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クラブ史の中でのダニエル・レヴィ〜Episode 3:ピッチ上での栄光か、経済的安定か アラン・シュガーの苦悩と失敗〜

 今回はアーヴィング・スカラーの治世により破産の危機に瀕してしまったスパーズを引き継いだアラン・シュガーの時代を振り返っていきます。前回のアーヴィング・スカラー編は下記のリンクからご覧いただけると嬉しいです。



 シュガーは崩壊しかけていたクラブを買取り、なんとか建て直そうとしたクラブの恩人である一方、終始トラブル続きでそれがピッチ上の成績にも影響し、スパーズの没落を招きます。シュガー治世を一言でまとめると、スパーズの財政的危機とまだ遠い過去ではない栄光の時代とのギャップに苦しんだ時代とでも言うのでしょうか。シュガー自身もだいぶ苦しんだようで、後に「フットボールの世界に入る前は、冗談好きで陽気な人間だったが、残念ながらフットボールの世界にいると、自分の周りに壁を作ってしまうようになった。」と言い残しています。確かに現在のシュガーのイメージは眉間に皺を寄せた気難しそうな爺さんって感じですもんね。

 ここからはそんなシュガーについて、彼の苦悩やレヴィにバトンが渡されるまでの状況を振り返っていきたいと思います。
 アラン・シュガーは一代でアムストラッド社を立ち上げ、家電やコンピューター製品製造業で億万長者となった叩き上げのビジネスマンです。今は「アプレンティス」というシュガーからの出資によりビジネスを始めたい若者がアムストラッド社で見習いとして働きながら、シュガーからの課題に取り組むというリアリティー番組での司会で有名です(このイギリス版アプレンティスは日本で放送されていないはずなので観ることはできないと思います。)。
 そんなアラン・シュガーは前回書いたとおり、ロバート・マクスウェルとのスパーズ買収争いに勝利し、当時のスパーズの監督であったテリー・ヴェナブルズと手を組む形で共同オーナーとなりました。シュガーとヴェナブルズの関係や当時のスパーズの空気感を理解するためには、まずヴェナブルズを知る必要があると思うので少しヴェナブルズの話をしたいと思います。

Alan Sugar & Terry Venables

 ヴェナブルズは昨年亡くなった際にTL上でもたくさん哀悼の意が表されたように、スパーズファンにとても愛された人でした。彼は選手としてもスパーズに在籍しており、スカラー時代の1987年にスパーズの監督に就任します。スパーズの監督となる前はバルセロナの監督として、ラ・リーガ優勝やUEFAチャンピオンズカップ決勝進出といった結果を出しており、フットボール界の大物でした。ちなみに当時のラ・リーガやセリエAはフットボールリーグ(プレミアリーグの前身)より進んでいるリーグと見なされていました。彼はスパーズの監督に就任すると、前回少し書いたガッザことガスコインを獲得し、彼を中心としたチームを作り上げます。その後の話になりますが、ヴェナブルズがスパーズから去った後にイングランド代表監督に就任すると、そこでもガッザを活躍させています。あんなマネジメントが難しそうな選手を手懐ける手腕はさすがですね。ヴェナブルズはピッチ外では選手に自由を与え、彼らがメディアからの批判に晒された際にはそれを擁護するといったことをしており、ガッザのみならず多くの選手から愛されました。また、彼の明るく簡潔な口調も愛された要因でした。昨年のヴェナブルズの訃報に対するガッザのポストからも彼がいかに選手達の心を掴んでいたかがわかります。

https://x.com/paulgazza_8/status/1728776556301128168?s=46&t=MUP-4Eq1hZeBJsipOX3xNw


