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朴基浩監督作品 映画『はざま-母語のための場をさがして-』を観て。
今日は、どうしても観たいドキュメンタリー映画の上映会があり、上智大学の四谷キャンパスに行ってきました。
日本に移住し、地域に根ざして生活している外国ルーツの親子の多くが直面する「母語」の問題について、映像作家の朴基浩監督が膨大な取材を重ねて映し出した渾身作です。
新聞・テレビ・Web記事などで断片的に取り上げられたり、学術的なフィールドで論じられることは多々ありますが、母語を主題に据えた物語(ナラティヴ)が一編のクリエイティブ作品として社会に提示される事例は、極めて稀少であると思います。
この作品は、上智大学の田中雅子教授が「日本と出身国を往来する移民の子どもの社会再統合を見据えた言語教育-母語・公用語の補習教室を地域の『多文化共生』の拠点に」(Migrant Children Language:MICLE)プロジェクトの一環として朴基浩監督にオファーし、「トヨタ財団2022年度国際助成プログラム」の助成を得て制作されたそうです。
生命を削り、透明な社会課題を浮かび上がらせた朴監督
朴監督がファインダー越しに見つめたのは、「特別」な親子ではありません。
私と同じく日本で家庭を営み、日本の学校に子どもを通わせて、日本社会に送り出そうと心を砕くネパール出身の親の素顔です。そして、親を思い、祖父母を思い、友だちを思って生活している子どもたちの様子も、日本出身である私の子どもたちと何ら変わらないものでした。
ただ一つ、本作では、家庭内言語が「日本語」のみで、家族全員が「日本人」である私には容易に想像できない葛藤が描かれています。圧倒的多数が日本語しか使わない日本社会で、それ以外の言語を、親と子の共通の「母語」として定着させるのは、決して容易なことではありません。多くの親は、どうしたら良いのか分からず、漠然とした迷いを抱えながらも子どもの成長を見守るしかないのです。我が子の母語が、自分のそれとは徐々にかけ離れていくことに対するもどかしさが、画面越しにひしひしと伝わってきました。
言葉の発達プロセスは目に見えず、十人十色で数値化できない要素があまりにも大きいため、「社会課題」として認識されにくいのも現実です。
本作では、地域の母語教室や夜間学校などで、複言語・複文化の中で揺らぐ親子に寄り添い伴走している人々の声も、丁寧に掬い上げていました。
40分という中編映画でありながらも、過不足をまったく感じなかったのは、在日コリアンとして生を受けた朴監督が、自分自身を構成する言語や文化について切実に模索してきた過去と改めて対峙し、溢れ出る率直な感情を作品に織り交ぜて、研ぎ澄まされた問いを私たちに投げかけてくれたからではないかと思います。
「母語を保障する必要はあるのか?」
「あるとしたら、その責任は誰にあるのか?」
日本国憲法では「基本的人権」の尊重が謳われています。基本的人権とは、教育を受ける権利、健康で文化的な生活を送る権利、政治に参加する権利、働く権利、住まいや職業を選ぶ自由、言論・出版の自由などです。母語は、これらの基本的人権を支える基盤と言えるでしょう。
私がマルチリンガル絵本の出版社を立ち上げたのも、日本で生活する人々が使用している言語は、日本語だけでは決してないにもかかわらず、そこには母語の保障という透明な課題が横たわっている事実を可視化するためです。
朴監督が手がけた本作を観て、私自身もまた、次の作品を生み出せるように精進しようと勇気を得ました。