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ヒカリとカゲ 箱入り令嬢の夢見がちな日常 第二話②

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第二話 ピアノ男子②


恋、だな

「えー……こ、このスケールはイ短調の……」

翌日。大型スクリーンを示しながら、教育実習生の奏人かなと先生が授業を行なっている。室内はざわついていた。

「えーっと、み、みんな聞こえ……てる、かなー……」

騒がしい教室に、奏人先生の蚊の鳴くような声は掻き消される。

2年A組の生徒たちは初日こそ遠慮して欠伸を噛み殺していたが、今では堂々と雑談に興じていた。もう諦めているのか、担任は何も言わない。

昼休み。「奏斗かなと様こそ私の王子様!」の決意と裏腹に、ヒカリの足は音楽室へ向く。

お嬢様に何かあってはと、心配顔で音楽室に張り付く鈴木さん。それを横目に、カゲはフラリと姿を消す。行き先は言うまでもない。

(最近、やけに“近い”な)

元々である。しかし。
ポケットに手を突っ込んで歩くカゲの背中は、珍しく苛々と横に揺れていた。

(あのガキ、予想以上にのめり込みやがって! どうなっても知らねえからな!)

 

やっぱり、いた。
ヒカリが音楽室に入っていくと、奏人先生は驚いたように振り向いた。

「く、胡桃沢くるみざわさん?」

遠慮がちに名を呼ばれ、ヒカリは急に落ち着かなくなった。勢い込んで来たはいいが、何も考えていない。

「あの……昨日は、大丈夫だった……かな」

奏人先生が先に口を開いた。

昨日ここで泣いてしまったことを心配してくれているのか。いつもオドオドしているが、生徒のことはきちんと気にかけているようだ。

「あの曲」

「うん」

ヒカリが言い淀むと、奏人先生はこちらを見て頷いた。その声音には、無理に先を促すような忙しさはない。

「あの曲、もう一度聴かせてもらえませんか」

思い切って言ってみたら、顔が熱くなった。

奏人先生は驚いたように眉を上げたが、すぐに「分かったよ」と言って椅子を引いた。椅子に腰を下ろして鍵盤に指を置く。昨日と同じ、流れるように美しい所作で。

先生の手元が見えるように、ヒカリがピアノへ歩み寄ったと同時に、音が鳴った。

これだ。
お腹に振動が伝わるような、胸が震えるような、生きてる音。先生が奏でる音は、まるで意思があるみたいにヒカリを包み込む。
 
鍵盤上の細くて長い指。間近で見る先生の指は舞っているようでもあり、しっかりと鍵盤を捉えているようでもあった。

(先生、近くで見ると睫毛長いんだなぁ)

音の中を浮遊しながら、ヒカリは奏人先生の横顔をぼーっと眺めていた。

音楽室の中に、最後の音が余韻をもって響いた。奏人かなと先生が鍵盤から指を離す。それきり、沈黙が訪れた。

「ありがとう」

「あ、ああ……いや……」

奏人先生は、またオドオドした感じに戻ってしまった。椅子に座ったまま頭を掻いている。

「何も聞かないんですね」

ヒカリは、後に続く言葉を飲み込んだ。
私が、泣いた理由。

「心にしまっておきたいことも、あるのかなって」

意外にもしっかりとした先生の声に、ヒカリは顔を上げる。

見事に言い当てられていた。両親のいない寂しさから解放してくれた世界のことは、誰にも語ったことはない。口に出したら消えてしまうような気がしていたからだ。

「あ……でももし相談したいことがあるなら……! ボクなんか……頼りないけど」

奏人先生が教育実習に入ってから、初めてまともに目が合う。先生は、ピアノの椅子に腰掛けた状態でヒカリを見上げる形になった。目が合うと、先生はまたオドオドと目を泳がせる。

