種を蒔く人-4

幾つもの自分

経営者としての自分。
デザイナーとしての自分。
ものづくりをする自分。
「種を蒔く人」であろうとする自分。

ずいぶん前になるけれどデザイン専門学校の社会人クラスで教鞭をとった時に、単に就職率を上げる教育をしていても、私たちが持っている経験や知見は伝わらないと感じていた。
ほとんどの講師が市販の教材を使って「今日は〇〇ページから〇〇ページを学習しましょう」と技術だけを教えていたけれど、学んでいる学生たちは自分たちが目指すべきクリエイター像には近づくことが出来ない。

実際の仕事とはかけ離れた教育をしていて、彼らは目指すものを見つけ、自分がやりたいことのイメージを持つことができるのだろうか?と疑問を持っていた。

どんな仕事であってもそれに関わる人たちが「幸せ」になることで、その対価として自分たちに投資をしてくれる、という実感を持つことが大切だと感じていた。
「デザイナー」という職業には様々な技術が必要だ。
それらは「技術を習得する」のが目的ではなくて、その「技術」によって達成した仕事が人を幸せにすることが目的なのではないだろうか?

学生の頃、性転換する魚の生態を水族館に1年間通いながら研究を続けた。
気がつけば水族館に勤めるための学芸員の資格を取得して将来は水族館に勤めるものと思っていた。
でも高校生の頃から書き始めた小説や友達に誘われて入った美術部でものめり込んで皆が就職活動を始めた頃にはまだ自分が何になるか決めかねていた。
今の若者の多くが口にする「自分が何になりたいのかわからない」というのとは少し違って「自分がなりたいことが多すぎて決められない」という状態だった。

文章を書く職業としてコピーライターに興味があったから宣伝会議が開講していた「コピーライター養成講座」を受講し始めた。
でも、その頃活躍していた糸井重里や仲畑貴志のことを調べているうちに、コピーライティングよりもデザインに少しずつ興味が移り始めた。
NDCから独立したばかりの田中一光、彼を取り巻く小池和子、三宅一生、森英恵、杉本貴志。生まれたばかりの無印良品。
双璧をなすようにキューピーマヨネーズのダイナーシリーズやマンハッタンシリーズを生み出していた細谷巌、秋山晶のライトパブリシティ。
サントリーの広告を生み出すサンアドの開口健、山口瞳。
燦然と煌めく才能に満ち溢れているその世界は本当に魅力的に見えた。

いつしか私はその広告、デザインの世界とそこで活躍する人々の生き様にに魅了されていった。
でもそれはデザイナーへの憧れとは少し違っていた。
「同じ土俵に上がりたい」というデザインの世界そのものを体験したいという気持ちだった。

幼少の頃からの生き物に対する尽き無い興味。
気持ちを揺さぶる読むこと、書くことへの愛着。
紙の上に描くこと、人の琴線に触れる映像を作り上げる人の生き様。

今の私をカタチ作っているのはそれら全てなのかもしれない。
彼らからどれほどのものを受け取れたのかはわからないし、
彼らから何かを教えてもらったわけでも手ほどきを受けたわけでは無いけれど、
あの時代に生きたあの土俵の上にいた私たちは確かに彼らが持っていた熱量と
次に繋げようとする気概を感じていた。

私たちに彼らほどの熱量があるとは思えないけれど
あの熱量を持つ次の世代に繋げたいという気持ちは死んではいない。

チカラが必要なのか?チカラとは何なのか?

