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ヒカリとカゲ 箱入り令嬢の夢見がちな日常 第一話

本作は、世間知らずな令嬢の恋を、トイレが激近い泥棒が見守る(面白がる)ドタバタおトイレLOVEコメディである。

財界のトップ・胡桃沢くるみざわ家の令嬢ヒカリ。恋をしがちな17歳の前に、一人の男が現れた。
彼は少々名を知られる泥棒で、通称が「カゲ」であること以外は謎に包まれている。
胡桃沢邸に忍び込んだカゲが、運悪くヒカリに見つかってしまったのだ。
彼には、危険が近づくとトイレが近くなるという特性があった。
ヒカリは気まぐれで彼を雇う。
それ以降はヒカリが恋愛対象を見つけるたびに例の「特性」が発揮され、カゲは騒動に巻き込まれていく。

あらすじ

第一話 泥棒

♡プロローグ♡

ああ。
あの夜空の向こうには、何があるのかしら?

高級ブランドのお洋服も、とっても高価でキラキラのアクセサリーも。

苦労せずに手に入る。

毎日、毎日、きれいでカワイイものに囲まれて。

わたしは、この世でいちばん幸せな女の子。

でも、どこか満たされない。

籠の中の鳥でいるのは、もう飽きた。

自由に空を飛びたい。
連れて行ってほしい。
広い世界を知ってる誰か──。

闇に支配される世界。
一人の男が獲物を狙っていた。

暗闇と同色のフードの下で、男の目は油断なく光る。

(あぅっ……)

男の身体が異常を知らせた。

(くそっ! こんな時にっ)

今回の獲物は大きい。
しかし──。男は身震いした。

(まぁ、しかし……。”コレ”が起こるってことは、止めといた方が良さそうだな)

意外にもあっさりと、男は引く算段を始める。

伝ってきたロープにつかまると、男の姿はスッと消えた。動きが速い。

一瞬の後には、男は既に屋根の上でロープを回収していた。

と。折悪しく、もう一つの人影が屋根の上に現れる。

対峙する二つの影。

こんなところで油を売っている暇はない。

男は、人影に向かって言った。

「同業者か? 止めときな。ここは、この後ヤバいことになるぜ」

人影は何も答えず、ただ男を馬鹿にするように肩をすくめる。

「忠告はしたぞ」

男は人影の挑発に乗ることなく、素早く姿を消した──。

残された人影は、一拍置いて鼻でわらった。

(ヒヨッコが……。この辺のパトロールは、もうとっくに終わってんだよ)

歌うように呟いて、瓦屋根の上をそろりと移動する。

ここの爺さんは多額のタンス預金をしている。

人影は、高揚感にゴクリと唾を飲み込んだ。

久々に大金が手に入る──。

その時。
周囲がパァッと明るくなった。

投光器だ。

見下ろせば、いつの間にか赤色灯を光らせたパトカーが数台で屋敷を囲んでいる。

不意をつかれたせいで逃げ場を失った。

「畜生……!!」

悪態をついても、時すでに遅し──。

 ーーー

男は駆けていた。
後方でパトカーのサイレンが聞こえる。
勘が当たっていたのだ。

彼の同業者たちは口を揃えて言う。
その「勘」が羨ましいと。
 
(馬鹿野郎! 人の気も知らないで……!)

時間がない。
こんな時、男はいつも、自分の身体を呪いたくなる。

(俺は! ただ本能に従って、向かうべき場所を探してるだけだ……!)

トイレを──!!!

箱入り令嬢、ロミジュリ的展開に期待する

高級住宅街の夜は、それに相応しい静謐せいひつさの中にあった。
 
それぞれの住宅の門灯と、等間隔に配置された街灯が上品に灯るのみである。

その一角に、ひときわ目を引く白亜の豪邸がドドンとそびえ立っている。
 
セレブな方々が住まう屋敷も怖気づく大豪邸だ。

その豪邸の正面。
二階の広々とした洋風バルコニーに、少女が一人たたずんでいた。

(わたしだって、胸がキュンとするような恋をしてみたいわ!)

