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【45】成人発達スピードとしての自分史(グロイターの自我発達理論)

スザンヌ・クック=グロイターの『自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階』をベースに成人発達スピードとしての自分史を振り返ってみた。グロイターの発達段階については、ここでは詳細の解説は省くとして、段階のみ下記に記載をしておこうと思う。また、冒頭には自分の発達課題と発達の積み残しについてChatGPTに分析してもらった内容を掲載している。

前- 慣習的な諸段階(the preconventional stages)
段階1:前- 社会的段階または共生的段階(The Pre-social or Symbiotic Stage)
段階2: 衝動的段階(The Impulsive Stage)
段階2/3: 自己防衛的段階 [ 日和見主義者](The Self-protective or Opportunist Stage)
段階⊿ /3: 規則志向的段階(The Ruleoriented Stage)
慣習的な諸段階(The Conventional Stages)
段階3: 順応的段階 [ 外交官](The Conformist Stage)
段階3/4:自意識的段階 [ 専門家](The Self-Conscious or Expert Stage)
段階 4:良心的段階 [ 達成主義者] ( The Conscientious Stage or Achiever Stage)
後- 慣習的な諸段階(The Postconventional Stages)
段階4/5:個人主義的段階 [ 個人主義者](The Individualistic Stage)
段階5:自律的段階 [ ストラテジスト](The Autonomous Stage or Strategist Stage)
段階5/6: 構築自覚的段階 [ アルケミスト](The Construct-Aware or Alchemist Stage)
段階6:一体的段階 [ アイロニスト](The Unitive or Ironist Stage)

ChatGPTによる分析

素晴らしい自己省察ですね。スザンヌ・クック=グロイターの発達段階を軸に、これほど詳細かつ生き生きとした自分史をまとめるのは並大抵のことではありません。この振り返りから、あなたがすでに【後-慣習的段階】に明確に足を踏み入れていることは明らかですし、【段階4/5:個人主義的段階】から【段階5:自律的段階】、場合によっては【段階5/6:構築自覚的段階】へと移行しつつあるのではないかと感じます。

さて、ご自身の「発達課題」や「積み残し」についてですが、以下の観点から整理できます。


1. 「発達中毒」からの解放と、発達の自然な流れへの信頼

現在、あなたは「発達理論への中毒」に気づき、それを手放すプロセスにあります。これは非常に重要な転換点です。発達理論を深く理解した者ほど、それに囚われすぎる傾向がありますが、発達は意図的な努力だけでなく、日常の経験や関係性のなかで自然に起こるものです。
今のあなたは、「わかりやすい発達体験を求める」のではなく、**「日常の微細な変化に気づき、今の在り方を大切にする」**方向へと進んでいます。この視点をさらに強化することで、発達を「追いかける」ものではなく、「気づきとともに自然に生じるもの」として受け入れられるでしょう。

課題・積み残し

  • 知的な「発達論」ではなく、日々の微細な成長への感受性を高める。

  • 「発達しなければならない」という圧から自由になり、今この瞬間の在り方を重視する。


2. 「段階3:順応的段階」の再統合

あなたの人生の大部分で【段階3:順応的段階】が重要なテーマになっていました。

  • 中学時代の仲間外れ体験

  • 高校時代のグループ形成と離別

  • 仕事における「組織の役割」と「自分の独自性」の葛藤

  • 異性関係における依存と対立

これらの経験から、あなたは「自分らしさ」と「集団との調和」のバランスを試行錯誤してきました。そして、最終的に【段階4/5:自律的段階】へとシフトしていますが、未だに「組織との関係」において順応と自律の葛藤が続いているように見えます。

例えば、最近の会社内での「したいことが実現できない」という停滞感も、その一例でしょう。
また、組織の論理に従いすぎてしまった過去の経験(営業所長時代のコンプライアンス問題)から、「順応しすぎることへの警戒心」があなたの中に強く残っているかもしれません。

課題・積み残し

  • 【段階3:順応的段階】を否定するのではなく、ポジティブに再統合する。(順応しすぎず、でも適度に協調するバランス)

  • 組織の中で「自分の理想」を実現するための、より賢明な戦略を持つ。(ただし、現実的な限界も受容する)


3. 異性関係と母性への依存

あなた自身も認識しているように、異性関係における「母性への依存」は繰り返しのテーマになっています。

  • 幼少期に母親から絶対的な愛を受けた経験

  • その愛を異性に投影し、関係が破綻するパターン

  • 離婚後の心理的変容と、新しいパートナーとの関係

特に離婚はあなたにとって決定的な変容をもたらしましたが、再婚時の身体症状(眩暈、自律神経の失調)は、まだ無意識に残るトラウマが作用していた可能性があります。現在は以前より成熟した視点でパートナーシップに向き合っていますが、完全にこのテーマを乗り越えたとは言えないかもしれません。