デザイン業界に入った時、すぐに代理店やクライアントの圧力に晒された。
若造が始めた小さなデザイン事務所は吹けば飛ぶような弱々しさで
ゆらゆらと波間を漂いながら時代の中わ流されてきた。
独立してから4年目にはバブルが崩壊し、
そこから数年の間は広告、デザイン業界の状況は惨憺たるものだった。
何人もの友人が業界をさり、リストラされた。

それでも私は自分の仕事を守り、
事業を縮小しながら仕事を続けた。
5~6年で景気は上向くものだと考えていたけれど10年経過しても景気は上向かず、
社会の構造が変わるほどに長い不況の時代が来た。

自分の力不足を嘆き、どうすれば力を手に入れられるかを考えていた。
代理店の仕事を全体の7割以上受けていた友人は代理店の仕事を全て切られて路頭に迷っていた。
急激に大きくなり始めていた制作会社は突然会社をたたみ、
中規模のクライアントは事務所をもぬけの殻にして夜逃げした。
大手の代理店でさえ支払いが遅れ、現金振込は手形へと変わった。

大きな会社との取引が安定するわけではない。
生き残ったクリエイターたちは小さな事務所をおこした。
彼らはバランスの良い優れた技量を持った人たちだった。
大手はリストラにより中堅層を失い、ノウハウを取り戻すのに何十年もかかっていた。そのリストラされた世代が私たちの世代だった。

独立した私たちは多くの負債を負い、返済するのに10年以上を要した。

私たちは企業を相手に仕事をすることの怖さを知っている世代でもある。
デザイナーになった時から考えていたことがあった。
それは「デザイナー自身が商品を作って提供すること」。
つまりデザイナーが「メーカー」になることだった。

デザイナーになってすぐにデザイン事務所と商品の「販売店」を併設した会社のアイデアをノートに書き記していた。
形は違っているけれど、今はそれに近いことをしている。
デザインした商品を形にするにはそれなりに費用がかかる。
少なくとも加工する方法や材料のことなどを学ぶためにいろいろなものづくりをしてきたとも言える。
「皮革」「縫製」「陶器」「印刷」「食品」。
それをどれだけ活かせるか?はこれから私たちが何をしてゆくのかに関係している。

経営を学ぶ資質

28歳で独立してデザイン事務所を興した。
あの時から曲がりなりにも「経営」というものをしてきたのだと思う。
でも今の会社とあの頃の個人事務所では大きな違いがある。
それは「仕入れ」だろう。
デザインには頭脳と技術が必要だけれど、原材料は必要ない。
仕入れや加工が必要な職種には始める時に原価計算や設備投資が必要になる。
デザインでもパソコンなどで30万円〜50万円の資本が必要だけれど
食品の製造には厨房だけで500万円〜1000万円の資本が必要になる。
自己資本が足りない場合は融資などに頼らなくてはならないし、
売上から仕入れ、固定費などを差し引くと利益は薄くなる。
そのことを念頭に入れて経営をしなくては大変なことになる。

思えば事務所を開いたというだけで経営をしていたことにはならない。
意図して深く経営を考えなくても良い職業を選んでいたように思う。
パートナーが独立して店舗を開くことになった時、
これはとても大変なことになったと震えた。
経営をしていなかったけれど「経営」がどれほど大変なものかは感じていた。
経営者になる「覚悟はあるか?」
「逃げ出さず取り組めるか?」
何度も問いかけてそれでもやりたいと言った気持ちをそれ以上は否定できない。
でもお店が始まって3ヶ月も経たないうちにその覚悟がうわべだけのものだったと分かり始めた。
「経営」をしたことがない人にとって「経営」は実態がない夢のような存在になってしまう。
そうならないために「覚悟」とは何かを自分に問い詰めなくてはならない。
「経営」を始めた途端にその人には責任が生じてしまう。
たとえ自覚はなくても経営は一人ではできないのだから、周りの人たちを巻き込んでしまう。
一番近くにいるのは得意先ではなく「お客様」で、
甘い考えで経営を始めるとお客様に迷惑がかかる。

