24.09.07- 群青日和
2024.09.07
可愛いと思った人に不意打ちで抱きしめられた。大学時代に好きだったノンケの男が不意にもたれかかってきた時のような、気まずさと嬉しさの入り混じった感覚を覚える。こんな気持ちで人を抱きしめるのは久しぶりだなと思った。
僕にとって、恋愛には赤ちゃんを可愛いと思う気持ちと同じ要素が含まれている。ただし、当然いつも相手は赤ちゃんではなく立派な大人なので、そのせいで上手くいかないような気もする。もちろん、好きな相手のことは対等に見ているつもりなのだが、どこかその関係性に、というか愛の種類に、無理があるのではないか。それでも、誰かを可愛いと思う気持ちはやっぱり尊くて手放せずにいる。
とりあえず、難しいことを考えるのはやめて、好きな人に不意打ちで抱きついてみたりしたい。
2024.09.09
何かを注文して食べている時に「一口食べる?」と相手に聞く人と、そうでない人がいるというツイートを見た。よくあることだが、自分はこれを聞かれるといつも身構えてしまう。
小学生の頃、祖父に連れられて、従姉妹一家と個室の中華料理屋にランチを食べに行った。自分よりも5つほど歳上の従姉妹は、以前に我が家で夕飯に酢豚を作ってみんなで食べようという段に、悪気なく豚だけをパクパクと一人で全て食べ尽くした前科がある。食い意地が張っているのだ。
この日、従姉妹は揚げた魚の甘酢餡かけを、従姉妹の母である伯母は牛肉の炒め物を頼んだのだが、ここで従姉妹から例の「一口食べる?」が出た。この言葉はその後に続く「一口ちょうだい」を繰り出すための前置きであることが多い。すると伯母は「交換は牛肉一枚なら魚二つだよ」と条件を付けた。
そこから二人の喧嘩が始まる。牛肉は魚に比べて一切れが大きいという伯母の主張はもっともだし、母が娘に対して条件を付けるなぞ大人気ないという従姉妹の言い分も一理ある。終わらない口喧嘩で険悪になった雰囲気を断ち切ったのはいつもは温厚な祖父だった。「美味しく頂きましょう。美味しく頂けないのなら、帰っていただきます。」と威勢よく嗜めてその場は収まった。当時の自分にとってこの出来事はあまりにも面白く、その場に同席した弟と、この時の祖父の口真似をしては二人で笑い転げていた。
今思うと自分は伯母派だ。自分の食べたいものはよく吟味して決めるし、その時点で決断が完結しているから他の介入を想定していない。要するに食い意地が張っているので、せっかく自分が注文したものは誰かに「一口」もあげたくないのである。
ただ、それは好きな人には別かもしれない。美味しいものを食べる時に、あの人にも食べさせてあげたいと思うのが、僕にとっての好きな人だ。好きな相手への「一口食べる?」は見返りを求めない純粋な気持ちである。そんな優しい気持ちだけで世界が埋め尽くされる日がくればいいのだが、むしろ自分が身につけるべきなのは「一口食べる?」と聞かれた時にそれを断る勇気のようにも思われる。
2024.09.12
東京事変の群青日和を流しながら、10年以上前からそらで口ずさめる歌詞の内容がふいに腹落ちした。これは失恋からの再起の歌だったのか。
好きなアーティストの好きな曲であっても、詞の意味を咀嚼せずに聴いているものが未だ多く、何かの拍子にふと歌詞と今の自分の状況がリンクして意味が分かると、鳥肌が立つような感覚がしてとても気持ちいい。
普通、人は詞を一つずつ反芻しながら曲を聴いているのだろうか。特定の歌手が好きな人で集まって、その解釈について真剣に議論するのも面白いだろうと思う。それにしても、捉えようによっては鬱屈とした歌詞をもって、あれだけ爽やかな表現と曲調で昇華できるのだから東京事変はやはり偉大だ。