日記 2024/03/18〜2024/03/24 日記ワークショップに参加してみた

2024/03/18

今日は会社の飲み会。月曜から飲み会で、明日ももちろん仕事がある。

最近はちょっとしか飲んでいなくても二日酔いになるから、飲む前から二日酔いにならないか不安になる。本当は昼まで会社で仕事だったが、昼から業務終了までは在宅に切り替え、また改めて飲み会の会場に行く予定だった。家でサーキットをして汗をかいて着替え、ウコンを飲んで体調万全の状態で飲み会に行けばいいと思っていたのだけれど、ありがたいことに、珍しくランチに誘われたから昼休みの間に家に帰ることができなかった。というわけで今日はサーキットはできない。朝30分歩きはしたから、運動が0というわけではない。こういう日があるのも仕方がないし、ここ数日間取れていない筋肉痛を休める日だと捉えればいい。

飲み会が始まるまでの1時間の間に、久しぶりにスマホでこの日記を書いている。飲んだ後では、とてもではないが、書く気にはならない。

ともかく、昼に帰ることができなくなったわけで、仕事が終わってそのまま、何の準備もなく飲み会に行かないといけなくなってしまった。絶対にちゃんぽんはせずに、ビールだけを飲むことを心に決めているが、それで二日酔いにはならないだろうか。先週、少しだけワインを飲んだら、夜ほとんど眠れなかった。

何だか、酒に対して神経質になっている気がする。もともと酒は大好きだったし、そんなに弱くはなかった。今日は久しぶりの飲み会だし、きっと楽しくなるはず。ゆっくりとしたペースでビールだけ飲めば、きっと大丈夫だ。楽しい飲み会の場合は、結構飲んでも二日酔いにならないことが多い。楽しくないと少量でも二日酔いになる。だから楽しむのだ。



23時頃帰宅。

飲み会は楽しかった。

みんな焼酎を飲んでいて、僕も飲みたくなって、最初の1杯をビールにした以外は焼酎を飲んでいた。ビールだけにすると心に決めていたはずなのに。足もとがふらつくことなく問題なく帰ってこられたし、視界が回っているようなこともないが、若干飲み過ぎた感がある。二日酔いはないとは信じたいがどうだろう。悪あがきでヘパリーゼの錠剤を飲んだ。

2024/03/19

夜中、何度か目覚めた。そのたびに二日酔いになっていないか確かめたが、特に二日酔いの兆候は見られなかった。いつもの時間に起床。朝食にパンを食べたが、念のためコーヒーをのむのはやめておいた。酒を飲みすぎたときにコーヒーを飲むと、二日酔いや頭痛を誘発することがある。二日酔いはないが、やはり若干飲み過ぎた感覚は残っていた。

朝は天気が良かったので、Podcastを聴きながら会社へ歩いて向かう。歩いていて気持ち悪さや頭痛はない。うん、良い感じ、ではないけど問題はない。

今日は忙しい1日だった。チームのみんながタスクで一杯だった。

午前中はオフィスで、午後は在宅で仕事をする予定だったが、オフィスにいる間はほとんど席を立つ余裕がなかった。体調を気にする余裕はなかったが、若干頭痛が出ているような気がしていた。というのも、Podcastを聴きながら仕事をしていたのだが、内容がほとんど頭に入ってこないのは忙しいから仕方のないことだけれど、途中から雑音としか思えなくなった。話す声が頭に響いてくるのが不快で邪魔だった。何も耳に入れたくない。なんだかおかしいなと思っていたら、その声がキツツキのように頭を叩いてくるからだということに気がついた。

昼休みに自宅へ移動。電車を待っている間に確実に頭痛があることを確信。気づくことなく仕事をしていたくらいだから、我慢できないほどではない。が、痛いのは痛い。

一度痛いと思うと、その痛みは僕を支配する。13時から15時くらいまでは頭痛と闘いながら何とか仕事をこなす感じになった。自宅へ移動したことでリラックスしたこともあるかもしれない。仕事のペースを落とすわけにはいかず、痛みを感じながら仕事を進め、15時半頃に頭痛が抜けた。それから16時過ぎに今日初めてのコーヒーを飲み、そこで体調が完全に回復した。

