日記 2021/01/22 これからはMA-1を家で着ようと思うのです。

数日前から、西加奈子の『通天閣』を読んでいる(なぜか毎年1月には西加奈子を読みたくなる)。メインキャラクターの1人が、寒さのあまり部屋の中でもMA-1を着ているというくだりがあって、先日衣装ケースの整理をしていたときに出てきた我がMA-1の存在が突如として上がってきた。

このMA-1は、中学の夏休みに地元の先輩に騙されて1万円で買ったものだった。本当かはわからないが、その先輩もさらに別の先輩に3万で買ったものだと聞いていた。3万円で買ったくらいだからかなりいいMA-1だ、本当はまだ着たいとばってんが、おまえに1万円で譲ってやるばい、と半ば押しつけられるようにして買ったのだった。
MA-1がどんな服かさえ知らず、1万円を手渡したあとに紙袋に入れられたMA-1を見たときには、なんだこのくそダサい服はと、一瞬どころか数秒間思って固まったが、中学生当時に1万円というのはかなり大きい額で、そのダサい印象をなかったことにして「ありがとうございます!大事に着ます!」と言って、先輩の顔をほとんど見ることなくくるっと回れ右をして家に向かった。

帰る途中、親に何か頼まれていたのかジャスコに寄ったのだが、2階の服売り場に先輩から買ったMA-1とそっくりの服が大量に並んでいた。ジャスコの2階にある程度のくそダセー服やん、やっぱり騙されたっちゃないか、と思い、買った服とそっくりの服に付いてあるデザインやタグを見比べたりしたのだが、同じようで違う、いや違うようで同じだと頭がぐるぐる回って混乱し、結局1万円の重みでダサい印象はやっぱりなかったことにしたのだった。

帰宅後、実際着てみるといい感じなのでないかと淡い期待を抱きながら鏡の前で着てみると、うーん、やっぱり、なるほど、しかしながら、くそダサかった。おまけにタバコ臭かった。追い打ちをかけるように、当時小学生だった弟が僕のMA-1姿を見て、「なん、そのダサか服!」と笑ってきたので泣きたくなった。泣いた。1万円。

このMA-1は着こなし方がさっぱりわからず、というか未だにわかっていないのだが、着こなし方がわからない限りは外に着ていくとはできないわけで、しばらくは当時住んでいた寮のタンスに雑にしまってあった。

高校に上がった頃、このMA-1は突然活躍を始めた。外で着ることを諦め、冬の寒い寮内で着ることにしたのだ。寮内で着る分には、このMA-1は結構かっちょよかった。ジャージと組み合わせたり、昼間はジーンズと組み合わせたりしていたのだが、丈の短さがいい感じで「お、これ結構よかやん、暖かいし」と思いながら、冬はほぼ毎日着ていた。おまけに当時はポーターのタンカーシリーズが流行っていたから、外側がカーキで内側がオレンジのそのデザインはイカしたデザインの代表格のようなもので、後輩からはかっちょいい服を着ていますねとよく言われ、気分が良かった。そこで1万円分の活躍はしたようなものだ、とまでは言えないが、ダサいだけで終わらなかっただけでも、「どんなもんじゃい!」とジャスコの2階に向かって叫びたい気持ちだった。だが、それでも外で着る勇気はなく、寮内でだけ活躍する服としてその役割を終えた。

このMA-1が、衣装ケースでの整理で出てきたのである。通天閣を読みながら思った。このMA-1、また屋内、つまりは我が家で着ればいいんじゃね?

コロナ禍以降、外に出て行く機会が減って、ほとんどの時間を家で過ごすようになり、パジャマの着心地に慣れてしまった。外出するときにもパジャマのような服を着るようになった。そもそも僕はコロナ禍よりずっと前から、外でもひもパンで過ごしていて、チャックを上げたりボタンを閉めたりすることすらなかったから、もともと緩かった服がさらに緩くなっただけのことではあるのだけれど。ただ、家と外の服のデザインはさらにボーダーレスになった(外出する際には、もちろん着替えはするが、見た目はほとんど変わらない)。

ということは、だ。今まで外で着ていた服たちも、家の中でその活躍の場があっていいのである。MA-1に関しては寮内で活躍した服であったわけで、むしろ家の中での経験値しかない。その服を家で着るのは当たり前のことだ。家用の服、外用の服という概念を解体し、これからまたMA-1をどんどんガシガシと着ていこうと思うわけである。

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