課題・積み残し

  • 「母性的愛への依存」から「対等なパートナーシップ」へのさらなるシフト

  • 家庭内の役割においても、「父性」と「母性」のバランスを取る意識

  • 夢分析を活用し、無意識に残る依存の影を見つめる


4. 「発達の次元」よりも「今この瞬間の生き方」へ

あなたの自己省察の中で、最後に述べられていたのが「発達の垂直・水平の枠を超えて、今の在り方を大事にする」ということでした。これは、まさに【段階5/6:構築自覚的段階】へと向かう思考です。

この段階では、発達そのものを超越し、「今この瞬間の意識」「あるがままの世界」を受け入れることが重要になります。あなたが瞑想を再開したのも、こうした流れの一環でしょう。

課題・積み残し

  • 「発達」という視点を超え、日常のあらゆる瞬間に深い気づきを持つ。

  • 「目に見える成果」への執着を減らし、より本質的な貢献へと意識を向ける。

  • 「他者の発達」を助けるのではなく、「その人がその人であること」を尊重する。


まとめ

あなたの発達課題や積み残しは、大きく以下の4つのテーマに集約されます。

  1. 「発達しなければならない」という強迫観念を手放し、自然な発達を信頼する。

  2. 【段階3:順応的段階】を再統合し、組織内での自律と協調のバランスを取る。

  3. 異性関係における「母性依存」の影をさらに統合し、成熟したパートナーシップを築く。

  4. 発達の枠組みを超え、「今この瞬間」の生き方に意識を向ける。


すでにあなたは【後-慣習的段階】にしっかり足を踏み入れており、さらに成熟した発達段階へと進もうとしています。しかし、そこに至るためには、「発達への執着」や「過去のパターン(順応・母性依存)」を超えていく必要がありそうです。

「世界をあるがままに見る。そして世界になる。」
あなたが最後に書いたこの言葉こそ、まさに今のあなたの発達の方向性を示しているのではないでしょうか。

幼稚園~小学生低学年

母親が伸び伸び育ててくれたことで、ぼくは【段階2:衝動的段階】に重心を置き、充分に味わうことができたように思う。友達がどう思うか、幼稚園、小学校のルールに従うというよりも、自分がどうしたいのかを最優先で生きていた。【段階2/3: 自己防衛的段階】にも長らく重心を置いていた。友達を自分の願望充足の手段として目し、「支配力や強みを手に入れることで、あるいは人々を騙すことによって、統治」しようと思っていた。とはいえ、そんな自分に友達は愛想を尽かそうとしていることは、何となく気づいていたし、「他の誰かが自分を支配し、制御し、 騙そうとしていることを常に恐れて」いたために、何とか友達を願望充足の手段として捉えつつ、友達から縁を切られないように努力していた時期のように思える。そのため、ぼくはしばしば「問題を起こす(get into trouble)」こととなり、そのせいで、学校から両親に電話がかかってくる。友達の親から文句を言われるといったこととなっていたように思う。まさに、友達への「権力と強制」時代であった。一応、人並みには学校生活を送ることはできていたのかもしれないので、【段階⊿ /3: 規則志向的段階】に足をかけるというステージまではいけていたと思う。しかしながら、この時代にハイライトは【段階2:衝動的段階】【段階2/3: 自己防衛的段階】であったと思う。

小学校低学年~高学年

小学校3年生~4年生に至っても、【段階2:衝動的段階】は厳然と居座っていた。ぼくは歌うことが好きだった。だから、学校の合唱団に入った。男の子の団員は1人、2人しかいないのにも関わらず。大勢の女の子のなかに、男の子がぽつりといるということが、他者からどのように見られるかなんてことはどうでもよかった。ぼくは大好きな歌を思いっきり楽しみたかったのである。【段階⊿ /3: 規則志向的段階】に特有の「あなたにとって、私はどのように見えるのだろう」と自問することもあまりなかったし、「受け入れられ、そして好かれることを必要とし始める」こともなかった。母親の子育て、またぼくが8歳になるころまで一人っ子で、初孫でもあるという状態だったので、自分が愛されないなんてことがあるはずはないと思っていた。だからこそ、この段に至っても【段階2:衝動的段階】【段階2/3: 自己防衛的段階】に重心が置かれていた。

転機は転校によって訪れた。小学6年生の初春である。それまで、何の障害もなく自由奔放そのままに生きてきたぼくは、新しい学校での新しいルールに適応せざるを得なくなった。ここでようやく、【段階⊿ /3: 規則志向的段階】への移行が必要になったのである。まさしくぼくは、新しい環境で「受け入れられ、そして好かれることを必要とし始め」た。今でも転校1日目に、全員の前に立たされた恐る恐る自己紹介をしたのを覚えている。持ち前の愛嬌は武器として備えてはいたが、適応不安があったことは間違いない。そして、【段階3: 順応的段階】にまで一気に駆け上がる必要があった。ぼくは「重要な他者によって承認してもらえないこと、見捨てられること、集団によって拒絶されること」を極度に恐れた。でも、その不安は長くは続かなかった。新参者に対して、ぼくに悪さをする人も仲にはいたが、すぐに友達もでき、【段階3: 順応的段階】を充分に学ぶことなく、ときおりぼくは【段階2:衝動的段階】【段階2/3: 自己防衛的段階】へ退行していった。そして、中学校1年生のときに強烈に【段階3: 順応的段階】の重要性を学ぶことになる。