「覚悟」があるという前提で「経営」の基本である「収支」を考えなくてはならない。最初に皆が勘違いするのは「売上」と「利益」の区別がつかないことだ。
「仕入れ」などの変動費と「家賃や光熱費」などの固定費を売上から差し引いたものが「利益」なのに、多くの経営者は「売上」の多くを「仕入」に使おうとする。
事業が容易く赤字になってしまうのはそれが原因だろう。
不景気で売上が下がれば固定費が圧迫して利益はほとんど残らない。
以前のように売上が良い時と同じように仕入れをしようとしたり、
商品をたくさん作ればたくさん売れて売上も利益も伸びると考えてたくさんの商品を作ろうと仕入れを増やしても商品の数だけ売上が伸びるという保証はどこにもない。不良在庫が増えるだけで事業は赤字に陥る。

特に開業当初は御祝儀来店などで売上が伸びたのを店舗の実力だと勘違いしてしまう経営者は多い。
用心深すぎるほど慎重な経営者の方が経営には向いていると言える。
「経営」には常に学習が必要で、さらに不況やアクシデント、品質維持、外部や取引先からの圧力など様々な経営障害にどうやって対応してゆくか常に勉強し実行してゆかなくてはならない。それを続けていくことに最も強い「覚悟」が必要なのだろう。

経営を始める

私自身が本当に「覚悟」を決めたのは家内の店舗経営が8年に渡り赤字を出した頃だろう。
このままでは自分自身がしていた事業も共倒れになると思った。
本を買って経営を勉強したり財務を勉強してもどうにも実感が湧かなかったし、
この頃にはもうすでに融資を受けなくては経営が成り立たなくなりかけていた。
でも「融資」を受ける前に私たちはまだ「補助金」の申請もしたことがなかった。
そしてこの頃に知ったのが「よろず支援拠点」の存在だった。

恥ずかしながらどこかのコンサル会社だろうかという程度の知識しかなかった。
でも調べてみると「中小企業庁」直轄の相談所であることが分かった。
ある日勇気を出して駅前の「よろず支援拠点」の事務所に顔を出した。
それが私たちが「経営」に踏み出した第一歩だった。
相談料は何度相談しても無料で、それぞれ企業などで専門分野で働いていた方が
「中小企業診断士」の資格を取得し、相談を受けるコーディネーターとして働いている。
私たちが相談したい内容によってコーディネーターを紹介してもらい、初歩的なことから丁寧に教えてもらえる。

菓子製造業に取り組むのが初めてだった私たちがこれから進むべき方向性について思い悩んでいた時、誰に相談すれば良いかわからずに途方に暮れていた。
「よろず支援拠点」はかすかな光になった。

もちろん「コーディネーター」それぞれに能力の格差はあるから、何人ものコーディネーターに相談しながら自分達に合った方を探した。
経営が上手くいっていなかった幾つもの中小企業の経営を立て直した財務の専門家であるコーディネーターに経営の状況を見ていただきながら指導を受けることになった。
各都道府県にそれぞれ「よろず支援拠点」はあるけれど、コーディネーターの質は千差万別で、どんな方と知り合えるかでその後の経営改善が決まってくる。

今でも「経営」が出来ているかどうか疑問だけれど、それでも少しずつ前には進んでいる。
まだ企業としての体裁さえおぼつかないけれど、これからどうして行くべきかは見えてきている。
まだスタート地点に立っただけで踏み出せているとは言えないけれど
それほど多く残されていない時間の中で次の世代に引き継いでもらえるだけのしっかりとした地盤を固めるために学び続けるしかない。

三つのカタチ

「菓子製造・販売」という現在の主業。
かつて経営を失敗した「飲食業」という同じ「食」の仕事。
暮らしから切り離せない「アパレル・雑貨」。
全てに関係し成否の要となる「デザイン・ブランディング」という別の側面。
経営を成立させ持続させるための「財務」というベース。

これから私たちが進むべき方向には全てが関わってくる。
その中で私たちが大切にしたいもの。
「ものづくり」。私たちがその手で作り上げてゆくもの。
「デザイン=道標」。私たちと関わる人たちが共に進む方向。
「人を幸せにする」私たちと関わる人が笑顔でいられるように。
その三つのカタチを実現して続けていけるように諦めず進んでいこう。

