子育ては親のエゴのかたまり
1歳半を過ぎた息子を見て最近つくづくそう思う。
生まれてすぐ、いちばん最初に貰う名前
おれ、こんなキラキラした名前やだよ…
あたし、なんでこんな渋い名前なの…
自分でチョイスする隙もなく
いつの間にやら自分のアイデンティティの一部が形成されている。
着せる服も、こんな全身茶色い服…こんなキャラクターだらけの服…と思う隙もなく、親の好みで染められていく。
そこに本人の意思は反映されないまま、親のされるがまま、なかば着せ替え人形のようにされている。
身の回りのものだって、おれ木のおもちゃじゃなくてもっとピコピコ音が鳴るやつがいいんだけどな…あたしもっと赤とかピンクとかハートとか書いてあるおもちゃがいいな…
そう思っていそうだなとどこかで気付きながらも、教育方針という名の親の価値観を押し付けている。
息子のイヤイヤ期が始まった。
噂には聞いてたけど、なるほどこれはかなりしんどいぞ?と毎日ヘロヘロだ。
どうしたらいいんだ、なぜ服を着てくれない、なぜごはんを食べない、なぜオムツを替えさせてくれない、いつまでもお尻の下にうんちがあって気持ち悪くないのか?????
そんなわたしの気持ちなんて知ったこっちゃねえ!と、わたしに強制連行&執行されながら大暴れ&大泣きしている息子を見て
待てよ、と。
これだって、わたしの一方的な押し付けじゃないか。
服着てくれないとお散歩行けない、ごはん食べてくれないと心配だし残飯捨てるの悲しい、オムツ被れしたらかわいそう
そう思ってるのは、わたしじゃないか、わたしだけじゃないか。
彼にも意思がある。
今まで何もかも文句なしに受け入れてくれたじゃないか。
そりゃ彼だって反抗もしたくなる。
お尻の下にいつまでもうんちがあったって、別に平気なんだ!それより今、ぼくはミニカーに夢中なんだ!邪魔してくれるな!
ごもっともです。
そう思ってから、息子のイヤイヤする姿にイラついたり困ったりする気持ちは減少し、むしろ愛おしいなあと思うようになった。
今はまだ、わたしの好みのテイストの服を着てくれている息子。
わりと全身茶色めの服を、なんの文句もなしに着てくれている。
それもいつか、なんだこんなの!着たくない!おれはなんちゃらレンジャーのスウェットがいい!靴は○○くんが履いてる光るかっこいいのがいい!なんて言い出すのだろうなあ。
その時はそれらすべて受け入れてあげたいなあと思っている。
これまで散々わたしのエゴに付き合わせてしまったのだから、その時はちゃんと君の意思を尊重させてもらうよ。
それまでは申し訳ないけど、もう少しだけ、茶色みがかった服を着ていておくれ。
愛おしい息子よ。