先ほどから物思いにふけるこの少女。

艶やかな黒髪が風になびくと、細い首があらわになる。

童顔で美女とは言い難いが、可愛らしく整った顔立ちだ。

 
彼女の祖父は財界の鉄人、胡桃沢くるみざわ春平しゅんぺい

つまり彼女は、けっこうな”お嬢様”である。

なるほど、よくよく見れば楚々とした雰囲気だ。
 
しかし、茶色がかった大きな瞳だけは勝ち気に光っている。
 

胡桃沢ヒカリ。
彼女の側には常に護衛がつく。
通うのは名門の女子校だ。
恋愛対象になりそうな異性との交流は皆無である。

ゆえに、憧ればかりが募る17歳──。

今もわざわざレース生地のロングワンピに着替えて寒風にさらされているのは、「ロミジュリ」的展開に憧れてのことである。

雰囲気を出すため、部屋の灯りは消した。

他の部屋と玄関ポーチの灯りにぼんやり照らされて、ヒロインの気分を味わうヒカリお嬢様である。

(ああ。誰か私をさらって……)

籠の中の自分を奪って行くのは、どんな人だろう。

白馬の王子様は飽きた。

ちょっと危険な香りがする方が良い。

彼女の中では、ちょうどそういうのがブームなのだ。

実在した大泥棒をモチーフにした物語や、『小さくなっても頭脳は大人』な探偵が主人公の漫画に登場する『怪盗なにがし』に影響されているのは言うまでもない。

(誰かと取り合ってくれたらもっと嬉しいんだけど……。家にはおじいちゃんと執事の橋倉と、他の使用人しかいないし)

妄想に浸りながら、妙なところで現実が顔を覗かせる。

想像が広がらないのは、世間知らずであるが故か。

ヒカリの両親は、ヒカリが小学校へ上がった頃に不慮の事故で亡くなっている。

遺されたヒカリを可哀想に思った祖父は、ヒカリのことをそれはもう過保護に育てた。

ヒカリは、祖父や使用人たちに常軌を逸するほど甘やかされて17歳になった。

本当にさらわれたところで、その後待ち受ける苦労など何も分かっちゃいないのである。

と、そこへ。
高級住宅街には似つかわしくない足音が近づく──。

泥棒、初っ端から切羽詰まる

(ああっ……ヤバい!)

先刻から切羽詰まっているこの男。
お察しの通り、泥棒である。

彼は今、トイレを探している。
でも見つからないのだ。

彼は考えた。

いい大人が粗相するくらいなら、その辺で用を足してしまおうかと。

褒められた行為ではないが致し方ない。緊急事態だ。

……お食事中の方、大変申し訳ない。しかし。

(くっ……駄目だ! 腹の具合まで悪くなってきやがった……!)

どこまでもツイていない男である。

(生き地獄だ!!)

腹の中で、腸がのたうち回っている。

 
通称「カゲ」。それが彼だ。
それ以外は全て謎。

泥棒の素性が簡単に割れてしまっては困るのである。

カゲは、泥棒界では少々名が通っている。
理由わけは、勘の鋭さと逃げ足の速さであった。

同業者たちは口を揃えて言う。

自分と組んでくれないか、見張りだけでもいい、分け前ははずむ、と。

それくらい、泥棒界では逃走ルートの確保が重要なのである。

しかし、カゲは仲間と組んで「仕事」をすることはない。

誘いを受けるたび、カゲは腹の中で叫んでいる。おまえらは何も分かっちゃいない! と。

実はカゲの「勘」が発動する時、身体にはある苦痛を伴っている。

それは──。

(仕事の前に、ちゃんとトイレ行ってるのに……!)

この男、危険を察知するとトイレに行きたくなるのだ。強烈に。

彼は逃げ足が速い訳でもないし、的確な逃走ルートを見出せる訳でもない。

トイレを探して彷徨さまよっているだけなのだ。

カゲは、この「強烈にトイレに行きたくなる」状態を「波」と呼んでいる。

どう格好をつけても、トイレが近いだけなのだが……。

(こんなこと、カッコ悪すぎて誰にも言えやしねえ!)

