした。
ちゃんと聴かなくちゃ。最後だから。
でも、もう一人の自分が胸の隅で叫んでいる。先生のピアノが掻き消えてしまうくらい。
(明日なんか来ないで)
違う。
明日もその先も、ずっとこうしていてほしい。
本当に、これで終わりなの──?
♡
2年A組。
ほとんどのお嬢様が泣きじゃくっている。最後の時は特別なこともなく、普通にやってきた。
泣いていないのはヒカリだけ……とはいえ、よくよく見れば彼女の瞼もやや腫れている。昨夜、遅くまで枕を濡らしていたのだ。
「短い間だったけど、楽しかったです」
奏人先生も感極まっている。
「たくさん声かけてくれてありがとう。音楽の楽しさを忘れないでね。僕も、君たちのことはずっと忘れないよ」
「先生!」
先生が挨拶を終えると、姫華が立ち上がった。つられるようにみんな立ち上がり、先生に走り寄る。周りには、あっという間に人垣ができた。
「イヤです、これで終わりなんて」
姫華が涙ながらに訴えると、奏人先生は困ったように彼女の肩に手を添える。ヒカリだけが輪の外にいた。
いつもだったら胸が焼けるようになるはず。先生が他の生徒に、しかも姫華に触れるなんて。
でも、ヒカリの頭の中は真っ白だった。目の前で起こっていることが幻みたいだ。
担任に促されて奏人先生が背を向ける直前。ほんの刹那、ヒカリと視線が交錯した。
(恋って、こんなに呆気ないものなの?)
先生が教室を出ていく。後ろ姿が消える。
先生は、もう学校に来ない。音楽室でピアノも弾かない。
自分の意思と関係なく蘇った。先生と出会って、好きって思うまで。
(違う。私は、待ってただけで何もしていないんだわ!)
ヒカリは床を蹴った。先生を追って。
「お待ちなさい、ヒカリ! 抜け駆けなんて許さなくてよ!」
姫華がロングドレスの裾に足を引っ掛けてつまづいた。周囲に固まっていたお嬢様たちも巻き添えを食い、人の塊が崩れる。
姫華の怒号を背後に聞きながら、ヒカリは走った。飛ぶように階段を駆け降りる。
奏人先生は、ちょうど外へ出ようとしているところだった。
「待って……。奏人先生!」
衝撃の事実、の連続
振り向いた先生が目を丸くした。
「胡桃沢さん。どうしたの?」
ヒカリは眩しさに息を止める。
エントランス。開け放された大きな扉の前で微笑む奏人先生は、本当の王子様に見えた。
「胡桃沢さん?」
「あの、えっと」
ヒカリは懸命に言葉を搾り出す。
「ありがとう! 二週間、本当にありがとう。ピアノも……」
「こちらこそ。僕に勇気をくれて、ありがとう」
奏人先生がクシャッと笑った。
「それだけじゃなくて。えっと」
「ん?」
言わなくちゃ。勇気を出さなきゃ。
分かっているのに言葉が出ない。せっかくここまで追ってきたのに。ヒカリはギュッと目を閉じた。
「かなくん!」
庭園の方から女性の声がした。奏人先生が首を巡らせる。やがて声の主を探し当てると、先生は子犬のように人懐こい笑みを浮かべた。
「ママぁ!」
(マ……?)
