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小説 「理由」
1. 不可解な忘れもん
「ほな、行ってくるわ!」
そう言って玄関を飛び出した瞬間、足が止まった。
忘れもんをした気がする。
ポケットを探る。スマホ、財布、定期、全部ある。
カバンの中も問題なし。
「気のせいか…」
けれども、心のどこかがざわつく。妙な感覚。
結局、もう一度部屋に戻ることにした。
部屋の中をぐるりと見渡す。
――ない。やっぱり、何も忘れてへん。
「なんやねん…」
首をひねりながら、もう一度ドアを開けたその瞬間、ドンッ!
目の前を自転車が猛スピードで通り過ぎた。
反射的に後ずさる。危うくぶつかるところやった。
「…え?」
もし、忘れもんをした気がせんかったら、今ごろ…
――いや、考えるのはやめとこ。
訳の分からん違和感に救われるなんて、ようわからんけど、ゾクッとした。
2. 華のある男
「お前、また遅刻かいな」
カフェの奥の席で、余裕たっぷりに笑う男がいた。
一流の営業マンで、どこへ行っても一目置かれる。
顔もええし、愛嬌もある。華のある男や。
「いや、ちょっとな」
さっきのことを話すと、槙原はニヤリと笑った。
「それ、お前の潜在意識やな」
「…ん?」
「なんかが『行くな』言うたんやろ?」
「そんなオカルトみたいな話、信じるかいな」
「せやけど、助かったんやろ?」
槙原はコーヒーカップを傾けながら、意味ありげに目を細めた。
「まぁな」
「ほんなら、感謝しときや」
「何にやねん」
「お前自身にな」
照れたように笑って槙原はカップを置いた。
3. 槙原の影
槙原は誰からも好かれる男やった。
けれども、ふとした瞬間に見せる目の冷たさが、気になっていた。
ある日、仕事帰りに立ち寄ったバーで、槙原は言った。
「…俺な、忘れもん、めっちゃ大事にするねん」
「忘れもの?」
「昔、手帳を落としたことがあってな。その日、大事な取引の約束があったんやけど、メモしてた時間も場所もすっかり忘れてしもたんや」
「それ、えらいことやな」
「せやろ? けどな、その取引、実は裏があった」
「…裏?」
「俺が行ってたら、ハメられてた。会社に損害出すとこやったわ」
槙原は苦笑しながら、氷の溶けかけたグラスを回す。
「だからな、俺は『忘れる』ことにも意味があると思ってる」
4. ものを大切にする理由
槙原の話を聞いてから、俺は少し変わった。
普段、なんとなく雑に扱っていたものを、大事にするようになった。
鍵、スマホ、メモ帳。
どれも、ある日ふと「失くす」ことで、大事なことに気づかせてくれるかもしれへん。
人間の潜在意識には、もしかしたら**自分を守るための「忘れる力」**があるんかもしれん。
「…お前、ちょっとは成長したな」
槙原がニヤリと笑う。
「いや、まだようわからんけどな」
俺はコーヒーをひとくち飲みながら、なんとなく心地いい空気を感じていた。
ここは、たぶん、成熟した人間が集まる場所なんかもしれへんな。
5.GO
それから数週間後、槙原が会社を辞めた。
「なんで?」と聞いた俺に、槙原はただ一言、こう言った。
「ここにおったら、大事なもん、忘れてしまいそうやからな」
それが何を意味するのか、俺には分からなかった。
けれども、槙原が去ったあと、彼のデスクにそっと置かれたままのライターを見つけた。
俺はそれを手に取り、思った。
「忘れもん、めっちゃ大事にする」って言うてたくせに、こんな大事そうなもん、忘れて行くんか。」
槙原の言葉と行動、そのすべてに意味があったんかもしれへん。
俺はそっと、そのライターをポケットにしまった。
「忘れもんの理由」を、いつか槙原に聞くために。