泥棒稼業には向いていないように思われる。

しかし彼がトイレを欲する時、危機が迫っているのもまた事実。確率は百発百中だ。

ならば。
トイレの位置情報を事前に調べておけば、と言いたくなる。

しかしカゲ曰く、それは泥棒としてのポリシーに反するのだとか。

「獲物を断念することを前提に、トイレの場所を調べておくなんて有り得ねぇ!」

 だそうだ。

つまらない意地のせいで、今日もトイレを探して彷徨うカゲ。

(あれ? なんか楽になってきたぞ……)

確かめるように腹をさすりながら、近くの壁にもたれる。そこでハッとした。

いつの間にか、高級住宅街に入り込んでしまったらしい。

カゲがもたれかかっているのは、その中でも群を抜いて立派な白亜の豪邸の外壁だった。

これって出会い?

腹の中が落ち着いてきたところで、カゲは考えた。

この辺りは金持ちの屋敷ばかり。
先ほど獲物を諦めた代わりに、ここらで一仕事して行きたいところだ。

何故か「波」も遠のいている。
ということは、ここに危機は迫っていないということ──。

(いや、待て)

カゲは慎重になる。
こういう屋敷は監視カメラも多いし警備も厳重だ。
計画なしに盗みに入るのは無謀……。

「おいおい、嘘だろ?」

思わず声が漏れる。

注意深く一回りしてみて驚いた。
眼前にそびえる白亜の豪邸、警備システムが解除されている。
 
警備会社の不手際か?

(どっちにしてもツイてる!)

今は何かにつけてキャッシュレスだ。

手っ取り早く現金を手にしたい泥棒にとっては厳しい時代──。

とはいえ、現金もあるところにはあるものだ。

それに、こういう屋敷なら高く売れそうな宝飾品も一つや二つじゃないだろう。

カゲはほくそ笑んだ。

黒いパーカーのフードを深くかぶり直すと、すぐさま行動に移る。

 ♡ ︎ ︎

(あーあ。今夜も私を奪いに来る人はいないのね)

まだバルコニーで寒風に吹かれていたヒカリお嬢様は、小さくため息をつく。

……と。眼下に広がる庭を、何かが横切ったような気がした。気のせいか。

いや、違う。
暗い庭に目を凝らしていると、また何かがシュッと動いた。

(もしかして、泥棒さん!?)

思わずバルコニーの柵に手を掛ける。
本当に自分を拐いに来たのだろうか。
ヒカリの胸は高鳴った。

しかし、この屋敷には無数の警備システムが張り巡らされているはず。

ここに辿り着くまでには、数多あまたの危険を乗り越えなければならない。

正にいばらの道だ。

(そこまでして、わたしを……)

胸が熱い。愛しさが込み上げてくる。ヒカリの目には、うっすらと涙が滲んだ。

(待って! 一度鏡をチェックしなきゃ!)

記念すべき出会いの瞬間だ。
身だしなみを整えておかなくては!

ヒカリはきびすを返して暗い部屋に飛び込んだ。

(待っててね、泥棒さん!)

ロココ調のドレッサーのライトをつけて、髪型をサッと整える。

「……よし!」

ヒカリは慌ただしく引き返す。

開けっ放しの大きな両開きの窓から裸足でバルコニーへ飛び出し、柵に走り寄った──。

柵の外側から、男がぬっと姿を表した。
互いの顔がぶつかるかというほど近くに。

泥棒、大失態

(は──!? 何だ、この女!?)

至近距離に、何故か女の顔がある。

家人に見つかった。
カゲ、泥棒人生初の大失態である。

バルコニーに人の気配はなかったはず。
電気の消えている部屋を狙ってきたのに──。

「泥……棒……さん?」

不意に、女がかすれた声を上げた。
目が潤んでいる。

(よく見りゃガキじゃねえか。恐怖で動けないのか?)

だったら、相手が固まっている隙に少しでも遠くへ逃げるに限る。

カゲは素早く行動に移ろうとした。しかし、その時──。

「はぅっ……!」

再び、強烈な「波」が襲って来た。

(な……! 遅えだろ! 危機を知らせるのが……!)

♡ ︎ ︎

目の前で、愛しい人が身をよじっている。
一体何をしているのだろう。

(も、もしかして! わたしの、あまりの美しさに悶えているの!?)

ヒカリは、嬉しさと恥ずかしさで熱くなった頬に手を当てる。

待ち焦がれた泥棒は、黒いパーカーに黒の革手袋。
深く被ったフードで目元は見えない。

(とっても悪そうだわ! 危険な香りがする……!)

