日記 2021/01/02

大晦日に文房具屋で粘土を買ってあげた。娘にとっては初めての粘土である。

娘と一緒に粘土で遊ぶ。粘土を触るなんていつ以来だろう。小学校のときには間違いなく触った。が、それ以降触った記憶がない。中・高で粘土を触る授業などあっただろうか。大学ではなかった。おそらく20年以上触っていないということだが、娘と一緒に粘土遊びをして懐かしさがこみ上げてくることもなく、ただ夢中になって粘土に触ってこねくり回した。

以来、娘は粘土で遊ぶことにハマった。僕と妻が一緒に触って遊んだのは初日だけだった。粘土はどんどん固まっていった。7色あった色が混ざり合い、ところどころ奇妙で、美しい色になっている。コールドプレイのライブで見たような色景色だが、このような色をなんて言うのだろう。ウミウシのような色だ。

粘土で遊んでもらうのは一向に構わないが、問題はどこで遊ぶかということである。粘着力がなくなり、半分以上が固まった粘土はパサつき、崩れやすくなっている。遊び始めると、周囲広範囲に渡ってにその残骸が残る。残骸のその広がり方は気持ちがいい物ではない。遊んでいるときには何も感じていないようだが、昨夜風呂から上がってきた娘は、その残骸を一度踏んで不快な顔をして、その後は踏まないように、足を思いっきり広げ、そのまま尻餅をついていた。

今日は赤ん坊のときに使っていた布のマットを出してそこで遊ばせたが、遊びながら移動するから、細々と固まった粘土は四方八方に落ちている。どうしたものか。手を使った遊びはどんどんしてもらいたいし、また一緒になって遊びたい気持ちがあるのだが、このままだと面倒くさい遊び道具になってしまう。なんとか知恵を絞って、粘土の遊び方を考えていかないと。

西加奈子の『ふくわらい』読了。西加奈子の物語は、フックが強くて、一度読み始めるとすぐに読み終えてしまう。
とても身体性の強い小説だった。目隠しをすることと、目隠しをする際に使用するタオルの感触であったり、盲目の男性との恋仲であったり、プロレスの試合の描写であったり、視覚よりも触覚を感じさせる部分が多かった。コロナ禍でさらに優位になった視覚と、それでもなお、いやこの状況だからこそ、触覚の必要性がさらに増していて、僕自身それを欲しているのだと感じさせられた。
触覚における信頼。伊藤亜沙の著作で読んだことを思い出した。

夢の話が出てきた。ノーカントリーのハビエルバルデムのような髪型をした人が大勢野球場にいて、デニムの上下を着た状態でぴょんぴょん跳ねている。めちゃくちゃ面白い。

そういえば、今年の初夢のことを覚えていない。起きたときにそんなにいい気分ではなかったから、そんなにいい夢ではなかったのだろう。大勢のハビエルバルデムがぴょんぴょん跳ねているのを想像するとめちゃくちゃ面白いが、それはめでたいのだろうか。間違いなく気味は悪い。でも笑える夢というのは悪くはないんだろうな。残念ながら初夢が記憶に残ることはなかったが、早く笑える夢を見たい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?