「せ、先生が自分のことを頼りないなんて言うもんじゃないわ!」

顔に感じる熱に戸惑いながら、ヒカリは語気を強めた。

持ち前の気の強さが出た。半分は。後の半分は照れ隠しだった。

「どうしていつも、そんなにオドオドしているの? ピアノを弾いてる時は堂々としてるのに」

ヒカリは踏ん反り返って腰に手を当てた。照れ隠しもあるが、これは実習が始まって以来ずっと抱えていた疑問だ。

「ごご、ごめんなさい……」

「私は質問してるの!」

「ごめ……あっ、えーっと……」

言ってるそばから謝る奏人先生である。

「ボク、気が小さくて……。この学園に通ってるのって、すごいお嬢様ばかりでしょ?余計に緊張しちゃって……」

奏人先生は自信無さげに目を泳がせる。ヒカリは眉間に皺を寄せた。こういうのが、いちばん腹が立つのだ!

「ピアノに触れてる時は心が弾むんだ。結局、プロにはなれなかったけどね……ハハ……」

奏人先生は自嘲して俯いた。

「弾まない」

「へ?」

「ちっとも楽しくないわ! 先生の授業! 舌を噛みそうな作曲家の名前とか、何とか短調とかそんなの!」

奏人先生が身体を縮こめた。本当に一回り小さくなったように見える。

「そ、そっか……」

さらにカチンときた。ヒカリは椅子の背もたれに片手を掛けると、座ったままの奏人先生に詰め寄った。

「あのねぇ! 生徒にこんなことを言われて悔しくないの!? 先生が楽しいと思う音楽を教えてくれたらいいじゃない!」

奏人先生が目を丸くしてヒカリを見上げる。

「うん……そうだね……!」

先生は、ヒカリの至近距離でクシャッと笑った。

(あっ──)

今の感じは何だろう。
ヒカリはドギマギして椅子から手を離す。

奏人先生は、子犬みたいだと思った。


「恋、だな」

「な、先生とはそんなんじゃないわ!」

胡桃沢くるみざわ邸、リビング。紅茶のカップが、ソーサーに当たってうるさい音を立てた。

「ほぉ? よく分かったなぁ、主語なしで」

「お嬢様! 相手が教師とはどういうことで!」

無駄口を叩くのはカゲ、隣でムンクの『叫び』の如く蒼ざめるのは執事・橋倉である。

「何でもないったら!」

吹き抜けの天井に、ヒカリの声が響いた。カゲは、カカカと笑いながら逃げていく。トイレだろう。

まだ涙目の橋倉に英語の宿題を渡すと、ヒカリはフラリと外へ出た。

あれから数日。
奏人かなと先生の実習開始から一週間が経とうとしていた。

ヒカリは、昼休みには相変わらず音楽室へ足を運んでいる。

何を話すでもない。ただ先生のピアノを聴いている。あれは、お気に入りの曲だから。ただそれだけのことなのに、胸がザワザワする。

こんな時、ヒカリはいつも祖父・春平のところへ行く。両親を亡くしてからずっと、ヒカリにとっては大きな支えだ。

「おじいちゃん。それ、アルバム?」

ヒカリが部屋を覗くと、春平は座椅子に座って分厚いアルバムを開いていた。春平は離れにある和室を好み、ここで過ごすことが多い。

「ヒカリか。こっちへおいで」

春平は、目尻を下げてヒカリを招き入れた。アルバムには、ヒカリの両親に加えて祖母の姿もある。両親が事故死して数年後、その祖母も病で亡くなった。

「ねえ。おじいちゃんは、どうしておばあちゃんと結婚したの?」

ヒカリは、隣り合わせで座った春平の横顔を眺める。春平は柔らかな視線をアルバムに落とすと、幸せそうに微笑む祖母の顔に指を添えた。

「フフ、見合いじゃよ。でも。今でも、あれは運命だったと思う。母親みたいにあったかい人じゃったなぁ」

「母親? 奥さんなのに?」

難しい顔でヒカリが首を傾げると、春平は白い歯を見せてフォッフォと笑った。

「男っていうのはな。いつまでも甘えたがりなんじゃよ」

ヒカリは、ますます分からなくなる。ヒカリがいつも憧れる王子様は、甘えたがりなんかじゃないから。

(よく分かんねえけど、うるせえCD聴かずに済むのはラッキーだな)