 ヴェナブルズはシュガーと共にスパーズの実権を握る直前の1991年にスパーズを久々のFAカップ優勝に導いています。80年代後半にタイトルを取れなかった時代を過ごしたファンからしたら、待望のタイトルだったでしょう。魅惑的なチーム、選手達から伝わるポジティブな雰囲気、加えて久々のタイトル獲得、もうファンもヴェナブルズの虜だったと思います。
 シュガーが会長に就任すると、ヴェナブルズは監督職を離れ、最高経営責任者に就任することとなります。その後2年間の監督はピーター・シュリーブスや、レイ・クレメンスとダグ・リヴァモアによる二頭体制となりましたが、フットボール面はヴェナブルズに任されており、移籍を含めた最終的な決定には常にヴェナブルズが関与することになります。上記のとおり、ヴェナブルズは当時のスパーズの中では大きな権力を握っていました。また、彼は小説を共同執筆したり、探偵ドラマシリーズの共同制作者となったりとフットボールの世界を飛び越えて活躍していました。そんなヴェナブルズは選手、ファンだけでなく、マスコミからも人気があったようです。
 シュガー&ヴェナブルズ体制がスタートした当時は、ビジネスのプロであるシュガーがクラブ財政面、偉大な監督であるヴェナブルズがフットボール面を管轄するという分業体制は非常に期待が持てるものでした。しかし、この二頭政治はうまくはいきませんでした。前回のエピソードで書いたとおり、当時のスパーズの財政状況はかなり酷いものであり、シュガー政権下においてもミッドランド銀行へは約£11mもの負債がありました。膨らんだ負債や他の支出のためにシュガーを含めた役員は毎日駆けずり回ることとなります。当時のスパーズの財務責任者だったコリン・サンディは「毎日グラウンドに着くと、支払いの山が目に飛び込んできて、小切手にサインするのに1時間くらい費やした。」と語っているほどです。だいたいクラブがここまでの財政難に陥ると通常は給与の未払いが発生し、リーグが財政再建について勧告を出し、勝ち点剥奪だーとか、降格だーとかいう話はあるあるだと思いますが、シュガーら経営陣の奔走により、スパーズでは給与未払いは一度も発生しなかったようです。このような状況で、早くも1991年8月に両者が対立するきっかけが生じます。喧嘩するの早すぎやろ…。シュガーがサルデーニャ島でバカンスを過ごしていたとき、ヴェナブルズはシュガーへの断りなしにチェルシーからゴードン・デュリーを£3.3mで獲得します。その直後、またもチェルシーからジェイソン・カンディを獲得します(こっちはローン)。シュガーからすると、「こちとら財務状況を必死で建て直してるときに、勝手に何してくれとんねん!」となりますよね。一方、ヴェナブルズからすると「ワイはフットボール部門の責任者やで!選手の移籍もその範疇やろ!」というわけです。そもそもシュガーとヴェナブルズは性格的にも合わなかったみたいですね。いや、その辺はビジネスで手を結ぶ前にわかっておけよって話なんですが…。ちなみに、ヴェナブルズは自伝「Born to Manage」に「私は彼(シュガー)が非常に支配的な人物であることに気づいた。私たちの関係がうまくいかなかったのは、明らかに彼が私と主導権を共有できなかったことだと思う。彼は一人で仕切ることに慣れていた。」と辛辣なコメントを残しています。
 この対立については、どちらの意見も真っ当だと思うんですよね。シュガーはこの時すでにスパーズの財務状況改善のために、結構な額の私財を投資という形で投入しています。しかし、そんなシュガーの奔走はあくまで裏方の仕事であり、クラブの顔はヴェナブルズなわけです。そんなシュガーからすると、ヴェナブルズは自分が良い顔するためにシュガーを駒使いしているように映ったでしょう。一方、ヴェナブルズは遠い過去ではないスパーズの栄光時代を今こそ取り戻そうと必死だったんだと思います。なにせ彼がスパーズに在籍していたのはビル・ニコルソン体制の1960年代後半であり、スパーズ栄光の時代です。彼自身もスパーズ在籍時にFAカップを制していますし、この前シーズンには監督としてスパーズをFA杯優勝に導いているわけですから、ここが勝負時と捉えていたんだと思います。この二頭体制の問題は、そもそも初期設定で権力バランスに歪みが生じていたことだと思います。通常は経営面の方が優位に立つはずですが、クラブ内で実際に人気や権力を握っていたのはヴェナブルズだったことが話をややこしくしています。シュガー自身もヴェナブルズと手を組んだことを後悔してるようで、後にヴェナブルズと手を組む際にデューデリジェンスを怠ったと認めています。「やみくもに手を出したと思う。クラブに対する情熱があったからだ。明らかに、それはとても悪い間違いだった。私たちは2、3年の間、訴訟の時代に突入した。」という彼の言葉どおりこの後2人の関係は訴訟に発展するまで悪化し、この騒動がピッチ上にまで影響を及ぼすことになります。

