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短編小説『セオリーの向こう側』

ルミは、その瞬間この世から消えてもいいと思っていた。

「待たせて本当にごめん。これからきちんとするから。ルミのいない人生は考えられないから。他の男のところには行かないで欲しい。」

洋平の腕はルミの肩を引き寄せる。ルミは身体のすべてが熱くなる幸福感に包まれていた。

ずっと不安だった。洋平を信じようと思っても、世の中の不倫のセオリーどおり、結局は妻の紗江に戻っていくと、どこか諦めていた。

「あっちの家賃もあるから贅沢はできない。でも、部屋は借りるから。」

妻と別居。今までは外食にラブホテルだった日々が一変する。

「ルミの手料理を食べてみたかったんだ。」
「私ね、ずっと洋平にお料理を作りたかった。」

喉の奥で繰り返すだけだった言葉を口に出してよかった。

「私は未来が欲しい。洋平と2人で堂々と生きて行く未来。私の強がりを都合よく扱われるのがずっと寂しかった。もう、私はあなたを嫌いになる。」

洋平がゆっくりと身体を離したあの日から、あっという間だった。

『私、山下洋平の家内です。お話しがあります。お会いできますか?』

こんな日が来ることは覚悟していた。さすがにLINEを見た時には手が震えたけれど、逃げようなんて思っていない。

『もちろんです、日程候補を以下に。』

なるべく淡々と。紗江に何を言われようと進むしかない。

「ルミさん、あなたはどうしたいの?」
「私と洋平さんを結婚させてください。」
「妻の私を不幸にしたいってこと?」
「奥様はこの時点でもう不幸です。洋平さんは私が引き取ります。」

紗江は混乱した。ルミには家庭を壊すことの正義を振りかざし、追い込むつもりだったのに。

確かにルミの言う通り、洋平に『大切な人ができたから別れて欲しい。』と言われたときは全力で悲劇のヒロインだった。でも、同時にあの義母と離れられると思った。

洋平との間に子どもができずに5年。それでも二世帯住宅を計画し、孫の面倒を見ると提案してくる。洋平は「そんなに俺の親と住むのが嫌なんだ。」と言い放ったきりだった。

「ルミさんは、洋平と添い遂げる覚悟はあるの?」
「私と洋平さんは愛し合っているんです。」

紗江には凶器のはずが解放に思えた。

しかし制裁は受けてもらう。ルミさんだけではない。洋平にも。

「家庭裁判所、離婚調停。洋平とあなたへの慰謝料。会社とご家族にも迷惑がかかるけど。」

「わかっています。ローンを組めるだけ組んでお支払いします。会社と家族にはあらいざらい、奥様が気のすむまでぶちまけてください。」

ルミの覚悟は紗江の想像を超えていた。

洋平の慰謝料は両親が半分出すとのことで合意し、ルミさんの慰謝料は即入金で終了した。紗江は少しでも洋平に守ってもらえると思っていた自分に呆れた。

「本当に二世帯住宅でいいの?一応新婚なのに。」
洋平は焼魚や煮物を食べながら言う。

「うん。子どもが生まれたらご両親にお願いできる方がうれしいから。」
「ルミの作ったこの煮物、おいしいよ。」
「お義母さんから教わった味付けなの。」
「やっと、居場所ができた。」

双方の両親には、洋平がまだ結婚していた時から付き合っていたことも告げた。父は激怒したが、母はさほど驚かなかった。小さくため息をついて「こんなことになるなんて。」と言っただけだった。

義母は子どもができたことを誰よりも喜んでいた。「うちの大切な跡取りの面倒を見させて。」と言う目は純粋で、嘘がなかった。こうやって義母は家を守ってきたのだ。その考えはルミを安心させた。この家の家族になりたい。

午後7時からの講演会は、自然食研究家とのコラボだった。紗江の料理学校仲間も大勢来る。離婚して最初に住んだマンションは手狭になり、引っ越すことを決めた。

「事務所を別に借りるの?」
「違う、LDK部分を事務所にしようかと。」
「紗江、人生楽しんでるね。」
「そう。夫にだけ手料理をふるまってたなんて信じられない。たくさんの主婦たちが楽しく美しく料理を作る姿を見る方が、今はすごく楽しい。」

「お待たせ。」
頭上からの声に笑みが溢れる。紗江はノートPCから顔を上げる。女性起業家の顔はオフにしよう。

専業主婦の慎ましやかな暮らしと、子どもを作る努力に苦しんだ日々に未練はない。実母に言われた「我慢しなさい」を受け入れていたら間違いなく今の自分には出会えなかった。

人生はトラブルを含めて思い切り楽しみたい。乗り越えなかったら見ることのなかった世界はまだあるはず。

私と結婚してくれてありがとう。離婚してくれてありがとう。

紗江はオフィシャルブログの更新ボタンを押した。

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こゆき(koyuki)
いつも温かいサポートありがとうございます。大切な時間をくださって、すごくうれしいです。これからも心を込めて書いていきます。