トイレを後にし、清々しい表情のカゲである。

本人に自覚があるのか定かでないが、ヒカリはここ数日ピアノ王子のCDを聴いていない。

カゲにとっては喜ばしいことであった。あの小難しい調べが耳に入ると、トイレの近さが倍になるのだ。

さて。ヒカリがどうにもスッキリしない気持ちを持て余している頃。

【R警備保障 新CMキャラクターにピアノ王子・奏斗かなとを起用。撮影は無事終了】

このニュースがメディアを駆け巡ったのは、翌朝のことだった。

箱入り令嬢、自覚する

蓮乃宮はすのみや女学院高等部──。

「まあ。誰かと思えば胡桃沢くるみざわヒカリさんじゃありませんこと?」

ステンドグラスの大窓から柔らかな朝の光が差し込むエントランスに、いつもの甲高い声が響いた。

ヒカリは、あっという間に冷泉姫華れいぜいひめかとその取り巻きに囲まれてしまう。

どこで調達するのか、今日はロココ調の真っ赤なゴシックドレスだ。盛り過ぎなメイクも相変わらずである。

「昨日は本当に素晴らしい日だったわね」

取り巻きの一人が切り出すと、「ええ、本当に」、「素敵だったわぁ、奏斗かなと様」などと周りも囃し立てた。

最後に、姫華が悠然と口を開く。

「あなたもそう思ったでしょう、ヒカリさん? あっ、ごめんなさい! あなた、撮影の見学にはいらっしゃらなかったわね」

取り巻きたちがクスクスと笑い出した。

「ごめんなさい。私たちったら、つい」

「昨日が撮影だったの。あなたもいらっしゃれば良かったのに」

「本当に王子様のようだったわ」

「悪いわよ、ヒカリさんの前でそんな話」

青い顔で黙り込むヒカリを前に、姫華は勝ち誇ったように口の端を歪める。直後、ヒカリは何かに気づいたようにつと顔を上げた。

「ん? あなたたち、いつからそこに?」

「な……!」

姫華は、グロスでテカる唇をわななかせた。

「本当にごめんなさいね。私、今あなたたちとお喋りしている場合じゃないの。失礼」

ヒカリは宥めるような表情を作ると、呆気に取られる姫華たちの横を通り過ぎて行った。

残された姫華と取り巻きを、登校してきた生徒たちが不思議そうに眺めている。

「ジロジロ見ないでいただきたいわね! ねえちょっと! 新入りの護衛さん」

悔し紛れに、姫華はカゲを呼び止めた。

「あんな変な子のところより、どう? そろそろ私の元へ来る気になりまして?」

カゲを見上げる姫華の目は自信に満ちている。仕方なしにといった感じで立ち止まったカゲは顔をしかめた。

「はぅっ……! 無理だ。た、頼むから視界に入らないでくれ」

毒々しい色彩が目に入ると膀胱が無駄に暴れるのだ。もう既にヤバい。

事情を知らない姫華の顔が、羞恥で真っ赤になる。

「貴様! 姫華お嬢様に何という無礼を!」

「ただでは済まんぞ!」

冷泉家の護衛たちが飛び出してきた。

「やめとけって」

カゲがポケットに手を突っ込んだままヒラリと身をかわすと、冷泉の護衛たちは勢い余って正面衝突。床に伸びてしまった。

トイレを我慢してクネったり、トイレを探して彷徨さまようことで危険を回避できる。これが彼の能力なのだ!

