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5つの小さな物語-14ー「ラッシュアワー」

朝の混み合った電車の中で、その人はいつもタブレットに何か書き込んでいた。

リモート化が進んだと言うのに、彼はいつも同じ電車に揺られて出勤しているように見えた。

タブレットをそっと覗き込んでみると、よくわからない数式がたくさん書き込まれていた。

私が大胆に覗き込んでも全く気が付かない素振りだった。まあまあ美人の類に入るだろうと思っていた私は、少しばかり自尊心を傷つけられて、電車が揺れたのに合わせてその人の足をヒールの踵をぐさりと踏んだ。

一瞬その人は小さく「うっ」とうめき、顔をしかめたけれど、すぐにそのちまちました数式との格闘を再開した。駅で乗り換えの乗降客に紛れて、私はわざとよろけたふりをしてその人の背後から身体をぶつけた。

彼は思わず手に持った大きな鞄をホームに落として、その中身をコンコースの床の上にぶちまけてしまった。

「やり過ぎたかな?」

少し両親の呵責を覚えた私は、仕方なく書類なんかを集めるのを手伝うふりをした。

「ぼうっとしていてごめんなさい」

私じゃなく、彼がそう言った。その腰の低さが癇に障って

「今度から気をつけなさいよね」

きびすを返すと、私はその場から足早に立ち去った。

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