何が起こっているのか。ヒカリは、庭園で繰り広げられる出来事をただ目に映すに任せていた。
「ママ、迎えに来てくれたの?」
「かなくん、よく頑張ったわね」
奏人先生を“かなくん”呼びするのは、化粧の厚い猪のような女性だ。
「立派よ、かなくん。ママがナデナデしてあげる!」
「ううん! お家まで我慢するよ!」
「んまぁ~っ! なんて良い子なの、かなくんはっ!」
そう言って、母親は結局“かなくん”の頭をナデナデしてあげている。“かなくん”、満面の笑み……。
ここで、ようやく母親がヒカリに気づいた。
「あら、生徒さん?」
「そうだよ。彼女にはとってもお世話になったんだ」
「まあ。それはどうもありがとう」
猪が頭を下げた、ように見えた。ヒカリは、辛うじて口の片端を上げて応える。
親子は、手を繋いで蓮乃宮女学院を後にした──。
(何なの……)
急に意識が遠のいた。ヒカリの身体が後ろに倒れていく。
「おっと!」
広い胸がヒカリを支えた。間に合わなければ大理石の床に頭をぶつけるところであった。
「おーい。息しろ、息」
ヒカリの危機に現れたのはカゲである。
「お嬢様! 焦らずゆっくり息を吐いてください」
執事・橋倉まで顔を出した。
「お前、何でこんなとこにいんだよ?」
「嫌な予感がしたのでお迎えにあがった」
「マジかよ、万能か」
使用人たちの話を聞きながら、ヒカリは少しずつ正気を取り戻していく。
「マ……」
「どうされました、お嬢様!?」
「あ、あれはマ……マザ」
「その四文字を口に出すのはやめとけ。母親思いの良い奴じゃねえか、ハハハハ」
カゲが慌ててヒカリの言葉を遮った。
「そうです、お嬢様。男というのは多少……その気はあるものでございます」
「お前もそうなのか?」
「恥ずかしながら」
執事・橋倉、ヒカリを励まそうと必死である。
「うわ……」
「何だ、その顔は! 話を合わせろ泥棒!」
「もういいよ、二人とも」
ヒカリが、先ほどよりはしっかりした声で言った。
カゲの胸から身を起こし、壁際に置かれたソファに腰を下ろす。
「慰めてくれるのは有難いんだけどね。母思いにも限度があるって思わない?」
それぞれ違う場所に身を潜め、あの親子の様子を窺っていたカゲと橋倉は返す言葉が見つからない。
「気にすんなって。人よりちょっとばかりママンへの思いが強いだけだろうが」
「それを短く言うとあの四文字になるんでしょ! ……うわーん!」
ヒカリは、ついに泣き出した。橋倉がカゲに強烈なゲンコツをお見舞いする。
「痛ってぇな!」
「言い方を考えろ、この大馬鹿者が!」
不貞腐れてそっぽを向くも、カゲは少しだけ罪悪感に駆られた。
彼は、奏人先生がママンに対してデカすぎる愛を抱いていることを、初めから知っていたのだ。
あれは実習初日のこと。
護衛の仕事をサボッてトイレへ向かったカゲは、廊下で電話をする奏人先生を目撃している。
実習がよほど不安だったらしく、「ママ、ママ」と泣きじゃくっていた。
ヒカリが彼のピアノにハマり始めた頃は、半分面白がっていた。
いつか秘密をバラしたら、ヒカリはどんな顔をするだろう、と。
しかし、ヒカリが予想外に奏人先生にのめり込んじゃったのである。
「とりあえず帰ろうぜ」
カゲは耳を掘りながら言った。
鈴木さんがヒカリの荷物持って駆けてくるのが見える。車寄せには胡桃沢家のリムジンも到着した。
♡
胡桃沢邸のリビングは、重苦しい空気で覆われていた。
ヒカリの元気がないからだ。
この家は、17歳の令嬢を中心に回っている。
「おいおい、辛気臭ぇなあ」
落ち込んでいないのは泥棒一人である。
「お前ら、このガキが先生とどうにかなる方が困るんだろ? ちょうど良かったじゃねえかよ」
彼の言う通りだ。この家の当主をはじめとする面々は、ヒカリを溺愛するあまり、彼女が異性と関わることを極度に嫌う。
奏人先生を危険人物と見なしていた彼らは、実習が終わる今日を心待ちにしていた。
しかも、先生は『その辺の女性よりもママンがめっちゃ好き』なのだ。家中の者にとっては好都合な事実だった。しかし。
「それでも……お嬢様が悲しまれていると我々も悲しいんです」
鈴木さんがポツリと漏らす。それを合図にしたように春平がスンと鼻を鳴らし、橋倉は項垂れて目頭を押さえた。
「面倒臭ぇ家だな」
カゲは、付き合ってられんとばかりにゴロリ床に寝転がる。
「……ごめんなさい」
ソファに泣き伏していたヒカリが、蚊の鳴くような細い声を上げた。
「良いんじゃよ。ゆっくり休んで一日も早く元気になっておくれ」
「我々にまで気を遣われて。なんと健気な」
「けっ、茶番が好きな奴らめ」
「泥棒は黙っていろ」
「ああ、ごめんなさい。奏《《斗》》様!」
何かを思い出したように、ヒカリはガバッと顔を上げた。
「むぉ? ヒカリ、どうしたのじゃ?」
「浮気してごめんなさい! 私がバカだったわ。ああ奏斗様、奏斗様……」