 シュガーはヴェナブルズに対して、クラブに投資した£3mを返却するので、速やかに退陣するように提案します。しかし、その交渉は不調に終わり、シュガーは最後の手段に出ます。1993年5月13日、シュガーはヴェナブルズを解任し、クラブから追い出す議案を理事会に提出し、なんとこれが決議されます。このことを事前に察知したヴェナブルズとその関係者がマスコミにリークしたことで、理事会当日、クラブにはマスコミとファンがごった返すことになります。もちろん、ファンもマスコミもヴェナブルズの味方であったため、シュガーは「お前の首を差し出せ!」などと罵詈雑言を浴びせかけられるというなかなかの修羅場となります。解雇は理事会によって正式に決定されたものの、ヴェナブルズ側が高等裁判所に差止命令を請求したため、解雇は仮差止となり、彼の解雇の是非は法廷に委ねられることとなりました。
 もちろん選手達もヴェナブルズの味方でした。なにせ当時のほとんどの選手はヴェナブルズが連れてきたこともあり、皆ヴェナブルズに恩義を感じていたからです。ガッザはヴェナブルズが自分にしてくれたこと全てを讃え、スパーズを「Tottenham Venables」に改名すべきだと主張しています。ダレン・アンダートンは「テリーは20歳の僕をクラブに連れてきてくれた。最初の反応は怒りで、ただあきれていた。」とコメントし、ニール・ラドックにいたっては、アムストラッドの衛星アンテナ(シュガーの会社の製品)を壊してゴミ箱に入れたなんて逸話まで残っています。
 この法廷対決は世間の注目の的となり、シュガー宅の前ではファン達が「Sugar Out」のデモまで始めます。シュガーによると、裁判の当日には高等裁判所前に集まったファンからシュガーに対して唾を吐きかけられたそうです。流石にシュガーがかわいそうですね…。
 しかし、この裁判でシュガーは驚くべき証言をします。ヴェナブルズは1992年、テディ・シェリンガムがノッティンガム・フォレストからスパーズへ移籍してくる際に当時のフォレストの監督ブライアン・クラフに対して、"bung"(なんと訳していいかわかりませんが、いわゆる賄賂ってやつのようです。)を渡していたというものです。もちろんヴェナブルズもクラフも関与を否定しましたが、裁判所はシュガーを支持し、ヴェナブルズは正式に解雇されることとなります。判決当初はヴェナブルズは不服を訴えますが、最終的には諦めたようでシュガーに持ち株を売り、完全にシュガーがスパーズの経営権を握ることとなりました。しかし、その代償は大きく、シュガーは多くのファンや選手から嫌われることとなります。シュガー自身も「バンビを撃った男のような気分だ」という言葉を残しているほどです。

デモの様子

 この後、シュガーはスパーズ再建に向けて、ファンからの人気もあったオジーこと、オズワルド・アルディレスを監督にすることを決め、シュガーの会社で信頼できるトラブルシューターとして働いていたクロード・リヒターをクラブ最高経営責任者に任命します。オジーの1年目は15位と成績が振るわなかったこともあり、2年目には先日韓国代表監督を解任されたクリンスマンやドラグシンの同郷の大先輩であるポベスクを大枚叩いて獲得します。これはシュガー的にはだいぶ頑張ったんだと思います。たぶんファンから向けられている金を使わないというイメージを払拭させたかったのかもしれません(あれ?どこかで聞いたような話ですね…)。クリンスマンの契約はシュガーのヨットの船上で大々的に行われているので、やはりイメージ戦略も兼ねていたように思います。そんな2年目のオジー・スパーズはシェリンガムとクリンスマンの2トップ、ニック・バーンビーを10番、ドゥミトレスクとダレン・アンダートンを両翼とした超攻撃的な布陣で、その圧倒的な攻撃力で好調なスタートを切ります。これには伝統的に攻撃的スタイルが大好きなファン達も大喜び!しかし、その超攻撃的スタイルはすぐに結果が伴わなくなり、オジーは1994年10月に解雇となってしまいます。