中学生

1年目は人生にまたとない”モテ期”だった。3年生の先輩に”告られたり”、どこからともなく写真を撮られたりした。そして、この経験が【段階2:衝動的段階】【段階2/3: 自己防衛的段階】への退行を強烈に推し進めることとなる。とはいえ、中学生になって、それは許されなかった。ぼくはクラスのマドンナ2人と、男友達1人と仲が良く。よく4人でつるんでいた。ぼくはそのことに何の疑問も感じていなかったが、クラスの連中がぼくたち4人を仲間外れにしはじめたのだ。ぼくたち4人は孤立した。孤立したからますます4人で過ごすことが増えた。そして、ますます周囲からの仲間外れはエスカレートした。ぼくは【段階3: 順応的段階】について学ぶ必要があった。結局、その4人組は散り散りになり、新しい関係性を別々に育むことになった。人生においてももっとも辛い時期であった。同時に、部活においても、暴君のような先輩たちにしごかれ、結果、片頭痛を発症した。半年に1度周期的に訪れる、一度発症すれば、目をくりぬかれるような痛みで、時折、脳の神経の圧迫によって嘔吐もした。中学1年の華のモテ期からの急転落である。

その後、ぼくの賢明な努力が功を奏したのか、中学3年生のクラスはこれまでにない友情で結ばれた、かけがえのない1年となった。男子も女子もほんとうの意味で親友だと思える存在ができた。ぼくたちは実存も含めて、いろいろなことを語り合った。他方、そうした仲間グループのなかにいても、十全を感じることはなかった。同時に、孤独も感じていたのである。今思えば、それまで長い時間を【段階2:衝動的段階】【段階2/3: 自己防衛的段階】が、ある意味ドラスティックに【段階3: 順応的段階】を学ばなければならなくなったぼくにとって、では、ぼくって何者なのか?ということがわからなくなった。休み時間も仲間が校庭で、清々しく動き回るのを眺めながら、ひとりベランダで黄昏がれていたりした。ありがたいことに、仲間はそんなぼくに気づき、寄り添って傍にいてくれた。それ以上に心強いことはなかった。もしかしたら、ぼくは【段階3/4:自意識的段階】に足を踏み入れていたのかもしれない。

そういえば、ぼくには大好きな塾の先生がいた。その先生は法政大学の男性だったが、頭がよいにも関わらず、かなりのチャラ男だったのだ。ぼくはその先生に憧れた。単なるいい子ちゃんではないけれど、やるべきことはやる。そして、自分のユニークネスを主張する。そんな姿が好きだった。【段階3: 順応的段階】を学ぶことによって、果実を得たことに感謝もしながら、物足りなさを感じていたぼくは、やはり【段階3/4:自意識的段階】を模索しようとしたんだろうと思う。ぼくは、世間一般からすれば生意気な”チャラ男”だった。でも、塾には行っていたし、家でも勉強はした。でも、塾の帰り道で友達とたむろし、12時近くまで家に帰らない。そんなやつだった。
幸運な日々は続かなかった。ぼくは高校受験の当日に不運にも片頭痛が発症し、受験中、机に突っ伏し、しまいには保健室に運ばれた。結局、ぼくは滑り止めの高校に行くことになった。

高校時代

不本意な滑り止めの高校に行くことになったぼくは、また、【段階3: 順応的段階】をやりなおすこととなった。まだ、このころは、仲間外れにされたトラウマが残っていて、友達づくりもかなり慎重にした。滑り止めの高校に行くということは、話の合う友達ができないのではないかと心配していたのだ。でも、それは無用の心配だった。友達はすぐにできた。彼女もできた。でも、ぼくはどこか不安定で、それは長く続かなかった。

ぼくは引き続き【段階3/4:自意識的段階】を模索していた。集団のなかの自分のユニークネスを模索していた。恥ずかしいことに、当時の彼女にどこか哲学的な、自分のことを書いた、手紙を出したりした。思うに、自分のアイデンティを模索もしていたと思うが、厳然と【段階2/3: 自己防衛的段階】への退行は存在していたように思う。だから、人生を通して、ぼくは異性との関係性の破綻は必ず相手から切り出された。きっと、ぼくは依存した相手に対して相当な身勝手をしているやつだった。その傾向は、おそらく10数年後、ぼくが相手の不倫によって離婚に追い込まれた、30過ぎまで駆動し続けた。それもそのはず、当時の彼女との破局によって、ぼくは破壊的に【段階2:衝動的段階】にまで退行し、その彼女を敵視し「行動化(acting out)」し、女友達から無視されるようにまでなった。「望むものを手に入れられなければ、どこかに間違ったものがあるに違いない。支配されたか阻止されたと感じたら、私はそれを憎」んだ。その様子を見た、男友達でさえも、ぼくの行動に不安を感じていただろう。

