花は咲く Flowers bloom in your garden.ⅩⅨ
遠くから声が聞こえる。
・・・・さぁ〜ん。・・・・さぁ〜ん。
ほっといてくれよ。俺は眠いんだ。
始発電車で帰るつもりで駅に向かって歩き始めたところまでは覚えている。
道端に座りこんでてうとうとしていた。
ぼんやり焦点が合わない俺の目に見覚えのある顔が見えた。
「こんな所で寝てたら風邪ひきますよ。さあ帰りましょう」
腕を掴まれて無理やり起こされた俺はいたく機嫌が悪く悪態をついた。
「何すんだよ!俺はもう一文字たりと書けねえんだよ!」
階段を上がると目が眩むような朝日が俺の目を刺した。
●吟遊詩人
まだ5時過ぎというのに編集部にはチラホラと人影が見えた。
校了日で皆が疲れ切った顔をしている。
「お帰りなさい」
なんだか間の抜けた返事を皆が揃って返してきた。
いつものことか、と思われているのかな。
編集部のミーティングルームの片隅のソファにいつものように横たわった。
あっという間に暗い闇が降りてきて俺は気を失った。
けたたましい目覚ましの音と共に俺は再び眠りを妨げられた。
目の前の膨大な量の原稿が置かれているのを見てすっかり目が覚めた。
「久保さん、昼までに校正終えておいてください。あと、これもお願いします」
手渡された原稿は俺がしなきゃならなかったページのものだった。
「昨日、僕が仕上げておきました。穴開けるわけにいかないので・・・」
頭の中に冷たい氷の塊が突き刺さるように血の気が引いて現実に呼び戻された。
元々スロースターターだった。
原稿の締め切りが近づくと次第に手が動かなくなってゆく。
僅かな休憩時間に編集部をそっと抜け出した。
いつも隠れ家にしているショットバーは編集部の面々には場所が割れている。
今日は別の場所にしよう。
繁華街の路地裏に足を踏み入れてしけ込む場所を探した。
カウンターだけの小さなバーに入ってバーボンを流し込む。
バーテンダーも初対面なら何も話さなくて済む。
それでもブツクサとクダを巻き始める。ただ逃げているだけの自分自身に延々と愚痴を垂れ続ける。
4時を過ぎる頃に「もう閉店ですよ」と言われふらつく足で立ち上がると路地中の塀にもたれて居眠りを始めた。
「あんた、こんなとこで寝たら死ぬよ」
店が引けて帰るキャバ嬢に声をかけられた。
「ご親切にどうも」
ろれつの回らない返事をして、
よろよろと立ち上がると誰かが俺の腕を引き上げて歩き始めた。
そこからの記憶はない。
気がつけば編集部の休憩室のソファの上だった。
猛烈な焦りの中で山積みの原稿に朱書きを入れ始めた。
全部の原稿を校正し終えて、デスクに渡すときに呼び止められた。
「久保ちゃんさあ、すまないけど後で編集長のところに顔を出してくれるかな?」
「あのさぁ、今回で何度目かな?」
聞かれてもそのほとんどは正確な記憶はない。
「もう無理なんだよね。久保ちゃんみたいに知識も豊富で才能のある編集者はいないしライターとしても有能な人は少ないけれどさ、でも、久保ちゃんが現場から逃げた後のこと考えるともう庇いきれないんだよね。あんた一人のカバーで昨日の夜何人が居残ってくれたと思う?このままじゃ示しがつかないんだよ。悪いけど、明日から出社しなくて良いから。その後のことはまた連絡するわ。今日は帰ってくれ」
その最後通告をこれまでも何度も予感してたけれど、今回は本当の本当の最後通告だとわかっていた。いやむしろ、俺自身がその言葉を自分自身に言い聞かせていた。これが最後なんだ。
1ヶ月経って、机の上にあった雑多な荷物と書庫に置かせてもらっていた資料を段ボールに詰めに編集部に顔を出した。
「はせやん。いつも迷惑ばかりかけてすまんかったな」
はせやんは俺の肩をポンと叩くと無言で俺を送り出してくれた。
副編のしまちゃんが小さな花束を俺のダンポールの中に放り込んでくれた。
「運命と闘いな!久保先輩」
翌日から闘病生活が始まった。
「アルコール依存症は病気です。それを強く認識してください。この病気は人を廃人同様にすることができるのです。そしてアルコールの依存はあなたの意志よりも強力な誘惑を絶え間なく送り続けます。長く苦しい戦いを勝って自分の人生を取り戻しましょう」
体からアルコールを抜くときの苦痛。震え、滝のような汗。体の芯から湧き上がる不安。見えない敵の囁き。それは幻聴などではなく自分の頭の中で作り出した声が本当に鼓膜を通して聞こえるのだ。
ペンをとった。
もちろん仕事などできるわけではない。
一冊のノートに言葉を書き殴る。
最初の数ページは文字にさえなっていない。
そのあとは文章ではない。叫び、苦しみ、感情の爆発。叫び声を文字に変換していた。時には声に出して家族に当たった。
そのあとは罪悪感に苛まれ涙を流しながら家族に頭を下げた。
妻は子供のように俺を抱きしめてくれた。
娘は高校を卒業し地方の大学へ旅立った。
やがて、体の震えはおさまり、書き殴っていた文字は少しづつ文章になっていった。
あれから10年が経過し、目の前に家族の姿があった。
娘の傍には旦那が立っている。
懐かしい編集部のみんなの顔もあった。
「老師。お元気そうで何より」
はせやんは社長らしく他の出版社の偉いさん方と挨拶を交わしている。
娘を手招きすると、その偉いさんに彼女を紹介してくれていた。
娘がこっちに戻って編集者になって5年。
ようやく顔つきが一人前になってきた。
しまちゃんはすっかり貫禄がついて担当の新雑誌も軌道に乗ってますます迫力が出てきた。
「おめでとうございます。久保先輩。ほら、みなさんお待ちかねですよ」
俺は背中を押されて壇上へと上がった。
まるで遠くから聞こえるこだまのようにMCの声が響いていた。
「それではご紹介します。この度、新刊が編集者が選ぶ「書房大賞」を受賞された・・・」
俺は刷り上がったばかりの本を手に持って壇上に上がると、
花束を手に持った妻が舞台袖から進み出ようとしているところだった。
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