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クラブ史の中でのダニエル・レヴィ〜Episode 5: 栄光の復活を目指して〜ポチェッティーノの魔法と夢の代償〜

 こんばんは、Mi2です。
 前回はレヴィ初期の時代について書いていきました。書くことないと言いながら余計なことをだらだらと書いてしまい、反省してます。今回は前回の2010年から今に繋がる時期まで書いていこうと思います。この時代は見事ビッグ4時代を打ち破ったスパーズが益々ライジングしていくと思いきや、なぜか混沌とした時代に入っていくことになります。この1歩進むと3歩下がるか、50歩足踏みするという2択で動いているのがスパーズっぽいですが、なんだかモヤモヤします…。

 前年に見事CL権を獲得したスパーズは、10-11シーズン開幕前の夏の移籍市場最終日にレアルからラフィーこと、ラファエル・ファンデルファールトを獲得するなど精力的に動きます。有名なラフィー獲得時の逸話からは、レヴィがこのシーズンをどれだけ心待ちにしていたかが垣間見えます。移籍市場の最終日、当時の監督であるレドナップにレヴィから突然の電話がかかってきます。レヴィはレドナップに「レアルのファンデルファールト獲れるならほしい?」と唐突に聞いてきたそうです。レドナップ爺さんは「そんなすげぇ選手、獲れるならほしいに決まってるやろ。」と答えると「わかった。」と電話が切れ、数時間後にはラフィーが当時破格の£8mでスパーズ入りが決定します。あのレドナップ爺さんが明かしていた話なので、ちょっと(だいぶ)話を盛っているかもしれませんが…笑。この時の誰を獲得するかの権限はレドナップ爺さんにあり、レヴィは実際の獲得交渉や決裁権者として予算管理をしていたため、「この選手獲れそうやけど、ほしい?」なんて聞く役割ではなかったわけですよ。おそらくですが、レヴィは初CLへの期待とそれに見合うビッグネームが突如市場に転がり込んでくるということが重なり、我慢できなくなって思わず電話に手が伸びてしまったのでしょう。当時の報道の出方も最終日に唐突にラフィーの名前が出てきて、すぐに公式発表って感じだったと記憶しているので、レドナップ爺さんの話も大法螺とも言えないんですよ。いやぁ、このラフィーが来た時の衝撃はすごかったですよ、ほんと。電光石火の移籍ってのもびっくりだったんですが、そんなビッグネームがまさかスパーズに!?という驚きがありました。当時のレアルはまだまだ銀河系の名残があった時代で、ファンニステルローイ、ラウール、グティのベテラン勢、カカ、ぺぺ、カシージャスらが中堅、C・ロナウド、ベンゼマ、イグアイン、マルセロが若手という訳のわからんスカッドでしたからね。この豪華絢爛なレアルで司令塔を務めていたラフィーはやはりスパーズでも強烈な輝きを放っていました。