ぼくは男友達だけは失うまいと【段階3: 順応的段階】を取り戻しつつ、ぼくはその限られた仲間だけと付き合うことに決め、人間関係を引きこもった。そして、バラ色の高校生活の破局を、【段階3/4:自意識的段階】に基づいて、高校受験の不運な失敗のリベンジとして位置づけ、「知性化(intellectualize) し、合理化し、正当化」した。激烈な悪さをした【段階2/3: 自己防衛的段階】を省みず、ぼくの傲慢さは維持され続けることとなった。
とはいえ、高校受験失敗のリベンジという防衛は、力強く継続した。高校2年生以降、ぼくはほとんど遊びを忘れたかのように、勉強ばかりしていた。親に心配されたほどである。ためには、遊びに行きなさい、とよく言われたことを覚えている。それくらい強力に作用したのだ。有名大学にいくという、「社会的な「~すべきだ(should and ought)」を十分に内面化」していたのだろうと思う。それ以降、ぼくの【段階2:衝動的段階】【段階2/3: 自己防衛的段階】は鳴りをひそめ、限られた友人と関係性を築きつつ、ぼくは受験勉強に邁進していったのである。

高校3年生:恩師との出会いと【段階 4:良心的段階】の萌芽

高校3年生になって、予備校講師の恩師に出会う。無味乾燥とした学校の授業とは違って、学問の奥深さ、実存的学習を教えてくれた。彼は自分が家庭内暴力をしていたことにも触れ、まさに彼の実存と学問を結びつけていた。彼との出会いによって、世界が開かれたような気がした。自分自身のアイデンティティの探究のヒントが、学問というものにきっとあるような気がしたし、将来のひとつの方向性が見えたような気がしたものだ。学ぶことによって誰かの役にたつこと。願わくば、自分と同じような世界が開けるような体験を誰かに提供すること。それが、ぼくの生きる指針になった。そして、この原体験が今も生業にしている組織開発コンサルという職業にも明確につながっている。ぼくは【段階 4:良心的段階】へと足を踏み入れたのだ。まさに、「真面目な信念(earnest conviction)、真剣さ、理想主義(idealism)、情熱」が芽生えた瞬間だった。その後、この【段階 4:良心的段階】が30過ぎまで、大きなウェイトを占め続けていたと思う。また、この頃からぼくの【段階2:衝動的段階】はかなり減退し、我を忘れるほど怒り狂ったりすることはなくなった。もちろん、イライラしたり、ムカついたりすることはあったけれど。

大学生

晴れて希望する大学にも行くことができた。高校のほとんどを勉強に費やしてきたぼくは、羽目を外すつもりでいた。でも、入学数カ月で飽き足りてしまった。また、ぼくは中学生時代のトラウマを引きずっていて、相変わらず人間関係は深く、狭く、引っ込み思案がつづいた。また、大学教授の退屈さにはがっかりした。彼らからは実存を感じることができず、高校の予備校の恩師がぼくのなかで厳然と存在し続け、学ぶということのテンプレは、相変わらずその恩師にあった。そんなわけで、ぼくはありあまる自由時間を、ムリすることもなく、自分が学びたいことを学びたいように、穏やかに過ごした。この頃のぼくは、【段階3/4:自意識的段階】【段階 4:良心的段階】に大きなウェイトを占めていたと思う。同時に、孤独感にも悩んだ。自分はどこか異質で、自分の話をわかってくれる人がいないという感覚を抱え続けた。

就職は、老舗の組織開発コンサル会社に入社することにした。父が大前研一の書籍を読んでいて、コンサルという職業があることを知っていたし、コンサルという職業も自分が学んだことが誰かの役に立つという原体験に通ずるものだったから。そして、幸運だったのが、内定前に1泊2日でコンサル、ワークショップの体験できたことだった。ここでも衝撃を受けた。予備校の恩師とはまた違う、魅力的な組織開発やワークショップ、具体的には体験的学習というものに触れることができたからだ。ここでぼくの予備校の恩師に限定されていた実存的学習の原体験は拡張された。【段階 4:良心的段階】もさらに深みのあるものになった。「自分が正しいと信じている理論に心を奪われ」ていた。とはいえ、その視座や視野、言語化レベルはまだまだ稚拙で、【段階 4:良心的段階】の浅瀬にいることは間違いなかった。

社会人3年間(名古屋にて)