ともあれ、トイレへまっしぐらのカゲである。

「ぬぁにをやってるのよ、アンタたちはァッ!」

姫華の憤怒の叫びが、ステンドグラスの大窓を震わせた。
 
 

(ああ、昨日は眠れなかったわ……)

少し先を歩いているヒカリお嬢様である。睡眠不足のためか、今朝は自慢の黒髪に何度櫛を通しても納得がいかなかった。

奏斗様のこと。姫華たちの話を聞くまで、すっかり忘れていた。

どうして忘れてたんだろう。私の王子様なのに。

頭の中では、憧れの王子様とはかけ離れたものがグルグル回っている。

──男っていうのはな。いつまでも甘えたがりなんじゃよ。

“Part of Your World“を奏でるピアノの響きと、祖父の声。

あの人の、子犬みたいな目とクシャッとした笑顔。

気がつくと、いつもそればかり。
そして、カゲの声。

──恋、だな。


(ああ。お嬢様は、一体どうしてしまったんだ)

深いため息ばかりつくヒカリに付き従いながら、不安で心臓がはち切れそうな護衛・鈴木さんである。

(ご病気なのでは……!?)

寝不足である。
ヒカリのこととなると何かと過剰になるのが胡桃沢くるみざわ家。使用人も例外ではない。

「泥棒さん」

トイレから戻った新入りの護衛に、鈴木さんは声を潜めて話しかける。

「お嬢様のご様子、おかしいと思いませんか? ご病気では」

ポケットに手を突っ込んで歩いていたカゲは、「んあ?」と眠たげな声を上げた。

「まあ、病気っていえば病気かもな。こういうのは」

耳を掻きながら呑気に答えるカゲに反して、鈴木さんは蒼くなる。

「早退して主治医に診せましょう!」

「医者にどうこうできるもんじゃねえって」

笑いながら肩を叩かれるも、気が遠くなっていく鈴木さんである。ヒカリの後ろ姿が霞む。もう手の施しようがないだと!? お嬢様……!
 
「じゃな」

放心する鈴木さんに手を振って、カゲは当たり前のように姿を消した。何日も一緒に仕事をしていると、鈴木さんにもカゲの行き先は予測できる。

(またトイレか! いい加減、医者行けよ!)

「午後、音楽の授業があるでしょ?」

昼休みの音楽室。
出し抜けに声をかけられて、ヒカリは顔を上げた。

「考えてみたんだよ、胡桃沢さんに言われたこと」

奏人先生が何気なく押した鍵盤から、ポーンと抜けるような高音が響く。

「楽しめる授業。やってみようと思ってさ」

奏人先生と目が合うと、ヒカリは反射的に目を逸らしてしまう。

「そ、そんなのできるの? 今朝出席とった時だって、返事したの私だけよ?」

ああ。こんなこと言いたいんじゃないのに。
ヒカリはギュッと目を閉じる。

しかし、ヒカリが指摘したことは事実だ。他のお嬢様たちは、奏人先生を完全に見下している。

「アハハ、まあね」

ヒカリがそろそろと顔を上げると、奏人先生はあの日みたいにクシャッと笑っていた。

「ふーん。やりたいなら、やれば?」

奏人先生は、やっぱり子犬みたいだ。

先生は笑みを湛えたまま鍵盤に指を置く。

心で、上手くいくことを願った。目が合うと素っ気なくしちゃうのに、ピアノを弾く先生からは目が離せない。

先生は覚えててくれた。私が言ったこと。
だったら私、見守りたいな。

(ああ、この気持ち)

恋、だな。
カゲの声がこだまする。
 
(これが本当の恋なのね……!)

ピアノの音色が盛り上がるにつれ、ヒカリの鼓動も昂っていく。

秘密めいた場所で二人きり、立場的には先生と生徒という魅惑的な状況から、コロッと恋に落ちるヒカリお嬢様である。

 (本当の王子様は、すぐ近くにいた──)

箱入り令嬢、盛り上がるも…

あれから先生とどんな話をして、どうやって教室に戻って来たかも覚えていない。

気がついたら2年A組のソファ席に座っていた。奏人かなと先生の音楽の授業は、この後すぐ──。

キィっと扉が軋む音がした。両開きの真っ白な扉から、奏人先生が入ってくる。お嬢様たちは、お喋りを止めない。

「今日……は、音楽……で行いま……」

奏人先生の声は、またも掻き消される。ヒカリはギュッと両手を握りしめて俯いた。

(ああ、ハラハラするわ)

頑張って!