どうやら、憧れのピアノ王子を思い出したようである。
ヒカリはテレビのリモコンに飛びついた。先日のリサイタルの録画を観ようとしているらしい。震える指で電源ボタンを押すと。
【ピアノ王子・奏斗 七股疑惑!!】
85インチの大型テレビに、衝撃的な文字が踊っていた。
「……」
違う熱だと思うぞ
『イケメンピアノ王子、初のスキャンダルですねえ』
『まさかの七股ですか』
画面の中で、女性コメンテーターが苦い顔をした。
番組によれば、ピアノ王子の相手は音楽関係者から芸能人まで幅広く、中には既婚者もいるとのことである。
『彼のピアノは十人並みで、特質すべき技術はないですね』
音楽界の重鎮が、ここぞとばかりにぽっと出のイケメンピアニストをこき下ろす。
『おっ、中継が繋がったようです』
司会者が伝えた。番組は、仕事場から移動するピアノ王子に突撃取材を試みたようである。
『こちら現場です。あッ! 出てきました、出てきました!』
人垣の奥に長身の人影が現れると、リポーターが興奮気味に叫んだ。都心のビルの前は、報道陣でいっぱいだ。
『奏斗さーん! 七股というのは本当なんですか!』
『不倫相手のご家族のことをどう思われますか?』
『一言お願いします!』
多方向からマイクが突き出される。
『ちょ、いま撮らないで!』
事務所関係者に守られながら出てきたピアノ王子・奏斗は必死で顔を隠した。
混乱の中、後ろから押されたカメラマンがバランスを崩して彼にぶつかる。あらわになったその顔は──。
『あっ!』
『えっ……これ、奏斗か?』
現場が騒然となるのも無理はない。
イケメンピアニストであるはずの奏斗の顔には幾つものシミとシワが浮き、皮膚は重力に従ってたるみ切っていたのだ。
突然のスクープに動揺し、メイクを忘れたものと思われる。
中継が途切れ、映像がスタジオに切り替わるも誰一人反応できない。
沈黙が続いて放送事故状態になっている。
奏斗の顔は、それくらい予想外だったのだ。
ピアノ王子・奏斗のたるんだ顔面は、もちろん胡桃沢邸の大型テレビにも映し出されていた。超アップで。
「か、か……な……」
ヒカリの口から呻きのような声が漏れた。
──作り物みてえな顔しやがって、気持ちわりぃ。
数日前、カゲが吐いたセリフが妙に真実味を帯びる。それがチラリと頭をよぎった直後、ヒカリは意識を失った。
♡
「医者はまだなのか」
「はあ。今日は往診が立て込んでいるようでして」
使用人たちが階下で忙しなく動き回っている。
ヒカリは寝込んでいた。
よせばいいのに、またスマートフォンを開く。
テレビに映ったあの顔が奏斗様だなんて、ヒカリは信じられない。でも別人とも言い切れない微妙なラインだ。だからスマホを覗いてしまう。何かの間違いであってくれないかと。しかし。
間違いどころか、奏斗がシークレットブーツを使用していたことまで判明。ヒカリの体温は39度まで上昇した。
「あーあ。ざまぁねえな」
カゲが勝手に部屋に入ってくる。自室として割り当てられている書庫より、ここの方が居心地が良いのだ。
「うるさいわね。笑いたければ笑いなさい。どうせ私は人を見る目がないわよ」
「男の見た目に左右され過ぎなだけだろ」
「ち、違うわ! 私は純粋にピアノを」
ヒカリは、そう言ったきり布団に潜り込んでしまう。
だったら寝込むことないだろ。と口から出そうになったが、カゲは口を噤んだ。
ヒカリがピアノ王子の見た目に惹かれたのは事実である。
だけど、のめり込んだのはピアノが素敵だったからだ。
ピアノはあんなに素敵なのに、ピアノ王子自身は嘘だらけだった。
容姿だって七股だって。どんな思いでメイクをし、七人の相手にどんな嘘をついていたのか。ヒカリはそれが悲しいのだった。
部屋の外が俄かに騒々しくなり、橋倉の声が響いた。
「これはこれは、若先生。お忙しいところをどうも。ささ、こちらです」
ほどなくして、ヒカリの部屋の扉がノックされる。
「お嬢様。北白河先生がおみえです。今日は若先生ですよ」
「はぁ? 誰、若って」
身体を起こし、ヒカリは気怠げな声を上げた。
北白河は胡桃沢家の主治医だが、『若』なんて先生は知らない。ヒカリがいつも診てもらっているのは、やたらと声のデカいおじいちゃん先生だ。
「お嬢様、そのような言葉遣いを」
「ハハ、無理もありませんよ。あの時はヒカリちゃんも小さかったし、僕は父に付き添っていただけですからね」
軽く音をたててドアが開いた。橋倉に続いて、白衣姿の男性が入ってくる。
「ヒカリちゃん? すっかり綺麗になって……って、覚えてないかな」
北白河が白い歯を見せると、ヒカリは雷に打たれたように硬直した。
そして、「は」とか「いえ」とか蚊の鳴くような声で答える。すっかり医者に見惚れているのだ。
北白河はちょうど良い具合に彫りの深い、大人かつ爽やかかつ優しげなイケメンなのである。
(は、橋倉ったら! 違う先生が来るなら先に言いなさいよぉっ!)
