聖なるかな
人を観て思索に耽るのが趣味であると、ブラジルコーヒーを啜り2階の喫茶店の窓からすっかり葉の落ちきってしまった並木道を横目で見遣りながら先輩はそう言った。
寒々しく素肌を露出させた木々にはLEDの照明がぐるりと巻き付けられていたが、それも注意してよく見ないと分からない。当然だ。今はまだ16時にもならない時分なのだ。
イルミネーションには、いささか早すぎる。
12月も半ば。今年も残すところ僅かとなり、すれ違う人たちの顔も心なしか疲弊しているように見えた。年末を目前に世間では仕事納め、最後の一踏ん張りというところであろうか。
残念ながら、人生の夏休み真っ只中ピカピカの大学二回生である自分には社会人の辛さは分からない。分かりたくも無い。欲を言えば遊んで暮らしていたい。大学生なんて皆似たり寄ったりだ。
尤も、蒸し暑く陽気な夏休みなどとは到底似ても似つかない、身体の芯から冷えていくような一段と厳しい冬であるのだが。
もっと悪いことに、ヨハネによる黙示録によれば年が明けて第四の封印が開封された時、単位と試験用紙を持って蒼ざめた馬に乗った死(期末試験ともいう)がやって来るという。なんて凶禍だ。南無
無信仰である私もこの時ばかりは神に助けを祈りたくもなる。ずうずうしい奴め。
アーケードを抜けた先の並木道に沿って数分ばかり歩を進め、先輩と私はつべたい風に半ば背中を蹴飛ばされるようにして喫茶店に転がり込んだのだった。階段を上がりおずおずと扉を開けてみると、淹れたてのコーヒーの匂いが外の夕凍みの匂いに混じって来る。店内には寡黙そうな黒縁の眼鏡をしたマスターとカウンター席に先客が1人。マスターは顎の先にすてきな髭をたくわえている。
いかにも喫茶店らしく、コーヒーのなんたるかを説いた本が、窓際に設置された本棚に所狭しと詰め込まれている。他にも背表紙の随分と日焼けした水木しげるや深夜食堂、苦役列車などの単行本達に混じり、真新しい『ちいかわ』がツルツルとした綺麗な背表紙をこちらに向けて本棚の右の端に鎮座しているのがなんともアンバランスだ。
窓際の2人掛けのテーブル席に座り、2人して珈琲牛乳杏仁という奇妙な物体を突っつきながらどちらともなく話し始める。
そして話は冒頭に戻る
人間観察が趣味と言う村上主義者の先輩と私とがこうして喫茶店で向かい合っているのはなんとも不思議な巡り合わせの末であった。
そのことについてもいずれこの場で述べるかもしれないが、今はまだ私の記憶に留めておくのみとする。