祈るような思いで顔を上げると、奏人先生と視線がぶつかった。いつもみたいにオドオドしていない。

奏人先生は、キュッと唇を引き結ぶと、意を決したように言った。

「今日の授業は音楽室で行います」

お喋りに興じていたお嬢様たちが呆気に取られる。実習が始まって以来、奏人先生がこんなにハッキリ物を言うのは初めてなのだ。

「い、行きましょう!」

お嬢様の圧を正面から受けつつも、奏人先生は引かずに頑張る。

しばしの沈黙の後、教室が割れんばかりの不満の声が噴出した。甘やかされて育ったお嬢様軍団は、指示を受けるのが嫌いなのである。

「突然内容を変えるのはどうかと思います。先生、許可は出したのですか?」

腕組みをしたまま、姫華が担任の方へ声をかける。取り巻きが「そうよ、そうよ」と同調すると、姫華は意地悪そうに目を光らせた。

「この授業の担当は彼です」

担任は、銀縁眼鏡のブリッジを押さえながら素っ気なく答える。

学園の中でも厳しいので有名な彼女が「移動しろ」と言えば、お嬢様たちは渋々でも従うはずであった。が、今回は敢えてそれはせず、実習生に任せる姿勢のようだ。

「分かりました。参りましょう」

ヒカリがスッと腰を上げる。すかさず姫華が噛みついてきた。

「やけに肩を持つじゃない」

取り巻きがクスクスと笑い出す。ヒカリがゆっくり振り返ると、姫華は嘲るように言った。

「私が何も知らないとでも? あなたがお昼休みの度に音楽室で何をしているか。笑っちゃうわ。あなたにはお似合いだけど」

奏人先生が驚いたような顔をし、何か言いかけたところをヒカリが遮った。

「だったら何だっていうの?」

ヒカリは、強い目でソファ席に座ったままの面々を見渡す。

妄想モードに入っちゃってる彼女に怖いものはない。むしろ、外野から野次が飛んでくる方が盛り上がるのだ!

「ああ、そういうこと。ごめんなさい、気づいて差し上げられなくて」

ヒカリは、満更でもない表情で続けた。

「身体が重くて動けないのね。その歳で大変。そうね、あなたはここにいらっしゃればいいわ」

姫華がギリリと歯を食いしばった。

(何だ、あいつら?)

カゲは、ゾロゾロと移動するお嬢様たちを遠巻きに見ながらコインを弾き、器用に手の中に納めた。

トイレのついでに金目の物を探しながら校内をうろついていたのである。

収穫は、職員・護衛用トイレの前に落ちていた十円玉一枚であった。

防音ガラス張りの音楽室。

敷き詰められた毛足の長いガーネットカラーの絨毯と、真っ白なグランドピアノ。扇形の部屋の形に沿ってシングルソファがいくつか配置され、小規模な音楽会でも開けそうである。
 