やはり飲み過ぎると、二日酔いにならずとも翌日に影響する。

しかし明日は明日で自宅で飲む予定。知り合いにシャンパンをもらったのだが、1人では飲めないので、2人の友人を呼んで一緒に飲む予定なのだ。この予定は昨日の飲み会が入る前から入っていた。こんなにも短い間隔で酒を飲むことになるとは思っていなかった。本来は先月に行う予定だったのだが、僕の体調不良が原因で明日に延期になった。さらに延期にするわけにはいかない。しかし明日の飲み会も楽しみだ。気を使う必要がない友人だから、昨日よりもさらにリラックスして飲めるはず。ただ明後日はワークショップがあるので、どうしても二日酔いになるわけにはいかない。また一昨日のおさらいになるが、飲み過ぎるなよ。ペースを落として飲むのだ。二日酔いになったらアホだぞ。

2024/03/20

先日家族でカラオケに行った時の、娘の楽しくて仕方がないといった表情が脳裏に焼き付いていて、よく思い出す。

昨夜は、どんたく祭りを控えた娘のダンス教室のtiktok撮影だった。YouTuberやtiktokに憧れている娘にとって動画に映るのはテンションが上がることだったようで、21時近くまでの撮影だったが、最後まで張り切って踊っていたようだ。動画を送ってもらったが、いつも以上に気合いが入っているように見えた。どんたくには2年前から出ていて、毎回同じ曲で踊っているのだが、昨日の動画を観て、2年前に比べると驚くほど踊りの動きが大きく、キレがよくなっていた。

今、娘にとってのダンスはどちらかというと、週1のレッスンとして行うもので、家で自ら踊ることはほとんどない。少し前まではNewJeansやGirls2の曲に合わせてよく踊っていたが、最近、家で過ごすときにはもっぱら作品作りをしているので、比重がそっちに偏っているだけのことで、また自然と踊るようになるのかもしれない。

ピアノもたまに自由に弾いているが、与えられた課題を練習することに重点があるように見える。

その点、歌うことは、習うこと、その束縛がない自由なものだったのではないか。歌うことは、教わるものなったダンスやピアノとは別の、何もないまっさらなもので、ただ歌いたいという欲求に従うことで、現実が生き生きとしたものになったのではなかったのではないか。歌うことで心の底からの感動が生まれたのではないか。あの表情は根源からの喜びだったように見えた。

さて、今日の宅飲みに向けての準備は整った(「宅飲み」というとオンライン飲みのようなイメージが浮かぶようになったけれど、文字通り宅飲みだ)。ヘパリーゼSUPERというのを買った。高いからよく効くのか、そのあたりはよくわからないけれど、二日酔いにならないためにできることはしておかなければならない。

2024/03/21

昨日は楽しい宅飲みだった。

友人がおつまみとビールを買ってきてくれたので、まずはビールで乾杯。その後、知り合いからもらっていたシャンパンを開けた。自分でシャンパンを開けることはたぶん初めてのことで、ネットで開け方を検索した上でおそるおそる栓を抜いたが、電灯を割るなどの事故が発生することもなく、無事開けることができた。シャンパンは美味しかった。それから赤ワインを開け、飲み会は終了。4時間程度だったが、あっという間に終わった。

気持ちのいい飲み会で、飲み終えたあとはいい気分だったが、先日と同様に多少飲み過ぎた感はあった。ビールにシャンパンにワインにとちゃんぽんもした。飲み会後に近所の餃子屋に行ったが、そこではアルコールは飲まず、ウーロン茶で餃子を食べた。結果的にはそこで追いアルコールをしなかったのが良かったのだと思う。

帰宅したらちょうど娘が寝る時間で、娘に絵本を読んであげていたら少し寒さを感じたので、絵本を読み終わって布団をかぶってスマホをいじろうと思ったらいつの間にか寝ていた。

1時頃に目が覚め、シャワーを浴びた。もちろんまだ酒は残っていて頭はふわふわした状態だったが、シャワーはいつも以上にもまして気持ちが良かった。風呂から上がってYouTubeを観ながらヨーグルトを飲んだ。このヨーグルトもまた、いつも以上に美味しく感じた。で、歯磨きをして就寝しようとしたそのとき、急に気持ち悪さがおそってきてトイレに入ってリバース。その後は気持ち悪さはなくなって寝た。

ヘパリーゼSUPERを飲んでいたことの効果はわからないが、餃子屋で追いアルコールをしなかったこともよかったのだろうし、寝る前に少しでもリバースしておいたのがよかったのだろう。今朝起きたときに気持ち悪さは一切なく、二日酔いの兆候もなかった。今日はイベントに参加するので二日酔いだけは絶対なってはならなかった。

