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花は咲く Flowers bloom in your garden.ⅩⅣ

その日は一年に一度の大潮の日で、
朝早く起きるとバケツとカナベラを持った人たちが
村のあちこちから集まってきていた。
小さな突堤から見える朝日が岬の杉の木のてっぺんに差し掛かるのが合図で、
僕たちはすっかり潮が引いた磯場に思い思いに散らばっていった。

●家族の台所

町中の公設市場に惣菜店を移したのは15年前。
色々あったけどようやく店が軌道に乗り出して家族が暮らして行けるようになった。
先に村を出て惣菜店を始めた岩夫さんの店に17歳で勤めて23歳の頃に独立した。
村に帰った時に連れてきた幼馴染の家内はいつも元気で大きな声で通りすぎてゆく客に話しかけた。
この人は僕と一緒になって幸せなんだろうか?
毎日朝の4時には店に入って仕込みを始める。
材料費を節約するために同じ時間に店の準備を始める八百屋の源さんとこに行ってクズ野菜を分けてもらう。傷んだところを取り除くのは面倒だけど、これでも下処理をして丁寧に料理すれば立派なおかずになる。
高野豆腐はいろんなメーカーがあるけど随分仕上がりが違う。
岩夫さんの店でいろんなことを教えてもらって、あとは自分なりに工夫してきた。
煮物はできるだけ水気を少なく、素材から水分を出す。
焼き物は片面をじっくりと焼いて裏側にじんわり油が染み出してきてから返す。
最後は塩で引き締める。
甘味は最初に入れて馴染ませる。

僕が育った村から最初の一人が修行に出たのは一体いつなんだろう?
物心がついた頃には、この村の男たちは都会に出て、自分たちの厨房を作り、料理の技を伝えて、その半数以上が料理人になった。
先に街に出て成功したものは、また村から出てきた若者を雇い入れる。
脈々と受け継がれる料理人の血脈がこの村にはあった。

父が料理人として暮らせるようになったのは30代半ばだったと聞いている。
僕と妹二人はまだ幼くて、それでも年末年始はお店を手伝わなくてはならないほど忙しかったのを覚えている。
父は僕が高校を卒業して「料理人になりたい」というと猛反対したのを覚えている。僕は結局大学に進学し、その後小さな広告会社に就職をした。
あの時反対していた父が、実は「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」と母に漏らしていた事を知ったのは、父が病に伏せって倒れた後のことだった。

いつの間にか僕は父が亡くなった歳を追い越してしまった。
僕が仕事をキッパリやめて店を閉じる話をした時に、結婚が決まった娘の相手が「一緒にお店をやりませんか?」と言ってきた時には泣きそうになる程嬉しかった。
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」と言った父の気持ちが痛いほど分かった。
そして父がなぜ料理人になることを反対したのかも分かった。
料理人なんてものは「継ぐ」ものじゃない。
才能があって、努力をして、諦めなかったものだけが「料理人」になれる。
誰かを継いでなれるもんじゃない。

「お店を始めたの」
娘から連絡が来たのはそれから半年経った頃だった。
娘婿は言いつけを守って調理場には立たなかったらしい。
聞けば婿の父親も料理人だったらしい。
開店祝いには顔を出したが、それっきり3年が過ぎた頃に再び娘から連絡があった。
「ごめん、お父さん。お店の仕入れのお金が足りないの」
金の無心だった。
お店を始める時に「覚悟はあるのか?」「もちろん」
と答えた「覚悟」はやっぱり本物じゃなかった。

5年目に二度目の連絡があった時には
「もう店を閉じてしまいな。お前には無理だ」
婿殿は顔を出さず、ただ銀行と交渉して大きな融資を受けるつもりだと聞いた。
「これ以上借金を作ったら取り返しがつかなくなるぞ」

それからしばらくして娘夫婦がやってきた。
「私、この人に怒られたの。覚悟のない人間に商売なんて出来ない、才能だけじゃダメなんだ。僕が覚悟を決めて厨房に口出しする。これから言い訳はするなって」
優しいだけのダメ男だった婿はこの日は別人のように見えた。
いや、これまで見誤っていただけなのだろうか?
娘にお店の全てを任せ切っていたのは、あの子の「覚悟」を見るためだったのかも知れない。
「お義父さんから借りたお金も、銀行の融資も僕が責任を持って必ずお返しします。そのために三年時間をください」
それから三年が経ったある日、娘から再び連絡があった。
「一度お店まで来て欲しいの」