姫華はドレスの裾を大きく広げて後ろのソファを陣取り、取り巻きたちがそれに倣った。

ヒカリは、やや心配そうに奏人先生の方を窺いながら最前列のソファに腰を下ろす。

先生は、ちょっと困ったような顔をしていた。

移動させられた不満と物珍しさで、お嬢様たちはまたザワザワとし始める。

奏人先生は大きく息を吸い込むと、ピアノの椅子に腰掛けた。ヒカリが初めて目を奪われたあの時のように。

やがて、生徒たちの間を切ないような高音の旋律が駆け巡る。お喋りが止んだ。みんな驚いたような表情で奏人先生に注目している。

「これは、この間説明したイ短調の曲です」

奏人先生は、ちょっとぎこちない調子で言った。

「何て曲ですか?」

ヒカリの斜め後ろから声がかかる。姫華たちのグループとはつるんでいない、真面目そうな子だ。

予定と違う授業に初めは戸惑ったようだが、今は完全に奏人先生のピアノに引き込まれている。

「ああ……今のは適当に弾いただけだよ」

えーっ! と、かしましい声が防音仕様の窓をビリビリと振動させた。

「……え?」

奏人先生は、わけが分からないような顔をしている。潮目が完全に変わった。グランドピアノの周りに生徒がワッと殺到する。

あれを弾いて、これを弾いて。
奏人先生はあっという間に囲まれて、次々とリクエストを受ける。

みんな澄ましていてもまだ高校生。箱入り娘な分、素直でもあるのだ。

(みんな今頃気づくなんて遅いわ。凄いんだから。私の奏人先生は)

ヒカリは、誇らしい気分で胸を張る。自分だけは、もっと前から知っていた。先生のピアノを。そのことが嬉しくてたまらない。 

人だかりの間から、奏人先生がヒカリを見ている。

目が合うと、先生は微笑んだ。ヒカリは頬に熱を感じて、それから胸がトクンと跳ねた。

「少しは授業っぽいこともしないとね」

あれもこれも弾いてほしいとねだる生徒たちに奏人先生が提案したのは、前日までの授業で習った『短調』の曲をリクエストすること。

少し変わった授業に、生徒たちは熱中した。歌謡曲でもCMソングでも。奏人先生は、何でもピアノで弾いてしまう。

「これは知ってる?」

合間に、奏人先生からも問題が出る。

誰もが聞いたことがあるようなピアノ曲。先生は、弾きながら作曲者や時代背景などを簡単に説明してくれる。

ヒカリにも馴染みのある曲ばかりで理解しやすかった。それは、ピアノ王子・奏斗かなとのCDのお陰なのだが、妄想モードに突っ込んでいる彼女は気づいていない。

今、奏人先生が弾いているのは『月光』の一節。

「月光っていうのはね。ベートーヴェンの死後につけられた名前なんだよ」

生徒たちは、驚いたように顔を見合わせる。先生は、鍵盤に指を走らせながら続けた。

「正式名称は『ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 幻想曲風ソナタ』……」

そこで手を止めた先生がさらに説明してくれる。

月光の愛称がついたのはベートーヴェンの死から5年後。ドイツの詩人ルートヴィヒ・レルシュタープが、「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現したのが由来だ。

「これが『月光』だと知ったら、ベートーヴェンは驚くだろうね」

奏人先生の言葉に、みんなが笑った。ここで、授業終了の鐘が鳴る。

(素敵……)

ヒカリの目が潤む。奏人先生以外、何も見えない。

「今日の授業はここまで。聞いてくれてありがとう」

先生と目が合ってときめいた瞬間。一気に現実に引き戻された。

「まだ聞きたい!」

生徒たちが不満の声を上げたのだ。始まる前のことを思い返せば、何ともゲンキンなお嬢様たちである。

ヒカリは自分のことのように嬉しくなる。

人波の向こうで、奏人先生は困ったように笑っていた。子犬みたいに。

「じゃあ少しだけ。最後は明るい曲にしようね」

先生が鍵盤に指を落とす。初めのワンフレーズだけで、生徒の間からため息が漏れた。

気づけば、姫華までもが前に出てきて目の色を変えている。

 
(この曲……)

ほろ苦さが喉にせり上がってくる。説明のつかない何かが、ヒカリの胸を圧迫した。

この旋律。大好きな曲。
いつも、お昼休みにここで聴かせてくれた。

“Part of Your World“


奏人先生が、ヒカリだけのものではなくなった瞬間だった。


いきなりのモテモテ

奏人かなと先生!」

姫華が、わざとらしくヒカリの肩にぶつかって行く。

例の、音楽の授業の翌日。
あの授業以来、奏人先生の立場は一気に逆転した。あれだけイジメていたクセに、みんな掌を返して“カワイイ”とか言っている。

お嬢様たちが先生に群がった。中心にいるのは、もちろん姫華だ。先生に抱きつかんばかりの勢いで音楽室へ連れて行こうとする。

「今行くから」

困ったように笑いながら、奏人先生はみんなと教室を出る。

一瞬振り返った奏人先生に、ヒカリは軽く手を振った。姫華たちなんかと混ざるつもりはない。

(私だけの先生だったのに)