パーカーのフードからは、スッとシャープな輪郭が見えている。

苦悶に歪む口元が妙になまめかしい。

速くなる鼓動と、胸を締め付けられるような感覚。

(これが……これが、恋なの……!?)

もう、ときめきを止められないヒカリお嬢様である。

(ああ──。早くそのフードを脱いで顔を見せて!)

そして、わたしを連れ去ってほしい。

ヒカリは胸の前で手を組み、潤んだ瞳で泥棒を見つめた。

突然、部屋の扉がノックされた。

「お嬢様、いかがなさいました? 物音がしたようですが」

「ヒカリ? 大丈夫か」

執事と祖父だ。
早く──。ヒカリは思わず泥棒の腕にすがりつく。

耳元で微かに聞こえる舌打ちの音。

泥棒が柵を乗り越えてくると同時に、強い力で引き寄せられた。

(ああっ。なんて強引なの!? すごいドラマチック……!)

「失礼します」

執事がドアを開け、電灯のスイッチを押す。
広い部屋がパッと明るくなった。

(……ん?)

首元に違和感を感じるヒカリ。
見間違いでなければ、これは小型ナイフ。

泥棒が、想像とかけ離れたドスのきいた声を上げた。

「おい! こいつが見えねえのか!」

(え──?)

わたしを迎えに来たんじゃないの?
これは、本当にヤバいやつ……?

ヒカリにナイフを突きつけて、泥棒はすごんだ。

「屋敷を汚されたくなければ、トイレ貸しな!!」

泥棒、危機を脱する。なお箱入り令嬢は不機嫌

高級住宅街の中でもひときわ目を引く白亜の城、胡桃沢くるみざわ邸──。

令嬢の部屋から続く洋風の広いバルコニーは、静寂に包まれていた。

令嬢の危機に駆けつけた彼女の祖父と執事も、時が止まったかのように微動だにしない。

シルクのガウン姿の祖父・胡桃沢春平は、財界の鉄人と呼ばれるに相応しく、70を間近にして無駄な贅肉のない堂々たる体格。

対して顔つきは柔和である。海苔のように黒々とした髪がトレードマークだ。

執事の方は、灰色の髪を綺麗に撫でつけた紳士である。

対峙する者たちの間を、一月の冷たい風が吹き過ぎた。
 
(トイレって……)

ふつふつと怒りが込み上げる。
鮮やかに奪ってくれるんじゃなかったのか。それに……。

(何なんだ、その内股は!!)

ヒカリは、怒りにまかせて泥棒のすねを思い切り蹴り上げた。

(カッコわりぃ──!!)

ラグジュアリー感あふれるレストルーム。

ピカピカに磨き上げられた最新家電のような便座に腰を落とし、頭を抱えるカゲである。

何かのセンサーに反応したのか、小さなスピーカーからヒーリングミュージックが流れ始めた。

落ち着かない。トイレのくせに広すぎるのだ。

(あのガキ、腕を思い切りつかみやがって! あれがなければ、とっくに逃げてたのに)

ヤケになって金を脅し取ろうとしたら、「トイレを貸せ」と口走ってしまった。助かったけど。

(だったら初めから、トイレを借りにきたフツーの人っぽくしとけば良かった──!)

ともかく脱出だ。
カゲは上を向いた。

伸び上がって、天井裏に続く四角い蓋をパカッと開き……静かに閉じる。

先ほどの執事が、無表情に待ち受けていたのである。

(くっそ……万能か)

耳をすますと、レストルームの外にも人声がしている。

「すまんかった、わしが警備システムを切ったばかりに。あの会社は信用ならんくてのう」

「何で? R警備保障の会長さんとは旧知の仲でしょ?」

「あいつムカつくもん」

「またケンカ、おじいちゃん?」

ジジイ同士のケンカはともかく、外にいるにはガキと年寄りだけ。

なんとか突破できそうだ。

カゲはニヤリと笑うと、レストルームの扉を細く開けた。

突然、首根っこをつかまれた。
いつの間にか執事が戻って来たのである。

 (万能か!?)

この細っそりとした初老の紳士のどこに、そんな力が潜んでいるのだろう。

そのまま書庫のような部屋へ引きずられて行った。

不貞腐ふてくされて床にあぐらをかくと、目深に被ったフードをぎ取られる。


箱入り令嬢、現実を知るもお嬢様ぶりを発揮

(こんなのを運命の人だと思っていたの……?)