この三つはどれもが繋がっていて、どれ一つが欠けても上手くいかない・

結局、これまでの経験は何も無駄なものがなかったのだと今は思える。
今は「菓子製造・販売」という形の下支えになって事業を成立させているけれど
私の中ではそれぞれ一つひとつにもそれぞれの事業を成立させるだけの力があると思っている。

最初の入り口が「デザイン」だったのは幸運だったと思う。
「デザイン」=「道標」=「指し示すもの」
自分達がどこに向かうべきなのか?何を伝えてゆくのか?
それを形にしたならどういうものになるのか?
そのことを常に考え続けることは自分達の気持ちの支えになり、
前に進むための原動力になる。
「商品」とはその気持ちが生み出した一つのカタチに過ぎない。

「ものづくり」は行動としての方法の一つであり、
それまで「思考」や「アイデア」だったものにカタチを与える行為。
頭の中で揺らいでいたものをどこに落とし込むのかを試行錯誤するための方法。
出来上がったものに納得するとは限らない。
でも何度でもカタチにする工程を経て少しずつ完成に近づけてゆく。
そこに必要な技術や知識が深まることによって精度が増してゆく。

「人を幸せにする」のは最終目標。
「自分を幸せにする」を目標にすると人の欲求は際限を失う。
そして「人を幸せにする」ことは「自分を幸せにすること」につながるけれど
「自分を幸せにすること」は必ずしも「人を幸せにする」とは限らない。
「人を幸せにする」ために目標を定めることができるけれど
「自分を幸せにする」ことは目標を見失う。

「デザイン」「ものづくり」「人を幸せにする」が繋がって自分達が進むべき方向が見えてくる。
方法は一つとは限らないけれど、今自分ができることと自分が進みたい方向の先に
その時々で方法を探れば良い。
これまでも、これからも、この三つが私たちの背骨になる。

惑星と衛星

核となる力とそれを支えながら周囲を回転する力。
コマのように回転することで中心軸をブラせることがない。
そういう組織を作れないものかとずっと考えてきた。
一つの場所にこだわって同じ場所で回り続けている経済はやがてその円が小さく萎んでいく。それをいつも目の前で見ていた。
だから自ら円を大きく描けるように、その円周上に小さな拠点を作っておく。

一つのエリアに三つの拠点。
そのうちの一つは大きく力を持ち、他の二つを引き付けて円周上を回す。
そのエリアを少し重複するように別のエリアを作りそこにまた三つの拠点を置く。
幾つもの円を交わらせ重ねてゆくことで銀河のような大きな円を作り上げることができればそれは安定した力になってゆくはず。

これまで一つのエリアに縛られもがいていた事業を次の年からは別のカタチに構築してゆこう。
それは大企業が築き上げたはずの仕組みが膠着し崩れてゆくのを目の前で見ていたから、その巨大なピラミッドとは違った形態の組織を作らなくてはならないと考えていたことから始まった。

私たちが創業した地が一つ目の核であるとするなら、
次に作る拠点が二つ目の核になる。
それぞれに衛星が必要で、そのエリアのマーケットを安定させることができる。

今問題があるとするなら、創業の地である一つ目の核がすでに老朽化し、以前ほどの力を発せなくなっていること。
一つ目の核を若返らせてもう一度力を持たせるためには、その場所を築いたエリア内で移動させる必要がある。
今後もそれぞれ核となる拠点とその周辺のエリアは老朽化し力を失う。
その度に核を移動し力を持続し続けなくてはならない。
だから核そのものへの投資は継続し続ける必要がある。
幾つものエリアの幾つもの円が成立することでその投資が可能になる。
それを10年以内にしてゆくことは大変なことなのかもしれないけれど、
その先が見えているのであれば前に進むしかない。
それを達成するためには「三つ目の核」が必要なのだろう。

宇宙が誕生した時のようにチリが集まって回転し始めるとそれが核へと成長し、
その周囲に小さな衛星が生まれる。
今その最初の段階に踏み込もうとしている。


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