しかししばらくは酒はいいや。日記に酒のことばかり書いても楽しくもないし。

というわけで今からイベント参加。終わりは21時半頃の予定。

2024/03/22

昨日は古賀及子さんの日記ワークショップだった。

事前に課題を提出する必要があったので、ある日の日記を別の日の日記と繋げさらに膨らませた。言ってしまえば少しズルをして提出したのだが、ワークショップに参加して日記は別にそれでもいいというか、日記は決まりも枠組みもない自由度の高いものだと改めて思った。古賀さんも日記を繋げたりすることはあるらしい。日記はその当日に書くことではあるが、当日というのも曖昧なところがあって、当日に起こった出来事は過去に派生したもので未来に繋がるものの中間地点だということはままあるし、過去に起こった出来事を考えるのが当日であればそれは当日のことだし、当日に起こった出来事によって過去の記憶が呼び起こされればその過去の記憶だって当日のものとして上書きされる。

日記を書きやすくするための、そして面白くするための留意点はいくつかあるが、それを守らなければいけないというものでもない。日記を書き始めて5年半ほど経つが、このタイミングでワークショップに参加してよかった。ワークショップに参加した方々の日記も読んだがいずれも面白く、それぞれがそれぞれの方法で書いていた。縦書きの人もいれば、手書きの人もいたし、音声で入力したものを書き起こした人だっていて、それらの日記を読むと書いた人の何気ない日常の豊かが浮かび上がって、いいなぁと思った。

古賀さんにある質問をした。
日記を書くのが当たり前になって、日常にある出来事がふと日記のネタとして意識されることがある。その意識が浮かんだ瞬間に、その出来事は出来事として味わえなくなってしまう。これは日記に書くこととして使えるなとか、使えるとすればこれをどう描写しようとか考えてしまい、出来事が目の前のものではなくなる。古賀さんはレシートの裏にメモを書くと言っていたが、そのように出来事がネタと化してしまうことはないか、あるとすればどう向き合っているのかというのが質問内容だった。古賀さんは、その点はある程度割り切るのだと仰っていた。メモを取るときには、ヨッシャという気持ちで躊躇なくメモを書き、日記に書き記す。

日記に書き記すことは写真や動画に残すことと似ていて、日記に書いたことは、将来読み直すことで記憶として蘇らせることになる。

写真や動画を撮ることも、ファインダー越しに出来事を見ることで、その現実を味わうことよりも、記録することに重点が置かれることになる。だから、僕は写真を撮ることに、これまではそう積極的ではなかった。だが、先日、カラオケに行った時に娘がソファーで跳びはねて喜びを爆発させている10秒間を偶然動画に残すことができた。今も毎日その動画を観ている。

その場を味わうことも大事だが、写真、動画を残すことも出来事を味わわないということにはならない。「今、ここで」ではないが、事後的に反復して味わうことができる。それも悪いことではない。

動画に残していたということはその間娘を直接見ていない時間もあったのだろうが、スマホの画面と娘を交互に見ていたから全く見ていなかったわけではなく、その姿はそのときあったものとして僕の記憶に深く残っている。そこにある出来事そっちのけでずっと写真や動画ばかりを撮り続けることは僕にとってはあり得ないことだけれど、10秒から1分程度であれば割り切ることがあってもいいのかもしれない。

これからも日々の出来事が書くことのネタとして意識に上がることはあるだろう。その思考を僕は止めることはできない。そのときどきで判断し、それは書くべきことだと思うことであれば、割り切ることもありなんだろう、古賀さんの答えを聞いてそう思えた。

いいワークショップだった。

2024/03/23

火曜日をもって、娘の年中としての1年が終わった。年少小もあわせて4年間通う予定の幼稚園も残り1年を残すのみだ。

幼稚園の友だちの多くは他の小学校に進学する。また中学校で一緒になることはなくもないのだろうが、幼稚園で会うことがなくなる友だちも少なくない。それはどうしようもないことだし、小学校に入ればまた新しい友だちや関係ができるのだろうが、幼稚園の友だちは皆仲良しだったのでバラバラになるのは寂しいことだ。娘と両想いの男の子も隣の小学校に通うことになるが、2人の関係性はどうなるのだろう。遠距離恋愛か?

