兄と妹と「優しい嘘」のある社会
今の社会って「ホワイト」が、めちゃくちゃ重視されています。高校の校則もサイトでオープンにするようになりました。
いわゆる嘘、虚言、「こんなハズじゃない」組織などは、SNSなどで暴かれて追及される。ブラックが灰色にもなりえず、そのために「ホワイト」な社会になること自体はとても良いことです。
不正とか、虚偽申告とかで、被害を受けてしまうことは避けたいし、情報を自分で選択したいです。
しかし、相手のことを本当に思ってあえて「言わない」こと。
そして、「言う」ことを強要しない社会もまた意味があるのではないかと思います。
ここからは、夏になるといつも思い出す、私が育まれた「優しい嘘」の社会の回顧録です。
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11歳年上の兄は、兄でありながらも父のような存在でした。
父は子どもと遊ぶに関心がなく、仕事帰りにはパチンコ屋にザンギョーに行って、一喜一憂してお金を使うという厄介な存在でした。
忙しい母の代わりに、兄は盆踊りや夏祭りにも連れていってくれました。
「走り出すよ、しっかりつかまってろよ」
思春期で恥ずかしかったでしょうに、5、6歳の私は高校生の兄の大きな背中に手を回してぎゅっとつかんで、盆祭りの寺まで自転車で走ってくれました。
兄のなけなしの小遣いから、買ってくれたのだろう水入りポンポンをもったりして、およそ私はご機嫌でした。
どうして、そんなに優しいのか。
それは、年の離れた妹が可愛かった、というのも正直あったと思いますし、母が苦労しているのを目の当たりに見ていて、助けようとしていたのもそうだと思います。
でも、もっと根本的な理由があるとは、まったく知らない私でした。
実は、母は、私と兄が仲良いことを、暖かく見守るようであり、冷ややかに監視しているように感じる時もありました。
父という「問題児」にチーム一丸として戦いながらも、平穏なときは祖母は、母の不在を見計らって電話で知人に母の悪口を言い、妹は独りでもくもくと科学本を読み、私と兄はそうめんをふたりで食べる。
そういう、家族でした。
そして、それは兄が結婚した翌日の
「あの子がやっと家を出てくれた。ホッとしたわ。」
結婚式の春には不似合いな木枯らしのような言葉に、私の体温が1℃下がった。
「どうしてそんなことをいうんだろう」。
なんの疑いもなく大好きだった母に対する「信頼」に、数ミリの軋みが入った瞬間だった。
そして、それらの謎がすべて解ける日は、6年先の20歳の時でした。
大学が夏休みで、居間にいた時。
食事の支度をしていた母が、まな板に向かっていた姿勢を反転し、私の方を見ながら、静かに言い始めました。
「実はね、お兄ちゃんのお母さんは他の人なのよ。私じゃないの。」
「えっ、なんの話?」
「お兄ちゃんの本当のお母さんは、あの子が6歳ころに、病気で死んでしまったの。その数年後に、お父さんと結婚して私はこの家に来たのよ」
そうなのか。
だから、
兄が病気になると母も心配していたけど、いつも真っ青な顔して夜中も看病するのは祖母だったのだ。
兄が悪いことをしても(余りそういうことはしない人だが)、私や妹を叱る時の厳しい口調でなく、冷静で距離のある「注意」だったのだ。
仏壇には「名のない」位牌があり、その方の法事の時には関係がさっぱり分からない(説明してくれない)人が来て、母は参列せずに家にいたのか。
そして、
兄が守っていたのは、父の暴力だけでなく、
本当の母の不在で火が消えたように寂しかった家に嫁いできた、
美しく優しい母がいる「家庭」だったのだ。
その母が溺愛する私や妹を、償いのように大切にしてくれたのだ。
と、やっと気づいたのです。
急に涙が溢れて、とまりませんでした。
私は、なんとやすやすと母の愛情を手に入れていたことか。
兄の孤独や寂しさを知らずに、のうのうと甘えて生きてきたことか。
兄の苦労を思えば、私の鬱屈などは微々たることのように思えた。
そして、何より、こういう告白を母の口から、直接私に話してもらえる状態にあったことに感謝しました。
多分、みんな知っていたのです。
親戚はもちろん、ご近所の人達も。知らなかったのは私だけでした。
「私ってアホだな、鈍感だな」
しかし、そういう「疑問」が生じない世界を作っていてくれたのだろう。
ご近所からも親戚からも、一言も「継母だ」とか「前の奥さんは」などの話を私が聞いたことはありませんでした。
兄と私が道端で遊んでいると、近所のおじさんもおばさんも、ただ温かいまなざしで見守っていてくれた。
そういう地域で生きてこられたことに「ありがとう」しかなくて、また涙がでました。
父を通して感じる社会は、ただ冷たく、弱者を痛めつける、サバンナのようなモノでした。
それはご近所に対しての私の見方も同じでした。
しかし、実は「温かい」のではないのか。
隣のおじさんが、父が暴れすぎると、家に来て止めてくれるのも「迷惑」だけでなく、「思いやり」だったのでは、と思えた時でもありました。
何もかも「まっさらなホワイト」でなくてよい場もある。
「優しい社会」のために、「優しくない人」が作らされて、そうでない意見を持つ人が阻害されるのは、本当に「優しい」のだろうか。
ただ、見守る。相手の未来と力を信じる。25℃弱の温度感で。
もし家庭が機能しないのであれば、そういう社会や地域のちょっとした「優しさ」というおせっかいが、つぶれそうになる「ひとり」の存在を育んでいけるのではないか。
そんな風に思う師走です。