クリンスマンと契約し、満面の笑みのシュガー

 一方、クラブの財務再建を任されたリヒターは着任すると、クラブ内部のあまりの状況に衝撃を受けます。彼は後に「トッテナムに来たとき、問題が山積みで、さまざまな派閥があることに気づいた。」、「やることが山程あって、かなり混沌としていた。今後の取組についての長期的な戦略もなかった。西部開拓時代のようだった。誰もが自分の範疇のことのみ取り組んでいたんだ。クラブは本当に素晴らしいものを持っているのに、自分たちが持っているものを最大限に活用できていなかった。」と述べています。西部開拓時代のようってもう無法地帯やん…って思いますが、そのくらいぐちゃぐちゃだったんでしょうね。リトナーのやるべきだったことを単純化すると、収益の増加とコスト削減の2点でした。収益の面では当時はまだまだマッチデイ収入に頼っていた時代だったので、チケット収入は今以上に大切なものでした。しかし、当時チケット収入のうち一部をクラブのチケット販売係がピンハネしていたようで、チケット販売数と最終的にクラブに入ってくる金額が合わなかったそうです。今の感覚だとありえない話なんですが、当時はそれがフットボールクラブの普通だったのかもしれません。リトナーもちゃんとしたビジネスマンですので、普通にあかんやろ!ってなり、ピンハネを禁止しましたが、当時のチケット販売員から大ブーイングが巻き起こり、頭を抱えたようです。
 また、コスト削減という面で面白い逸話が残っています。リトナーが着任した日、クラブの玄関前には牛乳瓶の入った箱が積み上げられていました。翌日もまた飲まれていない牛乳箱が積まれています。リトナーがクラブ関係者にこれなに?と聞くと、選手達がグラウンドで練習する際に飲む牛乳だと言われます。しかし、毎回練習するグラウンドが違うので、練習場所のグラウンドに運ばれないとその牛乳は飲まれないのです。リトナーは監督のオジーに「事前に練習場所をクラブスタッフに教えてくれない?そこに牛乳運ぶようにすればいいんだからさ。」と言いますが、オジーからはそれはできないと断られてしまいます。そこでリトナーは牛乳の契約をやめ、選手達には牛乳飲みたければ、練習前に自分でスーパーで買ってこいやと伝えます。これに選手達は激怒し、新聞でこのことが報道されるといった事件が起こります。まじで訳のわからないエピソードですが、リトナーの財政緊縮へ向けた改革はこんな小さいことでも難航し、いちいち報道されるフットボールクラブならではの状況に辟易していたらしいです。こういったリトナーの改革は選手やコーチからすると、栄光あるスパーズの伝統から逸脱することと捉えられ、いちいち反発されてしまいます。このようにクラブ内部の様々なところでヴェナブルズvsシュガーの禍根というか、栄光の時代のプライドというかが残っており、それがクラブの転換を妨げていたのです。

