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クラブ史の中でのダニエル・レヴィ〜episode 1:栄光の時代からの没落と復権〜

 こんばんは。Mi2です。
 さて、今回からスパーズ史を振り返っていきます。一応、この記事の前にepisode 0がありますので、そちらも読んでいただけると嬉しいです(言い訳がメインですが…)。
 内容は前回の予告通り、60年代から話を始めます。この時代から始める理由としては、レヴィを理解するためにはスパーズというフットボールクラブがビジネス化していく背景から知る必要があると感じるからです。また、Episode2以降を理解する上で、当時のスパーズファンや関係者が持っていたOSを理解する必要があるという理由もあります。やはり今の我々日本のスパーズファンとは少し違う感覚で動いているので、そこの理解は前提として必要かと思います。


 それでは始めていきましょう。1961年に戦後初めてリーグとFAカップの2冠を達成した有名なビル・ニコルソン体制をご存知の方も多いと思います。

Bill Nicholson


 ビル・ニコルソンは選手として、あの伝説のアーサー・ロウ監督の下でプッシュ&ランのチームの主力として優勝を経験、監督としても16年間でリーグ優勝を含む11タイトルを獲得したレジェンド中のレジェンドです。長いスパーズの歴史の中でも強烈な光の放つ彼は2004年に亡くなり、遺骨は奥様と一緒にホワイトハートレーンに埋葬されました。なお、新スタ建設の際に移し替えたらしいので、今も新スタからスパーズを見守ってくれていることでしょう。
 そんなビル・ニコルソン体制は61年のダブル達成以降、その黄金期が徐々に衰退していきます。そうは言っても1967年にFAカップ、1971年、73年にリーグ杯、1972年にUEFAカップ(初代王者)といったタイトルを獲得しています。特にUEFAカップはUEFAチャンピオンズカップに次ぐヨーロッパタイトルの立ち位置でした(今でいうヨーロッパリーグ)が、実際はチャンピオンズカップは各リーグの優勝チームしか出場できなかったため参加チームが少なく、各国の上位チームが参加するUEFAカップの方が競争力が高かったようです。ちなみに1962年にイングランドのクラブとして初めてのヨーロッパタイトルを獲得(カップ・ウィナーズ・カップ)していたスパーズはこのUEFAカップの戴冠により英国クラブとして初めてヨーロッパの異なる2つのタイトルを獲得したクラブとなりました。タイトルをこれだけ獲得しているとどこが衰退だよ!と思いますが、リーグ順位は上位進出することがあるも6〜8位で終わるシーズンが増えていきます。
 少し余談ですが、スパーズには歴史がないといった安易な揶揄をよく目にすることがあります。しかし、前述のとおりスパーズはバリバリの古豪です。そんな煽りをしてくる人達が応援しているクラブの大半より偉大な歴史を有するクラブなんです。こんなことを言うと他サポから批判が飛んできそうですが、自分達の歴史は他より偉大だと吹聴するするのは世の常なので批判は受け付けません!特にイングランドのクラブの中でヨーロッパタイトルへの道を切り開いてきたのはスパーズです。これが淵源となり、ヨーロッパタイトルをほとんど獲ったことのないお隣さんを煽ったりしていますね。
 この話に関連してもうひとつ余談を…。Xを見ていると時々、現地民と日本のサポの認識の違いを感じることがあります。それはこの辺の時代から80年代くらいまでのスパーズを知っている(実際に見てはいなくても、そういうクラブだと認識している)かどうかが原因なのかなと感じます。個人的にこれを感じる場面として、カップ戦でメンバー落として負けると現地民から多くの批判が浴びせられる時があります。冷静にみると、いやこの過密日程で選手入れ替えないのは現実的じゃないよね。現地ファンは何を訳のわからんこと言ってるんだ…と思うのですが、上記のタイトルを見ていただいてわかるとおり、スパーズは伝統的にカップ戦に強いクラブです。この歴史を認識している現地ファンからすると、スパーズが手を抜いてカップタイトルを逃したように見えることが許せないのでしょうね。
 さて話は戻って、1974年、そんな栄光に満ちたビル・ニコルソンがついに退任をしてしまいます。その後、監督は短期間に3名が務める等の混乱を極め、極めつけとしてキース・バーキンショーが指揮した1976-77シーズンに2部に降格してしまいます。ちなみにこれがスパーズが降格したことのある最後のシーズンとなります。スパーズが降格するなんて今では想像できないことですよね。当時のファンは本当に辛かったと思います。ただ、スパーズはこの後も何回か危ないシーズンを過ごしたことはありますけどね…
 そんなバーキンショーは降格後も監督を続投し、翌年には1部リーグに返り咲きます。1978年夏にはオズバルド・アルディレス(後のスパーズ監督。Hotshot Tottenham 2015の歌詞にも出てきたり、最近のユニ発表動画で白マリオみたいな格好で登場していたりと、クラブアンバサダーとしても活躍しているので、今のスパサポにもお馴染みかと思います。)とリカルド・ヴィラ(こっちもオジーとニコイチで見かけます。)の加入は、低迷から抜け出したクラブの象徴ともなりました。1981年と1982年、クラブはFA杯で優勝し、リーグ戦の成績もバーキンショーの下で回復しました。

Osvaldo Ardiles & Ricardo Villa

 ただこの裏では経済的な問題がクラブに影響を与えていきます。これはスパーズに限ったことではなく、イングランドのクラブは同様の問題に直面していたようです。1950年代後半からテレビの普及等により娯楽が多様化したこともあり、フットボールの人気は相対的に低下をしていきました。それにより観客動員数も低下していきます。スパーズがダブルを達成した1960-1961シーズンには、ITVがフットボールリーグ26試合の放映権を約£143,000で獲得したことにより、今でいう放映権料が発生します。これは朗報!と思いきや、この契約はわずか1試合の中継で頓挫し、そこからライブ放送は20年以上行われないこととなってしまいます。結果、クラブの収入源はほぼ観客動員数に依存する状況となり、収益は固定化されたままでした。一方、選手給与は年々上昇していきます。1950年代後半はイングランドでの最高給与は週給£20でしたが、1960年代にはジョージ・ベストのような選手は週給£1,000を受け取るようになり、1969年のスター選手の週給は£4,000への膨れ上がっていきます。これは少なく見えますが、現在の価値にすると週給£67,000くらいだそうです。
 このように収入は固定化して増えない(もしくは減っていく)にもかかわらず、支出は増えていくという問題が生じていきます。そこにスタジアムの老朽化が重なって、スパーズは深刻な財政危機に陥っていきます。
 今回はここまでです。次回はこんな時代に登場した2代前の会長であるアーヴィング・スカラー治世を振り返っていきたいと思います。
 今回のブログを書く際に参考にした主な情報は下記にURLを貼っておきます。
 お付き合いいただき、ありがとうございました!

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