現実に直面するヒカリお嬢様である。
真っ黒なパーカーのフードから現れた顔は──。

歳がいっているようでもあり、意外と若そうでもある。細面でキリリとした目元は、一般的に見てそう悪くはない。

 一見すればヒカリ好みの優男やさおとこだ。

しかし、あの「内股でトイレを我慢する姿」は脳裏から離れない。

一度地に堕ちたイメージは、二度と回復することはないのだ。

そして、襟足のあたりまで不揃いに伸びた茶色がかった髪。清潔感がないのも大幅にポイント減である。

「通称カゲ。少々名の通ったコソドロですな」

二階の書庫。
執事・橋倉が落ち着いた声を発する。
ヒカリは、祖父の胡桃沢春平とともに無言で彼を見下ろした。

「何で知ってる? 万能か」

カゲの問いに反応する者はない。

これくらいは、万能執事・橋倉が取り仕切る胡桃沢家では普通のことである。

ヒカリは、カゲに対する興味が急激に失せた。

「……くしゅっ」

書庫の埃っぽさのせいか、鼻がムズつく。

「お、お嬢様がくしゃみをされたぞ!」

橋倉が青い顔で叫ぶと、メイドがカシミヤのストールを持って走って来た。

春平が大事そうにヒカリの肩を抱く。

「大変だ。ヒカリ、明日は学校を休みなさい」

「んー、そうね」

ヒカリはちょっと鼻をすすると、ストールをかき合わせた。

ガキ一人に大人が群がっている。
カゲは呆気に取られた。

(まあいいや、今のうちに逃げ……)

橋倉に首根っこをつかまれる。
気づかれてた。万能か。

結局、さっきと同じ場所に座らされる。

そこへ、料理人ぽい服装の太った男が駆けつけた。
橋倉が指示を出す。

「料理長! お嬢様が風邪を引かれた! 玉子酒を」

「なんと! すぐにご用意いたします!」

「んー、ココアがいいわ」

「それがいいでしょう! ココアだ!」

「はっ! ただ今!」

カゲは逃げるのも忘れてポカンとした。
なんだろう、こいつらは──。

ヒカリが何かを思い出したように「あッ」と頬を押さえる。

「学校に本を置いてきちゃったわ……残念」

「なんと! 可哀想に、我が孫よ」

ジジイが涙ぐんだ。

(……茶番か)

 いい加減、気持ちが悪くなってくる。
 カゲは、ボリボリと首筋を掻いた。

「あッ! 諦めなくてもいいじゃない、あの本!」

ヒカリがポンと手を打って振り向いた。

彼女の動きに合わせて、大人たちは右往左往している。

「ねえ、泥棒さん。取ってきてちょうだい。わたしの本」

泥棒、企む

「それがいい! 行ってこい、泥棒!」

「そうだ! 泥棒なら学校に忍び込むなど容易たやすいだろう!」

「すごいぞ、ヒカリ! おまえは頭が良い!」

祖父と執事が目を輝かせている。

我ながらナイスアイディアね。
ヒカリは、自分の閃きに満足した。

「素晴らしいですわ、お嬢様!」

「さすがだ!」

他の使用人たちの声を聞きながら大きく頷く。

全てが肯定されることは、ヒカリにとって当たり前である。

「あぁ? 勝手に決めてんじゃねーぞ」

泥棒は耳を掘りながらそっぽを向く。
ヒカリは眉を寄せた。

(何だろう、この感じ)