ちゃんと笑えていただろうか。ヒカリは、取り残された教室で足元を見つめた。

「違うか」

小さな呟きが、絨毯に吸い込まれていく。

奏人先生は、生徒たちのことを分け隔てなく見てくれる優しい先生。自分も、そのうちの一人なのだ。

「おい、メシだぞ」

廊下でカゲが呼んでいる。ヒカリは弱々しく笑うと、護衛たちと連れ立って食堂へ向かった。

「やっぱり、もういいわ。これあげる」

ヒカリは力のない声でそう言い、マイセンの皿を押しやった。

煩わしい姫華たちがいないので、食堂はこの学院本来の上質な空間を作り出している。

「しかし、お嬢様……」

「なかなか美味ぇじゃねえか」

鈴木さんが心配する一方、カゲは皿に乗っていたパンケーキを手掴みでムシャムシャとやり始める。

「泥棒さん!」

温厚な鈴木さんが、珍しく語気を荒げてカゲの頬をつねった。カゲは口の中にパンケーキを詰めたまま目を尖らせ、負けじと鈴木さんの頬に掴みかかる。

「にゃにふぃやがりゅ(何しやがる)!」

「ふぉろほーしゃんはにゃにもふぉもふぁにゃいんれしゅか(泥棒さんは何も思わないんですか)!」

睨み合う二人。
鈴木さんを睨んだまま、カゲはゴクンとパンケーキを飲み込んだ。

温厚な鈴木さんがこんなことをするのは、カゲの責任である。カゲがちゃんと教えてあげないから、鈴木さんはヒカリが不治の病だと思い込んでいるのだ!
 
(奏人先生……)

ヒカリは上の空だ。
取っ組み合う護衛たちなど眼中にない。

「そこの護衛! こちらへ来なさい!」

見回りの教師から鋭い声が飛ぶ。この学院では、態度の悪い護衛は怒られるのだ!

(先生、今頃どうしてるかしら?)

姫華にベタベタされているのか……。そう思うと胸がキリキリする。

「うっ! 腹が痛ぇ。鈴木さん、あと頼んだ」

カゲの姿が消えた。職業柄、逃げ足は早い。

「ズルいぞ、泥棒さん! 旦那様に言いつけてやるからな!」

でも、もしかしたら本当にトイレかもしれないと思う優しい鈴木さんである。

ヒカリは、重い気分で頭上のシャンデリアを見上げた。

(恋って、もっと楽しいものだと思ってた……)

午後。
ヒカリたち2年A組の担任が英語の授業を行なっている。
 
ずっと、胸が痛い。

昼休みの後、奏人かなと先生は姫華たちに囲まれて帰ってきた。そして姫華は、わざわざヒカリのソファ席まで来て耳打ちしたのだ。

「奏人先生に、ピアノ教えてもらったのよ。手取り足取り。素敵な時間だったわ」

ほとんどのお嬢様は幼少期からピアノくらい習っている。姫華だってそうだし、ヒカリも小学生くらいまでは屋敷に講師を招いていた。

ただ、そういうピアノ講師というのは大抵厳しい。面白くもない練習曲を課題に、テンポがどうのフレーズがどうのと口酸っぱく注意され続ける。

それに比して、奏人先生のピアノは自由だ。姫華が「素敵な時間」と言うのも無理からぬことであった。

手取り足取り? 姫華の言うことなんて信じない。
姫華なんかに負けない。

ヒカリは、教室の隅に控える奏人先生を見つめた。奏人先生は、真剣な表情で授業の様子を見学しながら時折メモを取っている。

(好きな人を見てるのに、どうして泣きたくなるのかしら)

奏人先生が、ふいっと顔を上げた。穴が空くほど先生を見つめていたヒカリと、視線がかち合う。

(あっ──)

どぎまぎしていると、奏人先生は少し笑った。それから、持っていたボールペンのノック部分を前方の大型スクリーンに向けて動かす。『ちゃんと授業を受けなさい』ってことだろうか。

秘密のやり取り。
たったそれだけのことで、胸の痛みは和らぐ。

姫華は居眠りをしていて気づいていない。昼休みにはしゃぎ過ぎたためか。

(フッ! 所詮は姫華も悪役ね!)