いや、言ってた。若先生です、と。
発熱したボロボロの姿をイケメンに晒してしまったので、何でもいいから八つ当たりしたい気分なのだ。
「結局、見た目じゃねえかよ」
カゲが茶々を入れると、橋倉が目を尖らせて彼を追い立てる。
「泥棒め、いつの間に! ほれ、シッ!」
北白河は一瞬「え、泥棒?」となったが、気を取り直してヒカリの額に手を当てた。
「すごい熱だな」
「え、ええ。なんだかとても熱くて……」
ヒカリが目を潤ませると、北白河はより深刻な表情になる。
「違う熱だと思うぞ」
部屋を追い出される直前、カゲはそう言い残した。
♡エピローグ♡
深夜。
胡桃沢邸の真っ暗な離れに、ペンライトの光が弱々しく揺れていた。
(まったく、人騒がせなガキだぜ)
だが、ちょうど良かった。
使用人たちは、看病のため令嬢に付きっきり。熱があるといっても小さな子供ではない。勝手に寝かせとけって感じだが、この家ではそうはいかないのだ。
だから、カゲは誰に邪魔をされる心配もなく「本業」に集中できる。
今夜は離れへやって来た。当主である春平は、就寝時には必ず母屋へ戻ることは分かっている。つまり今、離れにいるのは自分だけ──。
「くくく、バーカ」
苦虫を噛み潰したような執事の顔を脳裏に浮かべ、せせら笑う。今頃、ヒカリの看病で右往左往していることだろう。
そのヒカリといえば、もう医師の北白河に夢中である。弱ったところへ優しく声をかけられ、「すっかり綺麗なった」などとおだてられて舞い上がっている。
ピアノ王子もママン好きの教育実習生も、既に記憶から消えていることだろう。もう、膀胱を急き立てるようなクラシックのCDを聴かされずに済む。
(まあ、このままお宝が見つかればこんな家に用はねえ。どーでもいっか)
鼻歌でも歌いたい気分で、カゲは離れを物色する。と。
「うぎゅ!?」
突然、強烈な尿意が襲った。
瞬間的に床の間へ身を潜める。尿意イコール危機だ。誰かが離れへ来ようとしているのかもしれない。
急がなければ。
床の間に隠れたついでに、カゲは釈迦涅槃図が描かれた掛け軸をめくった。
「ほう。ベタだな」
掛け軸の裏の壁がくり抜かれ、その空間に金庫が鎮座している。
カゲはほくそ笑んだ。
鍵も厚い扉も、彼の前では何の意味もなさないのだ。
金庫の扉にピタリと耳をくっつけ、慎重にダイヤルを回していく。尿意が気になるが、そこは何とか集中だ。やがてカチリと手応えを感じると、カゲは一気に重い扉を引いた。
これで、ワガママな令嬢や口うるさい執事ともおさらばだ──。
果たして。
ペンライトが照らす金庫の中は空っぽであった。いや、正確には半紙が一枚。手に取ってみれば。
──バーカ。
力強い毛筆の筆跡は春平の手によるものと思われるが、裏で執事・橋倉が動いていたであろうことは容易に想像できる。
「くっそ……万能か」
カゲは金庫の前で肩を落とした。静かに金庫を閉じ、すごすごと母屋へ戻る。トイレへ直行したことは言うまでもない。
この男は、今夜もまた盗み損ねた。よって、明日以降も護衛として胡桃沢家に仕えなければならない。
後日談だが。
R警備保障が起用したピアノ王子のCMは、撮影済みにも関わらず使えなかった。スキャンダル後のイメージが悪すぎるからだ。冷泉グループにとっては大損害である。
代わりに、イヌ耳をつけて自ら『ペコム』のCMに出演した“春平じいちゃん”がトレンドに。
『ペコム』とは、R警備保障と仲が悪すぎる春平が立ち上げた警備会社である。
ヒカリは当初、『ペコム』のCMはピアノ王子がイヌ耳をつける内容を希望していた。そこへ、あのスキャンダル──。
「おじいちゃんが出ればいいじゃん」
ヒカリの投げやりな一言が、春平のブレイクに繋がった。胡桃沢家は安泰である。
そして。
カゲは今日以降、お医者さんに恋する令嬢に振り回されることとなる。
どんな面倒に巻き込まれることか。その間抜けぶり、笑ってやりたいところだが。
それはまた、別の機会に。
◇第二話 ピアノ男子◇完
第三話①へ続く