「やったら見逃してあげるわ。さっきの件」

「……」

「わたしが、あんたを使ってあげるって言ってんのよ」

まるで手応えがない。
泥棒は、こちらを向こうともしないのだ。

自分が何かを欲すれば、祖父や使用人たちは喜んで動いてくれるのに。

初めての感覚に戸惑う。

「たった今から雇ってあげる。これは命令よ。行って」 

珍しく自分がムキになっていることに、ヒカリは気づいていなかった。

♡ ︎ ︎

「まあ……報酬によっちゃ、やってやらないこともねえがな」

カゲは、自分を見下ろす面々をぐるりと眺めて口の端を歪めた。

「成功すれば考えてやる。その後はさっさと出ていくんだな、このコソドロが」

春平と目顔でやり取りすると、橋倉が言った。

「じゃ、よろしく」

そう言って背を向けるヒカリは、どことなく不機嫌そうであった。

メイドたちと春平が慌てて追っていく。

書庫には、カゲと橋倉だけが取り残された。

「いくら金持ちだからってよぉ。ちょっと歪んでねえか、この家の教育方針?」

「無駄口を叩く暇があるなら、さっさと行かんか」

橋倉はカゲの言葉には反応せず、事務的に言った。

「異常だ」

「泥棒に何が分かる! まだまだ尽くし足りんわ!」

激昂する橋倉。

「お嬢様は、お小さい頃にご両親を亡くされたのだ。おいたわしい! 我らがしていることなど、お嬢様にはほんの小さな慰めにもならん……」

グスンと鼻を鳴らす橋倉を横目に、カゲは「どうでもいいけどな」と呟いて立ち上がった。

「おい! 出口は反対だぞ」

「うっせえ、トイレだ!」

カゲは素早くレストルームのドアを閉める。

橋倉に『トイレさっき行ったじゃん』的な目で見られたくなかったからだ。

(もう一度トイレしとかないと不安……!)

「仕事」前だ。
念には念を入れた方がいい。

落ち着くと、カゲは便座に腰掛けたままニヤリとした。
ただでガキのワガママに付き合うつもりではない。

(あのジジイ、見覚えがある。財界の鉄人、胡桃沢春平。唯一の弱点は孫……あのクソ生意気なガキらしいな)

上手くすれば、大金が引き出せるか──。

泥棒、万能執事に翻弄されつつ仕事する

ジャキン──!!

することを済ませてレストルームのドアを開けたら、まずは無表情な橋倉の顔が目に入った。

続いて首に締め付けられるような感覚が走る。

「な、なんだ!?」

「首輪型時限爆弾だ」

「ふぁッ!?」

物騒な単語を、まるで夕食の献立のようにサラリと発する橋倉である。

その目つきは、先ほどまでヒカリに向けていた温かな眼差しとは打って変わって非情であった。

「何でこんなもん用意できんだよ!」

伸縮性のあるベルトは、カゲの首にピッタリとフィット。爆弾の重みが否が応でも伝わってくる。

正面にはカウンターらしき液晶画面付いているが、まだ作動してはいない。

カゲは、焦って首にまとわりつくそれに手を掛けた。

「おっと。不用意に触れると爆発するぞ」

そんなこと言われたら唾も飲み込めない。

(何故そこまでする……!)

報酬どころか、命の危機である。

「猶予を1時間やる」

短い。

「本を持って戻れば解除してやろう。肉片になるかどうかはお前次第」

橋倉は、そう言って小さなキーをすっと掲げてみせた。

「お嬢様のご命令は絶対だ」

「おまえ、泥棒よりタチわりいな!」

たかだか本一冊のために。

「お嬢様はお部屋でお休みになっている。あまりお待たせするでない」

俺の話、全然聞いてくれない……!

カゲは、もう一度レストルームに逆戻りした。
橋倉がドアを叩いてくる。

「何をしている!」

「うっせえ! もっかいトイレだ!」

怖い!
怖いと近くなる……!
「肉片」とか言うから──!