Rafael Van Der Vaart

 そんなラフィーを要するイケイケスパーズは初出場のCLで躍動します。GSではついにベイルが覚醒してあの有名な"Taxi for Maicon"のチャントが生まれます。この時のスパーズの中盤は本当に豪華でレノンとベイルが両翼で特攻隊長を務め、中央でラフィーとモドリッチが攻撃のタクトを振っていましたからね。決勝トーナメントではあのACミランを倒し、初出場ベスト8という快挙を成し遂げます。そのシーズンはリーグ5位につけ、翌シーズンは再び4位となります。よし!またCLじゃー!と意気込んでいましたが、悪夢のような事件が起きます。当時リーグ戦6位だった某青がCLで優勝してしまい、当時のレギュレーションでは4位のスパーズがELへ回ることとなったのです。これにはレドナップ爺さんもUEFAにだいぶ噛みついていました。しかし、スパーズは本当は3位フィニッシュできるだったのです。それをどこかの狸ジジイのおかげで逃してしまっていたのです。2012年2月リーグ戦も終盤に差し掛かっていた頃、当時のイングランド代表監督であったカペッロがEURO 2012を前に辞任します。そこで次期イングランド代表監督の候補の1人にあがったのがレドナップ爺さんだったのです。老獪な狸ジジイであるレドナップは自身のスパーズとの契約も最終年であったことから、これの状況を自身のキャリアのために最大限に活かそうとします。爺さんは会見の場でイングランド代表監督就任に色を見せ始めたのです。爺さんは得意の会見でイングランド代表監督の仕事は「毒入り聖杯とミッション・インポッシブルを掛け合わせたようなもの」だとしながらも、オファーがあれば断るのは難しいなどと言い出します。当時のレドナップ爺さんはだいぶ遅咲きのライジングをしているタイミングで、本当にイングランド代表監督になりたかったと思います。また、それがうまくいかなかったとしてもレヴィからいい条件で新契約を引き出そうとしていたのでした。ただチームとしては、今まで得意の人身掌握術でチームをまとめていた監督本人が、心ここに在らずでは選手達のパフォーマンスが上がるわけはなく失速。4位でCL権を逃すという結果となったわけです。当然、これに1番ブチ切れるのはダニエル・レヴィなわけです。レヴィが監督に対して1番許せないことは、トッテナム・ホットスパーという偉大なクラブを下に見ることです。そのタブーを犯してしまったレドナップはシーズン終了後に解任となります。結局イングランド代表監督にもなれなかった爺さんとしては当てが外れた形となりました。たぶんね、爺さんはレヴィのことをちゃんと理解し切れていなかったし、メディアを使った自分の土俵で戦えると思ってしまったんだと思いますよ。あくまで雇用主はレヴィで、レヴィがレヴィである以上、爺さんに勝ち目はないはずなのに…。
 レドナップ爺さんに対しては、当時からのサポーターは色んな思いを持っているかと思います。私は大好きですよ。CLに連れて行ってくれた監督でもあるので、感謝もしています。彼がスパーズに対して行った不義理も、とても人間臭い彼の性格を表している気がして、憎むに憎み切れないんですよね。こう思えるのも時が経ったからかもしれませんが…。よく成功への最後のピースみたいな話がありますが、スパーズがCL権を獲得するための最後のピースがレドナップのような監督だったのかもしれません。レヴィもその認識があるようで、レドナップ退任に際して「 これは理事会と私が軽々しく下した決断ではありません。ハリーは、彼の経験とアプローチがまさに必要とされていた時期にクラブにやってきました。」とコメントしています。

Napping Redknapp

 レドナップ爺さん後にスパーズの監督に就任したのは、新進気鋭の若手監督であるアンドレ・ヴィラス・ボアス(AVB)でした。モウリーニョの下でアシスタントを務め、ネクスト・モウリーニョ的な立ち位置だったため、モウリーニョ好きのレヴィには魅力的に見えたのかなと思います。レヴィ、こういうの好きそうだもんな。そんなAVBのスタートはオールドトラフォードでの久々の勝利など素晴らしいものでした。しかし、昨シーズンから移籍の噂があったモドリッチがついにレアルに移籍したり、ラフィーがAVBと仲違いして移籍したり、レドナップ期に獲得した選手達が衰退期に入ってきたりという状況で、攻撃の主力がベイルのみとなってしまいます。そんな中でベイルは覚醒を続け、圧倒的なパワーとスピードを兼ね備えた化け物へと成長していきます。戦術家AVBもベイルをトップ下にした"戦術=ベイル"しか打つ手がなくなりますが、その期待に応えるかのようにベイルは無慈悲なシュートで試合を決めてしまいます。その結果、当時のクラブ史上最多の勝ち点72で5位という記録を残すことになります。それだけの活躍をしていたベイルは当然、次のシーズンに移籍してしまうこととなります。レヴィがそんな簡単にベイルを手放すわけではないため、あのペレス相手に粘り腰を見せ、C・ロナウドに次ぐ史上2番目の移籍金でレアルに移籍します。その後、実はC・ロナウド越えの史上最高額だったことがわかってます。ベイルはもう少しだけスパーズにいてくれると思っていたので、移籍が決まった時は心の準備もできていなく、すごく悲しかったなぁ。ただ、スパーズでワールドクラスに成長したベイルが強い陽射しが輝くマドリッドの空の下で入団セレモニーをしている姿を見た時はそれはそれで感慨深い気持ちになったことを思い出します。