 さて、ここまで見てきたとおりシュガー治世は踏んだり蹴ったりです。クラブ内部の抗争がこれほど大々的に公の場に晒されてしまうと、それに触発されて小さなことも外に漏れ出て大騒ぎ、最終的にその影響を受けるのがピッチ上の成績という最悪の状況です。この時期のスパーズは天にも見放されたような状況ですが、更なる試練が襲いかかります。シュガーの前任であるスカラー時代に選手獲得のために裏金を支払っていたことに対して、協会の調査が入ったのです。そして、1994年6月、FAはスパーズに対して£90万の罰金及びFAカップの出場停止、さらには勝ち点12の減点を科す決定をします。1993-94シーズンは先ほど書いたオジー2年目のシーズンで、監督の途中解任もあり、最終順位は15位でした。順位も酷いですが、降格圏と勝ち点3しか離れていなく、首の皮一枚繋がったというシーズンを終えたばかりだったのです。しかも1995シーズンからはプレミアリーグは20チーム体制に変更になることに伴い、翌シーズンは4チームが降格することになっていたため、スパーズは大パニックに陥ります。シュガーもこの不正を当初から認めて、調査に協力していたにもかかわらず、このFAの決定は前例と比較しても大変厳しいものでした。そのような背景もあり、この決定が出た瞬間からシュガーはFAに対して徹底抗戦の構えをします。彼は、FAが仲裁による上訴に同意しない限り、法廷に持ち込むと脅しをかけ、見事仲裁に持ち込むことに成功します。1994年11月には仲裁によりFAの決定は行き過ぎだと判断され、スパーズは勝ち点を取り戻し、FAカップに復帰することができました。なんか今回のエバートンのPSR違反の採決っぽい変動っぷりですよね。この決定後、ジェリー・フランシス監督の下でスパーズはプレミアリーグを7位で終え、要塞アンフィールドでリバプールを破り、FAカップ準決勝に進出するという躍進を遂げます。
 しかし、シュガー政権下では1ついいことがあると、すぐにトラブルが舞い込んできます。なんなんですかね、これは…。今度はスパーズの中心選手であるクリンスマンの退団騒動が起こるのです。当時のクリンスマンの契約は、スパーズが前年にクリンスマンに対して支払った移籍金と同額のバイアウト条項がありました。シュガーは当然ぶちギレ、BBCのインタビュー中にクリンスマンのシャツをプレゼントされると、それを記者に投げ返してしまい、シュガーとクリンスマンの関係も壊れてしまいます。そして彼はバイエルンに移籍することとなります。個人的にはここはシュガーの詰めが甘いんじゃないの?って気がしますけどね。ここまで困難な時期が続くと自分のミスとはいえ、ぶちギレたくなる気持ちもわからなくはないですけどね…。この後もシュガーは選手の移籍や契約更新で失敗を重ねます。ダレン・アンダートンがマンチェスターUから狙われていることに焦って契約更新した直後、アンダートンが負傷により長期離脱したり、テディ・シェリンガムと契約更新がうまくいかず、仲違いして移籍させてしまったりします。1番有名なのは、"名前を言ってはいけない例のあの人(レガシーNo.602)"と契約更新がうまくいかず、フリーでお隣さんに移籍させてしまったことですね(実際に出て行ったのはレヴィ時代)。獲得について言えば、ベルカンプをシェリンガムがキャラ被りするからと獲得を見送ったり、エマニュエル・プティに至ってはスパーズでメディカルチェックを受けるところまで行き、シュガーからもらった帰りのタクシー代でお隣に行き、横取りされたりされています(メディカル終わって横取りされるパターンってスパーズの伝統かなんかなんですかね…)。ここで気づいた方もいるかと思いますが、最悪なのはこの2人プラス"レガシーNo.602"は、この後お隣でインビンシブルズと呼ばれるようになりますからね。本当に最悪ですよ、これは…。こんな為体ではピッチ上の成績も振るわず、1994-95年のFAによる制裁からの躍進以降、フランシス体制では8位と10位に終わり、シュガー時代にスパーズはついに中位のクラブに成り下がってしまいます。
 この時期からは外的な要因もシュガー政権の逆風となります。1992-93シーズンからプレミアリーグに移行したことにより、スパーズ以外のクラブもどんどんビジネス化の道を歩んでいきます。各クラブは固定化された収入から脱却し始めると、ベンゲル爺さんのもと海外選手をかき集めて躍進したお隣などがライジングしてきます。この時のスパーズはビジネス化による恩恵を受けるフェーズはとっくに終了しており、むしろそれによる代償との戦いというフェーズに入っていました。シュガーはこの負の遺産の処理に追われ、更なる飛躍の手は持っていなかったと思います。そのおかげでプレミアリーグ開始時にはビッグ5の一角を占めた我らがスパーズは没落していってしまいました。