「いいのか?」

ドアの向こうから、橋倉の静かな声がする。

「タイマーは既に動いているぞ。あと58分と30秒だ……」

「ファッ!?」

♡ ︎ ︎ ︎

「ありがと。その辺に置いといて」

差し出された本を目の前に、ヒカリはローズピンクのソファに深々と身を沈めたまま言った。

イタリアの職人に依頼した特注品だ。

真珠色の猫足、ゴージャスな彫刻を施したフレームは、貝殻を形づくるように優美な曲線を描いている。

「お前、高校生だろ。もう少し文学的な作品を読めよ」

カゲの言葉に、ヒカリはムッとした。
彼が、すんでのところで「肉片」を回避されたことなど知る由もない。

「うるさいわね! それより、どうやって学校に侵入したの? あそこの警備、すごいのよ」

泥棒に頼んでまで手元に戻したかった本だが、ヒカリの興味は既に違うところにあるようだ。 

「企業秘密だ」

セキュリティ万全の建物に侵入する方法など作者も知らないが、何やかんやあったことだろう。

「大変だったんだぞ! 首に爆弾ぶら下げて、馬鹿みたいに広い校内走って! いろいろ物色したかったのに時間制限のせいで何も盗れなかったし!」

「言葉と態度に気をつけんか、泥棒」

側に控えていた橋倉が、カゲの頭を鷲づかみにする。

「デカい声で泥棒、泥棒言うな!」

「泥棒に泥棒と言って何が悪い!」

いい歳をした執事と泥棒がつかみ合いを始める。

しかし、揉める執事と泥棒をよそに、ヒカリは目の前の大型テレビに釘付けになった。

「ねえ……橋倉」

「はっ」

橋倉が急にかしこまる。
ヒカリは、大型テレビをじっと見つめたまま言った。

「彼は……誰?」

♡エピローグ♡

テレビ画面の中で、美しい青年が一心不乱にピアノを弾いている。

ヒカリは、画面に吸い込まれるように立ち上がった。

カシミヤのストールが、華奢な肩を滑り落ちていく。

「最近デビューした新人のピアニストでございますね」

テレビ画面を一瞥し、橋倉は即答した。万能である。

ヒカリの瞳が爛々と輝き始めた。

「彼の資料を集めて……! 明日まででいいわ」

「かしこまりました」

橋倉が、うやうやしく頭を下げる。

「何だ何だ、こんな軟弱そうな男に熱上げてんのかぁ? ガキには百年早いぜ」

ヒカリの様子を見たカゲは手を振ってせせら笑い、続いて「いっ!」と顔をしかめた。

橋倉が表向きは穏やかな表情でヒカリの側に控えながら、カゲの足を思い切り踏んづけたのである。

ピアノの青年に釘付けのヒカリは気づいていない。

「橋倉」

「はっ」

番組がCMに入ったところで、ヒカリはようやく顔の向きを変えた。

「適当に報酬渡しといて。カゲに」

「承知いたしました」

(あいつ、さっきの報酬の話、聞いてやがったのか)

とてもそんな風には見えなかったが。

「ねえ、カゲ」

ふいに名を呼ばれ、ハッとなった。

あのガキ、執事から聞いた名前を覚えてたんだ。
それだけのことが、妙に胸に残る。

「明日から、わたしの護衛について。橋倉もありがと。下がっていいわよ」

カゲなんて、同業者が勝手に呼んでるだけだ。

自分の本当の名前なんざ覚えちゃいない。
だが。

(生意気なガキだが、人を引きつける素質はあるらしいな……)

財界の鉄人の血を引くだけのことはある。

「フン。俺は気まぐれだし、使われるのも嫌いなんだ。いつまでいるか知らねーぞ」

言いながら、カゲは内心ほくそ笑んだ。

金目のものをごっそり引き出すには、雇われておいた方が都合が良い。

金持ちに恩を売っておいて良かった──。激しすぎるミッションだったけど。

「わりいな、オッサン」

部屋の外へ出たところで、苦虫を噛み潰したよう顔の橋倉に向かって言った。

「お嬢様は慈悲深いお方なのだ。くれぐれも裏切るような真似はするなよ」

橋倉に釘を刺される。

「そう言うしかねえよなぁ。お嬢様のご命令は絶対、だもんな!」

カゲが頭の後ろで手を組んでニヤリとすると、舌打ちだけが返ってくる。

「俺の寝床は?」

「今考えとる。私のことは橋倉様と呼べ」

「頼む。トイレの近くにしてくれ」

  ︎ ︎ ︎

さて──。
ヒカリお嬢様は、美しいピアノ男子にときめき始めた。

泥棒と恋に落ち、さらってもらうという妄想はこの瞬間に忘れている。

“危険な香り”系ブームが終わったのである。

画面越しのピアノ男子に、今度は何を期待しようというのか。

そして、カゲは。

まんまと胡桃沢邸に入り込めたと喜んでいるようだが、万能執事の監視の中、大金を引き出すのはなかなか骨が折れそうである。

今後の展開、覗いてみたくはあるが。

それはまた、別の機会に。

 
◇第一話 泥棒◇完
第二話①へ続く


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