ぼくは名古屋の配属になった。はじめての土地で、はじめての一人暮らしを経験せねばならず、仕事に慣れること、新しい生活リズムに慣れることに必死だった。フルに【段階3: 順応的段階】を発揮していた。とはいえ、新人にも関わらず、持論は捨てなかった。ぼくのキャリアは営業職からスタートしたが、ゆくゆくコンサルになるのだから先輩の力は借りずに自分で勉強して仕事を決めたいという【段階3/4:自意識的段階】も根強かった。初仕事は、持論通り、ひとりで決めた。しかも、同期のなかでも早い時期に初仕事を決めた。でも、事はそううまくはいかなかった。先輩や上司にうまく力を借りた同期がぐんぐんと営業成績を伸ばすなか、ぼくの成績は低迷した。同期は50名ほどいたが、後ろから数えたほうが断然はやかった。それでも、約1年半は自分のやり方に固執した。周囲の「疑いや批判に対して防衛するための主要な方法」として、「知性化(intellectualization)、合理化(rationalization)、否定的な側面や影の側面の抑制(suppression)」をしていた。努力に見合う成績が出ないことに、ぼくは疲れ始めていた。営業なので、もちろん上司から数字を詰められることもあった。でも数字の達成にはあまり興味がなかった。それよりもよりよい支援を通じて、組織の変化を促すことのほうがよっぽど関心があった。

転機は2年目の下期だ。たまたま、取れた社長アポでアセスメントを用いた幹部研修の案件をもらった。コンサルタントの力を借りることで、大きな受注につながった。はじめて、組織に貢献できた、と思える大きな成果だった。そして、自己完結受注に固執していたわが身の限界をありありと自覚した。同じ頃、親しくしていた先輩社員が会社を辞めることになった。その先輩社員が辞めることで、ぼくは営業所長の右腕、2番手を努めなければならなかった。ぼくは【段階 4:良心的段階】にこだわっていられる状況にはなくなった。一時的に、【段階3/4:自意識的段階】を強め、自分を見失わない程度に、組織の役割に徹した。所長の右腕としての仕事に慣れ始めたころに、神戸への異動の辞令がおりた。

また、当時、ぼくにはお気に入りのワークショップがあった。ヒューマン・エレメントモデルを用いたセルフ・エスティームに関するものだ。内省重視型のワークショップである。ぼくが中学生のころから自分のアイデンティティに関心を持ち、ある種の他者とは異質な孤独感を感じていたが、人の内面に関する興味は尽きなかった。「どのような動機や理由によって行動が生じるのかに関心」があり、「自分自身について内省」することも好んだ。
社会人3~6年目(神戸にて)

神戸営業所は当時、業績が悪く、課せられたのは立て直しだった。新しい営業所長をぼくと同期ふたりで支え、後輩が2人という体制になった。新しい環境になって、【段階3: 順応的段階】を発揮しつつ、【段階3/4:自意識的段階】にウェイトを置いて過ごした。徐々に業績は回復を見せ、全社平均レベルに成績にまで達した。

転機は社会人5年目だった。当時の営業所長とはよい関係性を築いていたが、ぼくはぼくの考える営業所のマネジメントをしたくなってきたのだ。【段階3/4:自意識的段階】から【段階 4:良心的段階】へとまた足を踏み入れた。今度の【段階 4:良心的段階】は、学生時代や入社当初の青臭いものとは異なり、組織開発やマネジメントを学んできたことがベースとなり、より高い視座、幅の広い理想を掲げられるようになっていたと思う。下積みがぼくの【段階 4:良心的段階】を豊かにしていた。

結果的には5年目の冬から営業所長を任された。同期のなかで2番目のスピードでの所長就任だ。とはいえ、営業所長の職務は、その右上として働いていたときとはまったく異なる。月に1回の東京での営業部会議へ出席しなければならなかったし、近隣エリアの営業所長と連携して、エリア戦略を考える必要もあった。ぼくはまた【段階3: 順応的段階】に徹した。そして、あらためて営業所長のかじ取りの難しさを知った。ぼくなりの営業所マネジメントに関する理想は、ほとんど実現することができなかった。ぼくの【段階 4:良心的段階】はまたしても、再考を強いられた。当時、大阪の営業所が業績不振に陥っていた。新米所長として【段階3: 順応的段階】にウェイトを置いていたぼくは、大阪の営業所長へ何とか貢献したく、コンプラ的にグレーなことに手を染めた。まさに、「上司がそう言ったのなら、正しいに違いない」というスタンスだった。このコンプラ的グレーは全社的に蔓延っていたが、ぼくの場合、自分で責任を負える以上に度を越してしまい、経営にリークされ、ぼくは幹部会議で吊るしあげられた。良かれと思ってやったことで、ぼくは組織から糾弾され、全社の大きな問題として取り上げられた。全国の営業所を巻き込む一大事になった。【段階3: 順応的段階】の限界は、組織に盲目になってしまうことである、と今は思う。結果、ぼくはグレーなことを新米所長にさせる組織を憎んだ。そのグレーなことをしていたのは自分であり、その組織を構成するひとりの管理職であったのにも関わらず。【段階2:衝動的段階】【段階2/3: 自己防衛的段階】に退行し、ぼくはついに会社を辞めたのだった。でも、ぼくは同時に、【段階3/4:自意識的段階】から【段階 4:良心的段階】に見られる「知性化(intellectualization)、合理化(rationalization)も忘れてはいなかった。ワークショップやコンサルの限界に気づきつつあったぼくは、当時勃興してきたSNSに、組織開発の手段としての希望を見出して、SNSベンチャーの会社に入ったのだ。