開店時間より前に着くように約束していた。

その店は以前とは別の店のようにどっしりとその街に馴染んで見えた。
オープンした頃にあった華やかさは消えてシンプルで落ち着いた雰囲気の佇まいになっていた。
「いらっしゃいませ」
厨房の奥から聞こえてきた客を出迎える挨拶は働いている従業員の声だった。
厨房と客席を隔てる壁はガラス張りになっていて、たくさんの人間が働いているのが見えた。全員がきちんとクリーニングされたユニホームを着て、元気な声が飛び交っていた。
娘の名前を伝えて呼び出してもらった。
「店長、お父様がお見えになっています」
厨房の奥から娘が近づいてくるのが見えた。
少し痩せたように見えたがその顔は精気に満ち溢れていた。
「お父さん、来てくれてありがとう」
娘は厨房で従業員に混じって同じユニホームで働いていた。
続くように客席の後ろにあるドアが開いて婿殿が姿を現した。
「お義父さん。来てくれてありがとうございます。まずは何かご注文ください」
「そうだな」
革張りのメニューを手に取ってみると懐かしい名前が並んでいた。
それは私が惣菜店で出していた料理と娘婿の父親がやっていた洋食店のメニュー。
出された料理は綺麗に盛り付けられ、見た目も鮮やかで良い香りが鼻をくすぐる。
娘が少し緊張した顔で直接給仕してくれた。
ゆっくり口に運ぶとなんだか懐かしい味と、これまで食べたことのない味が混在していた。
そうか、これがこの子達の「覚悟」が作り上げた新しい味なんだ。
ただ継ぐだけでなく、自分たちの工夫を加え、新しい冒険もする。
微かに香るのはアジアのナンプラー。野菜の甘みのあるペーストは洋食の技法。
隠された深みはフォンドボーの技法。
ソテーした肉の微かな旨味と甘味は糀だな。
足し算と引き算。シンプルさと複雑さ。
素材の味を生かしながら手間をかける。
それぞれの素材には見た目ではわからない仕事を施して、一気に仕上げる。

「おいしいよ」
そう言った時にようやく娘は緊張がほぐれたように笑顔を見せた。

しばらくすると窓の外に人が並んでいるのが見えた。
娘が玄関に行き、ドアがカランカランと音を立てて開けられると家族づれやカップル、サラリーマン風の男性が次々と入ってきて小さな店の席が満席になった。
みな楽しそうだった。
頭の中で昔自分で立ち上げたあの惣菜店の賑わいと活気が蘇ってきた。
生きて躍動している店だけが持つ独特の雰囲気。
あたかもお客様も自分たちの家族のように一体感のある力のある店の空気感。

その空気に酔いしれて、気がつくと目の前の皿は空っぽになっていた。

「食後にデザートはいかがですか?」
婿殿は普段はお店には立たないで裏方に徹しているようだが、この日は父親から譲り受けたというコック服を身につけてホールを手伝っていた。
料理人ではないはずなのに、彼が纏っている空気はベテランの料理人しか持たないそれだった。
そうか、その空気感は彼の「覚悟」そのものなのだ。
目の前に良いコーヒーだけが持つ甘い香りのカップと香ばしいタルト菓子が一皿置かれた。
「キンカンの甘煮のタルトでございます」
ぷるんとした黄金色のキンカンがのった綺麗なタルトだった。
「これは・・・」
確かめるようにフォークを差して一口頬張った。
「やっぱり、」
彼は優しく微笑みながら頷いた。
「それはお義父さんのレシピをアレンジしました。びっくりするほど美味しいそのタルトはうちの人気メニューの一つです」

そうか、覚悟は彼らの中にだけあるんじゃなかった。
娘が料理店をする時に私も試されていたのだな。
受け継ぐという覚悟、引き渡すという覚悟。その二つが揃ってはじめて一つの「覚悟」になるんだ。
娘であることの覚悟、息子であることの覚悟。二人で生きることの覚悟。

お店を出ると、いつの間にかすっかり暗くなって
夜空に大きな月が花を咲かせていた。
あの海辺の村から続く道は世代を超えて
遠く離れたこの場所で花を咲かそうとしている。
まだ咲きかけの蕾だけど、やがて咲き誇り実を結ぶだろう。


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