Gareth Bale

 そんなベイルの桁違いの移籍金を元手にして、スパーズはマグニフィセント7と呼ばれる7人の選手を同じ夏に獲得します。£20m、£30mといった高額の移籍がポンポン決まるので期待値は高かったんですけどね。まぁ、これが大失敗でして…。本当に成功したといえる選手はエリクセンくらいじゃないですかね。ただエリクセンはベイル・マネーが出てくる前から何年も獲得の噂があったので、彼をマグニフィセント7に入れるのは少し抵抗があります。レヴィもこの時は羽振りよくお金を使いました。こう振り返ってみると、レドナップ爺さん時代からは結構金使ってる気がします。このマグニフィセント7が大ゴケしたことでAVBは解任、当時アシスタントコーチだったスパーズOBでもあるティム・シャーウッドが内部昇格で暫定監督に就任します。
 忘れてはいけないのは、AVB1年目の時に待望の新トレーニング場であるホットスパー・ウェイが完成したことです。構想に7年、建設に3年かかった一大プロジェクトがここに結実したのです。新トレーニングセンターは11面の屋外ピッチがあり、トップチームが使用するメインのピッチには凍結防止用の地下ヒーターを備えています。トレーニングセンターの屋根には環境に配慮した素材を使用するなど、実にレヴィらしいこだわりの詰まったものとなっています。レヴィの世界最高のクラブには最高の施設が必要という信念を最初に具現化したのがホットスパー・ウェイであるため、そのための費用は£45mと出し惜しみはしていません。これのすごいところは、この建設の最中でもフットボール面の支出はそこまで抑えられなかったことです。建設期間はレドナップ爺さん期と被っており、むしろ金を使った時期でした。今まで振り返ってきた過去の会長時代であれば、施設改修(彼らの場合はスタジアムだったけど)には財政危機がペアでくっついてきましたからね。この新トレーニングセンターはスパーズのブランドを高める役割も果たしており、選手獲得をする際にもスパーズが選ばれる要因の1つになっていることは間違いありません。
 話を戻して、みんなの兄貴ティム・シャーウッド時代の話をしていきましょう。シャーウッドは指導者として、今でいうメイソンと同じようなキャリアを辿っています。アカデミーの監督、レドナップ、AVBの2人の監督のもとでのアシスタントコーチを経験したシャーウッドは自分の見てきたアカデミーの選手達や若手選手達を重視していきます。シャーウッドは戦術的な監督というわけでもなく、正直何がしたいかもよくわかりませんでした。しかも、会見でのよくわからない発言も気になる人でしたね、しかし、なんだかんだ勝率は高く、翌14-15シーズン終了までの正式な監督就任を勝ち取っています。しかし、レヴィはやはりシャーウッドでは満足できなかったようで2014年5月シーズン終了時に解任しています(じゃあ、最初からケアテイカーのままで良かったやんと今となっては思います…)。シャーウッドはその後、ヴィラの監督を務めますが、これも鳴かず飛ばずで今やコメンテーターとして「ケインは俺が育てた!」おじさんに変貌しています。ただ、そんなシャーウッド兄貴はスパーズがCL争いをするようになっても若手を使うぜ!という、次のポチェッティーノに繋がる下地を整えた監督として大事な存在だったのだと思います。
 AVBからシャーウッド期はレドナップ爺さん期の代償を払わなければいけなかった時期でした。レドナップはCLへの最後の一手として、チームの主軸に中堅からベテランを据えていたため、あのチームのピークは短いものとなってしまいました。また、次の時代の旗頭となるべきモドリッチやベイルといった選手が引き抜かれてしまったのも痛手でしたね。この頃のスパーズはまだまだ引き抜かれる側のクラブであり、今まではその恩恵を受けていたのですが、真のビッグクラブを目指すためにはその殻を破らなければいけない時期を迎えていました。
 さて、シャーウッドを解任したレヴィはクラブの建て直しを託せる監督を探します。第一候補は名将ファン・ハールでしたが、それはうまくいかず、当時サウサンプトンで若手中心に勢いのあるチームを作っていたマウリシオ・ポチェッティーノが監督に就任することとなります。スパーズあるあるの1つとして、セカンドチョイスの監督が成功するというのがありますが、ポチェはまさにこれに当てはまります。ポチェ期は知ってる方が多いので、多くは書きません。初期には不満分子となる選手を切り、若手を中心に据えます。ポチェッティーノはそのチャントのように魔法のようなチームを作り上げ、素晴らしい成績を残します。この時、ケイン、メイソン、ローズ、ベンタレブ、タウンゼント、ダイアー、デレといった選手達が若手の主軸として定着することになります。15-16シーズンはリーグ優勝まで本当にあと一歩のところまで行き、翌シーズンも2位と躍進します。そして、18-19シーズンは佳境に入っていた新スタ建設のために選手獲得がなかったにもかかわらず、CL決勝の舞台に進むという快挙を成し遂げます。このCL決勝までの旅路は多くの皆さんも鮮明に記憶に残っていることと思います。私は基本CLエンジョイ勢なので、結果は気にせずあの夢の舞台を楽しむこととしていますが、流石にあのシーズンはドキドキしながら見ていました。アムステルダムの奇跡の時は、仕事に行く準備をしながら見ていて、ルーカスの3点目が決まった時に号泣してしまい(あの瞬間はトイレで…)危うく仕事に遅刻しそうになりました。CL決勝という舞台が嬉しくて嬉しくて、年甲斐もなく公式ショップの決勝進出セールで爆買いしてしまいましたね。決勝の日は朝からハイネケンを用意して準備万端で観戦したはずなのですが、不思議と記憶がありません(なんでだろう…?)。