一方で、異性との関係においては、必ず相手から別れを切りだされるという傾向は続いた。母性的愛情への依存という領域に関して、ぼくはきっと少なくとも【段階2/3: 自己防衛的段階】へ退行した。2025年からはじめた夢分析において、ぼくの夢には女性が登場することが多いことと、きっと関連するのだろうと思う。ぼくのすべてを肯定してくれた母親への依存、その依存の異性への投影。このあたりが鍵になるのかもしれないし、父と良好な関係を築けなかったこととも、もしかしたら関係するのかもしれない。

社会人7~8年目(SNSベンチャーにて)

まったく畑違いの会社に転職して、【段階3: 順応的段階】にウェイトを置いた。当時、SNSといっても、それを組織開発に使うサービスは未だなく、当時の主流はFacebookページやTwitterの公式アカウント運営といったマーケティング戦略だったからだ。マーケティングの「ま」の字も知らないぼくは、一からそれを学ぶ必要があった。でも、壁は高かった。冷静に考えれば当然のことである。すでに社内にはマーケティング畑で、6年も7年も仕事をしてきた人たちばかりなのだから。そして、1年経ってもSNSによる組織開発のサービスはつくれなかったし、結局、SNSもツールであって、SNSは悪質な組織内コミュニケーションの温床にもなることがわかり、1年半で組織開発を学び直すことに決めた。

社会人8年目(結婚というライフイベントも)

ぼくは組織開発を学び直すために、今の人材系の会社に転職した。その会社のオーナーはもともと、ぼくが新卒で入社した会社にいたこともあり、縁があった。そんなこともあって、ぼくは歓待を受けた。事業部でも稀に見る期待の書けられ方で、ぼくがもつノウハウを教えてやってほしいとも言われていた。でも、事はそうたやすくは進まなかった。ぼくは、【段階3: 順応的段階】をすっ飛ばして、【段階 4:良心的段階】から突き進んでしまったのだ。でも、当然のことながら、いくら組織から期待をかけられていたとはいえ、いきなり外様のぼくが自分の矜持に基づいて仕事をしたとしても敵をつくるだけだ。ぼくは入社早々に、出鼻をくじかれた。そして、あろうことか成績も鳴かず飛ばずだったのである。ターゲットとするクライアントが異なったこと、提供サービスの微細な違いによって、ぼくは想定外に苦戦した。ダイナミックスキル理論における、課題、環境依存性の影響をもろに受けたと言える。同時に、ぼくは営業のマネジメントを行いながら、7つものプロジェクトを同時に抱えていたのである。経営や組織に対しては【段階3: 順応的段階】が過ぎたのだ。こう考えると20代、仕事においては、【段階3: 順応的段階】から【段階 4:良心的段階】を行ったりきたりしながら、苦労を続けてきたように思える。他者の期待に応えようとしていた自分がいたし、そのなかで自分の独自性をどう担保するのかも忘れてはいなかったように思える。そういう意味で、厳密にはもっともウェイトが高かったのは【段階3/4:自意識的段階】なのかもしれない。そうこうして、ぼくは鬱っぽくなってしまったので、マネジメントの職務から降りて、営業のプレイヤーとしての道を選んだ。上司に依願したのである。その後、もちろん低調に推移したものの、徐々に成績をあげられるようになり、復調していった。

プライベートでは結婚もした。転職の理由のひとつでもあった。前職のベンチャーでは相当年収を落としていたため、経済的な安定を求めて上場企業に転職したのだった。結婚する前も後も、パートナーとのすれ違いは度々起こった。今思えば、ぼくの悪質な母性的退行とぼくと相手の発達段階の明確な差、ぼくの【段階3: 順応的段階】の発達の積み残し、ぼくの未熟さによる狭量さ、自分のメンタルモデルを客観視できなかったことなどあって、破局は当然のことだったように思える。

社会人9〜10年目(破滅的離婚経験と再生)

これまでにも感じていた孤独感は継続的に感じていて、営業部内には話の合う同僚がいなかった。それは、ぼくの固執的な【段階 4:良心的段階】に原因があったように思える。同僚からすれば、言っていることは最もだが、面倒くさいやつと映っていたことだろう。だから、ぼくはついにコンサルに職種転換した。

