5つの小さな物語-19ー「待ち合わせ」
「待ち合わせ」
その公園のベンチで待ち合わせるのが日課になっていた。
夕方の4時頃になるとその女の子は現れる。
背の高いお母さんの手をぎゅっと握りしめているが、その初老の男性を見つけると、母親の手を振りほどいて駆け寄っていった。
「おじいちゃん、見いつけ!」
「見つけるも何も、私はいつでも夕方にはここに座っているだろ」
子供には意味のない会話だろうが、そんな意味のないことが大切だと最近は思えるようになった。
この公園に来るようになってもうすぐ丸9年になる。
65歳で定年を迎えた時に、きっぱりと仕事を辞めた。
やめたと言いながら「社外監査役」なんてたいそうな肩書きがついてまわる。
あの時に手がけたプロジェクトは今では様々な国で多少形を変えながら今でも拡大を続けている。
新しい部を作ったときに秘書課から転属になった芳江と結婚をし、一女をもうけた。彼女が退社してから立ち上げたアパレル会社は徐々に大きくなって、高名なテキスタイルデザイナーと契約したことで躍進を遂げた。その会社も今は長女が引き継いで切り盛りしている。
「おじいちゃん、あれ持ってる?」
「はいよ」
倉吉老人はジェケットのポケットから竹とんぼを取り出した。
「やったーっ、それっ!」
小さな手が勢いよく回した竹とんぼはあらぬ方向へ曲がって飛んだ。
「ありゃ、重心が狂ってしまったかな?」
倉吉は竹とんぼを拾い上げるとポケットから取り出した小刀で器用に削り始めた。
指先に乗せて重心を確認すると、再びその子に渡した。
「これでどうだ?」
その子がもう一度竹とんぼを回すと、今度は空高く舞い上がっていった。
「お母さん!見て見て!」得意げなその子を見ながら、母親が倉吉に歩み寄った。
「いつもすいません。すっかりなついてしまって」
倉吉はベンチの横に置いてあった車椅子に器用に座った。
「それじゃあ、すいませんがそろそろ行きましょうか?」
倉吉が言うとその背の高い女性は車椅子を押し始めた。そういえば自分の娘もその母親と同じくらいの歳だな、と倉吉は思った。
「以前は家内がお世話になったね。この子の育児と重なって大変だったろうに」
「いえ、こちらこそお世話になりました。それより早く行かないと皆さんお待ちかねですわ」
娘も今はデザイン事務所を閉じて、芳江のアパレルブランドを継いだ。未練がないのかと心配したが、その時は何か吹っ切れたみたいな晴々とした顔をしていたと倉吉は思い出していた。今はその会社も孫の代になったが、M&Aを繰り返しながEUへの進出を果たしている。
小高い丘の上の別荘に着いた頃には、先に到着していた娘と芳江が出迎えてくれた。彼女は会社の代表作となった、今でも斬新さを失わない美しいテキスタイルのドレスを身に纏っていた。
「あなた、皆さんお待ちですよ。羽山社長もお着きになれましたよ」
「そうか、羽山君も来たか。忙しいはずなのに嬉しいな」
「それに敬子さん、藤木さんもお越しですよ。本当にお二人の力添えがなかったら今の私はないんだから、恩人です」
「カナちゃんに会うのは久しぶりだな。挨拶してこよう」
車椅子を芳江に預け、敬子は奥の広間に向かった。
倉吉がついた時には、小さな広間に見知った顔ぶれが並んでいた。
「80歳の誕生日おめでとうございます!」皆から一斉に声が上がった。
これまで関わった多くの人の顔がそこにはあった。
そして彼らもまた見えない絆で結ばれてここに来た。
別荘が静けさを取り戻した頃、庭のベランダで芳江は残ったワインを口に運んだ。
「私、コウちゃんにいろいろと謝らなくちゃならないね」
倉吉耕造は吉江の傍らに置いてあったポシェットに手を伸ばした。
「随分くたびれちゃったけど、このポシェットをプレゼントした時のことを覚えているかい?」
「ええ…」
「あの時、僕は何の取り柄もない男だから、きっと君は時々僕との人生に迷うこともあるかも知れない。でもそんな時は、君の悲しみや、苦しみや、迷いをこの中に放り込んで蓋をしてしまえば良い。そんな事さえこの鞄みたいに良い味になって僕たちの人生を彩ってくれるに違いない。確かそう言ったんだ」
だから、いろんな思いをこの中に詰め込んじまえば良い…。コウはそう心の中で呟いた。
ヨシは言葉を詰まらせ、ワインを飲み干した。
小さく震える手でポシェットを握りしめた彼女の肩をコウはそっと支えた。
浅い眠りの中でコウは思った。
明日には家に帰ろう。
またあの公園であの子と待ち合わせよう。
二人の頭上には星空はどこまでも広がっている。
自分たちの人生はこの空のようなものだと思った。
暗闇にも星は輝く。
空が暗いから星は輝いて見えるのだ。
夜が明ければ星は見えなくなるけれど、それでも確かにそこに存在している。
人生の暗闇を超えても輝き続ければ、やがて皆は光に包まれる。
私たちの人生はその繰り返しなのだ。