Dele Alli

 ポチェ期はあの時にあのメンバーで、かつ様々な要因が重なったからこそ、あれだけ強烈な光を放てたのだと思っています。そしてレヴィにとってそれは夢にまで見た理想のチームだったのです。若手が躍動するアタッキング・フットボールでリーグ優勝やCL優勝に手の届くところまで辿り着いたのですから。スパーズはこの後の時代にこの2つの代償を払うこととなります。
 今回のエピソードの核となる部分を書いていく前に言いたいことは、ポチェッティーノは私達に素晴らしい夢を見せてくれた愛すべき監督です(某青に行く前までは…)。これから書くことはポチェへの批判に見えるかもしれませんが、そうではありません。あくまで結果としてそう評価できるという話です。
 まず、ポチェという監督はいつでもどこでも結果の出せる監督ではないと思います。ポチェはみんなの兄貴分として野心に燃えた若者に寄り添いながら、その長所を最大限に引き出すことを得意とする監督です。スパーズには元々レヴィが力を入れていた若手育成により優秀なアカデミーがありました。また、シャーウッド兄貴が若手起用の下地を作ってくれており、マグニフィセント7は明らかに失敗だったという空気感もありました。このようにポチェが若手主体へとチームの舵を切りやすい環境が整っていたのです。
 次にレヴィがこの時のチームに心を奪われてしまったことによる代償があります。選手の売り時を誤り、チームの血流を止めてしまいます。レヴィがいかにポチェ・スパーズが好きだったかは、AmazonのAll or Nothingでモウリーニョにデレのことを自慢の息子のように語る姿やエリクセンをなんとか引き止めようとしている姿に現れています。すでに18-19シーズンには選手の入れ替えができていないことによる閉塞感が漂っていました。CLでは結果を出したものの、リーグ戦のパフォーマンスはひどいものでした。この状況を打開するために、ポチェッティーノは"痛みの伴うリビルド"の必要性を説きます。未だにスパーズファンの言うリビルドとはこの時から始まっています(もうだいぶ長い…)。
 さらにレヴィはポチェに能力以上の権限を与えてしまいました。19-20シーズンを前にした夏にエンドンベレやロ・チェルソ、セセニョンを獲得していますが、エンドンベレはポチェ主導の移籍と言われています。大金を叩いたのにも関わらず、これは見事に失敗していますね。週給はクラブで1番高く、目に見える問題点があるエンドンベレの処遇は未だにクラブの懸念事項となっています。ポチェはレドナップと同じようにManager型の監督を志向する人ですが、その能力はないと言わざるを得ません。当時、SDをしていたスティーブ・ヒッチェンが歯止めをかけてほしかったのですが…。
 このようにポチェ期の代償は大きく、未だにクラブに暗い影を落としています。そんなポチェには結局リビルドの期間は与えられず、19-20シーズンにチームに閉塞感が漂ったままお別れをします。この時期のレヴィの判断は完全に誤っていました。タイトルが見えてきたとクラブの大原則であるスパーズというクラブを下に見るモウリーニョやコンテといった監督を採用してしまいます。短期的にとりあえず結果だけを求めるこの選択は、個人的には最期の一手としてはリスクはありながらもありなのかなと思っていました。しかし、やはりクラブの大原則を破ると上手くはいきませんね…。この一連の失敗は私自身も学びとなりました。

 今回は以上です。今はコンテこと植毛ハゲが悪い意味で全部ぶっ壊してくれたおかげで、スクラップアンドビルドのスクラップの部分は一気に進みました。その上でポステコグルーがどんなスパーズを作っていくかの時代に入っていると思います。閉塞感に包まれていたあの頃からは想像ができないくらい楽しくスパーズのことを追えるのは、新たな時代の建設への気風がクラブから感じられるからだと思います。
 さて次回はこの時代に並行して進んでいた新スタ建設のプロジェクトについて書いていこうと思います。
 今回のブログを書く際に参考にした主な情報は下記にURLを貼っておきます。お付き合いいただき、ありがとうございました!


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