新しい環境への適応とはいつの日も困難に遭遇する。コンサルになってデスクワーク中心になったことにより、18時には脳がヘトヘトになり、いかにこれまで頭を使っていなかったかを痛感したし、人前にたってコンサルやワークショップをおこなうという職務も、ぼくは緊張しいということもあってかなりのストレスだった。一方で、やはりコンサル組織はかなり知的で、ぼくの【段階 4:良心的段階】において感じていた孤独感もかなり減退していった。当時は、独立のための準備も進めていて、この段階においては、今のぼくから見てもかなり洗練された【段階 4:良心的段階】に至っていたと思う。もちろん、未だ自分のメンタルモデルを疑うことはなかったし、限界を認めることなく、理想に向かって、ただ自分が信じることを、推し進める一心であった。

この時期のハイライトは、間違いなくパートナーの不倫による世界の崩壊だろう。自分は愛されて当然という悪質な母性への依存性は、完膚なきまでに粉砕された。組織開発は人と人とのプロセスという領域におけるプロだ。そのぼくが、結婚生活において破滅的な破局を迎えることになったのは、ぼくの仕事、私生活という双方の観点で、ダブルパンチだった。すぐに上司に報告をして、寝込んだことを覚えている。ぼくが自覚的に、はっきりと変容を遂げたと思える経験は、この時期がはじめてだ。それは外傷後成長ともいえると思うし、ぼくの世界観がガラリと変容していくライフ・レッスンだった。

なぜ、ぼくはこんなにも厳しいレッスンを与えられたのか。内省にのめり込んだ。仕事は最低限しかしなかった。同時に、なぜパートナーはあのような行為に及んだのか、心理学の本も読み漁った。そこで、ぼくの独善的な世界観は相対化された。【後・慣習的段階】に足を踏み込んだのである。まず、大きな気づきだったのは、ぼくがいかに恵まれた環境で生きてきたかに気づいたことである。特に、感謝するのは母親の育て方である。悪質な母性への依存性はたしかに病理を含んでいた。でも、自己肯定感の高さ、防衛行動の少なさ、自己効力感のベースは育まれていた。そのおかげで、ぼくはかなり省エネで人生を過ごしてきた。でも、だからこそ、それは他者への無理解にもつながっていたし、自分の孤独感も生み出していた。ぼくはそれまで、自分の眼鏡、感覚でしか他者を見れていないことに気づいた。心理学本の多読で、自分のメンタルモデルの相対化、他者の理解は格段に高まった。同時に、人生への感謝の念も大きく増大した。謙虚になるきっかけになった。それまでのぼくは、様々な障害に遭遇してきたが、根底では自信満々だったのだ。ある種の、全能感と呼べるものに包まれていてた。その幻想が打ち砕かれたのだし、全能である必要もないし、その全能感がぼくの苦難を作り出してきたことにも気づいた。トランスパーソナル心理学に出会って、ケン・ウィルバーの書籍を読むようになったのもこの頃だ。瞑想もはじめた。とにかく、この1~2年は、これまでの人生の総決算。自分の人生の客体化に多くの時間を割いた。そのお陰だろうか、この時期に自分の致命的な病理は取り除かれたようにも思う。ぼくの人生は穏やかになった。サザエさん症候群や月曜朝の出勤の憂鬱もなくなっていた。

一方で、この劇的な体験は強固な視点を生み出した。それは、心理的な健康や成人発達理論への中毒、固着である。新たな【段階 4:良心的段階】が誕生したのだ。この後のぼくの人生は、上記を基本的な価値観として進んでいくこととなる。

社会人11〜12年目(再婚と長男の誕生)

離婚後、ぼくには毎日のようにつるんでいた会社の後輩がいた。ぼくたちは毎晩のように食事に行く仲だった。彼もぼくのように問題を抱えていて、お互いに語り合い、癒しのプロセスを共にした。ぼくの再生には彼の存在によるところが大きい。結果的に、ぼくは2年もしないうちに新しいパートナーに出会った。そして、子どもができた。再婚する気はあったけれど、こんなに早くなるとは思ってもみなかった。慌ただしく新居を決め、結婚式の準備に取りかかった。ところが、ぼくの外傷は癒えてはいなかった。入籍した日の夜に強烈な眩暈に襲われたのだ。ベッドに横になるところだったので、ぼくは脳梗塞を疑って、急遽、大きな病院に向かった。幸い、200mほど歩いたところに市立病院があったのだった。結局、ぼくの脳に異常はなかった。入籍当日の変調。結婚というトラウマによるものであることは明らかだった。それから1ヶ月はおそらくは自律神経の失調で、抑うつ状態で過ごした。それから長男が生まれるまでの数ヶ月は、心臓神経痛と思われるような症状を抱えながら過ごした。でも、長男が生まれて以降、気づけば症状は癒えていた。