プレミアリーグ発足のプロモーション発表会

 シュガーはこの状況を脱却するため、バーゼルから当時無名のクリスチャン・グロスを監督として迎えるという奇策に出ます。グロスはシュガーの反対を押し切って、シュガーと仲違いしているクリンスマンをローンで獲得しますが、選手から信頼を勝ち取ることができず、1997-98は降格圏からわずか4ポイント差の14位に終わります。この時、スパーズの残留を決めるゴールを決めたのはシュガーと犬猿の仲になっていたクリンスマンだったというのも皮肉なことです。翌シーズンにはグロスの権威は更に低下し、サポーターもあまりの混乱に怒りを募らせます。そんな中、シュガーはグロスに変わり、事もあろうかお隣の元監督であるジョージ・グラハムをスパーズの監督に就任させます。グラハムは確かにお隣で成功した監督でしたが、すでに監督としては落ち目であり、戦術もスパーズの伝統とは対極にある守備的なものでした(落ち目の監督で守備的な戦術…ってなんだか最近も聞いたような…)。皮肉なことにグラハム時代がシュガー政権下で1番成績が良い(1998-99シーズンのリーグカップで優勝し、FAカップでは2度の決勝進出をしました。)のですが、この時期のシュガーの決断は支持できないものが多いです。シュガーはやはりフットボール業界の人ではないので、フットボールに関する人選は的外れとなりがちです。これは、グラハムを起用したことをコンピューター事業にIBMの人間を雇ったのと変わらないと彼が考えていたことからもわかると思います。
 さすがのシュガーも自分がフットボールについては門外漢であると悟ったのか、当時のイングランドでは珍しいスポーツ・ダイレクター(SD)としてデイビッド・プリートを採用します。これはレヴィ体制下でも引き継がれるので、意外と大事な決断だったかもしれません。ちなみにプリートは、グロスの解任後に雇われていますので、グラハム就任の話が出た時にシュガーにその決断を思いとどまらせようとしています。しかし、シュガーはその制止を振り切って、グラハムを採用しました。いや、それならSD置く意味ないやん…。
 グラハムは前述のとおり、カップ戦では見事な戦績を誇りましたが、リーグ戦では、11位と10位に終わります。当時のスパーズファンは、唯一の心の拠り所だったスパーズらしい攻撃的なフットボールスタイルまで奪われてしまうこととなり、縋るものが何もない状態となっていたようです。ここら辺の気持ちはモウリーニョやコンテ時代のあの絶望感と少し似てるかもしれません。結局、シュガーはグラハムのあの手この手で選手獲得や契約更新を迫る狸ジジイっぷりにブチ切れて、2人の関係は破綻します。それにしても、シュガーは色んな人にブチ切れすぎですね。完全な余談ですが後の時代、レヴィ政権下でも別の狸ジジイが現れるので、スパーズは狸にでも取り憑かれてるのかなと思ってしまいました。

George Graham


 監督、選手、ファン、マスコミといったフットボール関係者を全て敵に回していたシュガーについに終焉の時が訪れます。2000年12月、シュガーが£21.9mで株の一部の売却に合意し、ENICが大株主となります。シュガーの僅かに繋がっていた気持ちの糸を切ったのは、同年10月末に行われたリーグカップでバーミンガム・シティにホームで3-1と惨敗したことで、ファンからシュガーアウトの声が更に大きくなったことでした。その数ヶ月前にレヴィとは会っていたそうで、シュガーはレヴィに会った時に「これで刑務所から出られた。」と思ったそうです。その後、シュガーは2007年に残りの株式を£25mでENICに売却しました。

 かなり長くなってしまいましたが、以上がシュガー時代のスパーズです。この時代を勉強していると何とも言えない気持ちになりました。シュガーは破産寸前だったクラブを救った恩人であり、スパーズ再建のためにかなりの私財を投資してくれたわけで、私は当時のサポーターほど彼を憎むことはできませんでした。同時にそれは私が当時のファンほどスパーズがビッグクラブであるという誇りがない、もしくは、その気概を共有できていないのかもしれないとも思いました。
 スカラー時代同様、シュガー期からもかなりのことを学ぶことができます。やはり一般のビジネスとフットボール・ビジネスは大きく異なるものです。シュガーはワンマン経営者っぽいムーブをかましていましたが、スタートの時点でクラブ内部の権力掌握に失敗しているので、そのムーブが仇になってしまいました。また、スパーズがビジネス化の利益を先に享受していた状態でプレミアリーグ開幕が開幕したことにより、他クラブからの追い上げを受けたという間の悪さもあったと思います。しかし、彼自身にクラブ再建から更なる飛躍に向けたビジョンがなかったことがシュガー時代の失敗の大きな原因になったこともまた事実です。フットボール業界はこの頃から急激な変革の時代に突入しており、常にリスク回避しながら新たな未来を描いていかないとあっという間に時代に取り残されてしまうようになっていたのです。

 さて、だいぶ前置きが長くなりましたが、次回からやっとこさ我らの偉大なハゲが登場します。ただ、レヴィ初期って地味すぎてあんまり書くネタがないんだよな…
 今回のブログを書く際に参考にした主な情報は下記にURLを貼っておきます。お付き合いいただき、ありがとうございました!

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