次第に、いつもの太々ふてぶてしさが戻るヒカリお嬢様である。

(こういうのは、邪魔が入った方が盛り上がるのよ……!)

ヒカリは、そう思っていた。
この時までは。

ところ変わって胡桃沢くるみざわ邸。

授業を終えて帰宅したのだ。午後の授業の余韻もあって、ヒカリは上機嫌だ。

(ああぁーっ!)

ヒカリは、クッションに顔を埋めて手足をジタバタと動かした。あの時の奏人かなと先生の笑顔を思い出すと、こそばゆくてじっとしていられない。
 

一方、階下では男たちが密談している。

吹き抜けのリビングで、ソファに腰掛けた春平しゅんぺいが言った。

「何を言っとるんだ、鈴木さん。ヒカリは病気じゃないぞ。主治医が毎月チェックしとるんだから間違いない」

鈴木さんは、あるじにも「さん」付けで呼ばれている。

「し、しかし泥棒さんが」

鈴木さんがカゲを見下ろす。直立不動の鈴木さんと執事・橋倉の足元で、カゲは白く磨き上げられたフロアに片肘をついて寝そべっている。

基本、使用人はソファに座れないのだ!

(あれ、煙草がねえな)

一服したくてスーツの懐を探るが、煙草が出てこない。直後、上からグシャリと音がした。見上げれば、橋倉が煙草の箱を握り潰している。

「どこでくすねたか知らんが、屋敷内は禁煙だ」

「いつの間に……万能か」

このオッサン、《《その道》》でもやっていけるんじゃないか?

カゲは、一層警戒心を持って橋倉を見上げた。

「何か知っておるなら旦那様にご報告せよ」
 
橋倉がカゲの襟首を掴む。

「大したことじゃねえって。かくかくしかじかだ」

「やはり相手は教師か! けしからん!」

「その男がお嬢様をもてあそんだのか!」

話を聞いた橋倉と鈴木さんは、悲痛な声を上げてその場にくずおれる。

(何故そうなる?)

カゲは、少しだけ奏人先生に同情した。

「慌てるでない、皆の者」

それまで無言だった春平が、威厳ある声を発する。

「俺は別に慌ててねえ」
 
「しかし、旦那様! お嬢様が身近な人間に熱を上げるなど!」

「そうです! これまでは架空の人物や有名人だった。捨て置けませんぞ!」

春平は「まあ待て」と、言い募る使用人たちに大きな掌を向けて場を鎮める。そして、すっくと立ち上がると不敵に目を光らせた。

「だって、教育実習もうすぐ終わるじゃーんっ」

嬉しそうにピースサインを作る春平。

教育実習は二週間なのだ。

鈴木さんが顔を上げて「おぉっ」と叫んだ。

「終わってしまえばこっちのもの!」

「非常時にも取り乱すことなく……。お見それいたしました」

橋倉がうやうやしく頭を下げる。

(また茶番か)

カゲは耳を掘りつつ、そろそろかなぁとトイレの方角を見遣った。

そのさらに向こう。
螺旋階段の中ほどに、揺れる人影が──。

ヒカリであった。

たまには鈴木さんに宿題をやってもらおうと思ったのだ。

しかし、ヒカリは青い顔でその場を動けない。

祖父のよく通る声は、ここにも届いていた。

(忘れてた……奏人先生が教育実習生だってこと)

教育実習は、既に一週間を切っているのであった。


◇第二話③へ続く◇


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