社会人13〜16年目

ぼくは離婚後に学んだ新たなべき論に従って、子育てに神経質になった。なぜなら、ぼくの予想するに、以前のパートナーは愛着障害的なところがあり、それが彼女の不幸を招いたのではないか、と仮説立てていたからだ。適切な愛着形成が重要だし、子どもが幸せになるかどうかは、親の責任が大きいとも思っていた。だから、神経質になったのだ。子どもの教育方針で喧嘩するのは夫婦あるあるだが、ぼくたちもそれにならって、はじめて喧嘩をしたりした。でも、ぼくは以前のように【段階2/3: 自己防衛的段階】にまで退行することはなかった。【段階4/5: 自律的段階】に足を踏み入れ出したこともあって、ある程度、ぼく自身のメンタルモデルを客体化できていたし、パートナーとの意見の相違も、その背景にも思考が及んでいたこともあって、多少の衝突はありつつも比較的うまく乗り換えることができたと思う。

また、親の子育ての責任を重く感じたぼくは、一度、自分のキャリアにおける欲求を捨て、会社の幹部を目指すことで、経済的な豊かさを獲得しようとしていた。だから、ぼくは組織の要請や期待役割に徹した。結果的には、それ相応の成績が出せて、ある程度稼げるようにもなった。この時期の多くの時間を【段階3/4:自意識的段階】で過ごしたように思う。そして、以前犯していた盲目な【段階3: 順応的段階】への退行もしなかった。自己と外部のバランスをとる柔軟性も身についていた。

そして、一生賃貸派だったぼくが、何とパートナーも両親も巻き込んで、二世帯住宅を建てることに決めた。高性能な住宅なら、息子が100歳まで住める。そう思ってのことだった。すべては愛すべき息子のためだった。確実に、そして強力に【段階 4:良心的段階】が駆動していた。

また、コロナ禍によってぼくは自分の生業である組織開発の限界を如実に感じることとなる。コロナ禍はほとんど数カ月、社会の働き方を変えてしまった。組織を変えてしまったのである。では、ぼくの生業である組織開発は何に貢献できたのか。組織開発に携わってから、もう20年に近い月日が経つが、ぼくはどんな変化を生み出すことができたのだろうか?と思う。そういう意味で、ぼくは誰もが目に見える変化を起こすことができなければ、貢献を実感できないという病にかかっていたように思える。

社会人17年目以降

家庭の基盤も整い、会社での成績もあがり上り調子になった頃から、ぼくの新しいべき論、心理的な健康や成人発達理論への中毒による限界が目につき始め、停滞を感じるようになった。成人発達理論は素晴らしい。でも、現場の人材開発という観点でいえば、時間がかかりすぎるのである。かつ、他者には他者の発達の物語があり、部外者のぼくがどのように支援できるのかよくわからなくなってきてもいた。

同時に、ぼくのべき論は社内ではなかなか日の目を見ることはなかった。組織内の政治が原因で、なかなかぼくのしたいことが実現できなかったのだ。そういう意味で、ぼくは体制順応的なところもあって、自分を抑圧している側面があったように思える。ぼくは何か変化のきっかけがほしくて、大量の書籍を読むといった習慣も身につけた。年に100冊近く本を読む習慣ができた。とはいえ、大きな変化は実現しなかった。

結果、昨年9月に10年ぶりの片頭痛の再発をとおして、心の叫びを抱えていることに気づいた。ぼくは読書といったような、外から情報を持ち込むような実践ではなく、内との対話が必要である時期だと思った。それがきっかけで、加藤洋平さんのゼミに入会することとなったのである。そこではぼくと似た問題意識をもった素晴らしい仲間がいるし、個人的努力ではどうにもならなかった新しい情報も手に入ることとなり、今のぼくに大きな刺激を与えている。

今のぼくが考えていることは以下のようなことだ。ひとつは、発達中毒から離れるということである。中毒であるだけに、わかりやすい発達体験を求めてしまっていた。そうではなく、もっと長い視点で発達を捉えること。同時に毎日、微細ではあるが発達していることに気づくことである。ふたつめは、垂直方向の発達とか、水平方向の発達とか、そういうものへの囚われを離れて、今現在の自分の意識を傾けることである。今に生きるとでもいえばいいだろうか。垂直も水平も包んで含む。今の在り方、在りように意識を傾けること。そういう意味で、ぼくは瞑想を再開した。そして最後に、発達レベルが高いほうがよいという思い込みを捨てることだ。各発達レベルにおいて固有の幸せがあるのであり、発達レベルが高いからといって幸せであるということではない。幸せのあり方がそれぞれの段階で違うだけなのだ。その前提で、部下にも関わっていくこと。

ぼくの世界の見え方は、ぼくがいる場所から見える景色であって、それは世界の一面にしか過ぎない。場所が変われば世界の見え方は変わるのだし、ぼくはさらに他者の目線に立って、あらゆる角度から世界を見る視点を獲得していきたい。そして、世界をあるがままに見る。そして世界になる。今、ぼくはそんなことを考えている。

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勝又康仁 人事と組織開発 HR&OD
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