来年からクラス替えとなることが発表された。娘の仲の良い同学年の女の子、1学年下の女の子は前年ながら別クラスで、娘は泣きそうになったと言っていた。

もともと同学年は女の子が少なく、皆お互いに仲良くしているようだが、娘は割と強気で男の子の意地悪に対してもしっかりと言い返す性格であるからか、慕ってくれる女の子もいるようだ。皆仲良くやってていいねぇなんて言うと、娘は「うーん、○○ちゃんはときどき愛が重たいんだよねぇ」などと言っている。愛が重たい…そんなこと生まれて一度も思ったこともなければ、そんな台詞発したこともない。いつそんな言葉を覚えて、思うようになったんだろう。

春休みに入って、毎日のように幼稚園の友だちと公園で遊んでいる。今日も昼過ぎから2時間ほど外で遊んでいた。卒園した友だちとも遊ぶこともある。

卒園したばかりの一番仲良かった友だちは、姉妹揃って一緒のバレエ教室に通うことになった。昨日は初めてのレッスンだったが、その友だちは片足を捻挫しているらしく、お姉ちゃんだけレッスンに参加して、その子は見学をすることになった。が、バレエレッスンに参加したい気持ちが募っていたのか、バレエ用の服にしっかりと着替えた状態で見学していたらしい。早くレッスンに参加できるようになるといいのだけれど。

午前中、Amazonで購入したうざぎのぬいぐるみが届いた。娘は大喜びで、ぬいぐるみと一緒におさるのジョージを観ていた。1時間後くらいにリビングを覗いてみると、折り紙を使って大きな作品を作っていた。うさぎ用の家を作ったのだという。娘の折り紙の使い方や作り上げる作品は、僕の想像に及ばないものばかりになってきている。良い感じの大きさの家を、折り紙だけでこんなにも早く作るなんて、とその発想に驚かされてばかりだ。


2024/03/24

どんたくに向けての練習のため、昨日に引き続き娘は今日もダンス教室。
これから1ヶ月半の間は土日とも練習のスケジュールが続き、娘も大忙しだ。しかし今年でどんたくも3回目の出場。どんたくでは毎年同じ曲で踊り、ステージもパレードも同じ場所で開催されるので、3回目ともなると慣れてはくるのだが、3歳が初舞台でそこから3年目と考えると、娘の踊りの上達に驚かされるし、踊りを観て改めて娘の体が大きくなったことに驚かされる。

娘は最近よく大きくなったことを指摘される。抱っこをすると確かに重たくなった感はあるが、重たいのは3歳からずっとで、長時間抱っこするのがしんどいのは変わらない。毎日一緒にいて大きくなったことを実感することはなかなかないのだが、ダンスをしている動画を観ると大きくなったなぁと思う。踊りも上手になっていて感心するが、それ以上に体の大きさが目を引く。うむ、大きくなった。

仲の良い友だちが小学校受験のために塾に通っていて、娘も通いたいと言い始めた。小学校受験をする予定はないので、遊ぶ時間を削ってまで塾に通う必要はないと思っているのだが、本人が通いたいと言っているのに突っぱねるのもと思って、塾がどういうものか教えたところ、それ以降塾の話はしなくなった。せっかくやる気になっていたのに、削がせてしまったのだろうか。

しかし実際のところ既にダンスとピアノを習って忙しくなっている中で、さらに塾もとなると遊ぶ時間がなくなってしまう。先日だって、たまたま習い事が毎日続いたあとに、「遊ぶ時間がまったくない!」と言って怒ったことがあった。本人はもっと遊びたいはずなのだ。塾も遊びになる部分もあればいいのだろうが、年長になってから塾に行くということは小学校受験をしないとしてもそのモードに入っているだろうし、少なくとも授業中は遊びはあまりないだろう。

塾に行きたいとは言わなくなったのだが、ノートをたくさん買ってと言うようになった。そのノートを使って、問題を作るのだと言う。今日は朝から問題づくりをしていた。結果、朝のうちにノート1冊を使い切ってしまった。問いを立てることは、問いに対して答えるよりもずっと難しいことは僕も経験していることで、だから最初に自ら問いを作ろうと思ったことに驚かされた。たしかに問いがなければ答えることはできず、勉強することを遊びと捉えるならば、まずは問いを作らないと遊びが始まらないということになる。そのノートをこれから自分1人で遊ぶのか、僕らを巻き込むのか、それとも友だちに答えてもらうのかはわからないけれど、遊びの土台を作ったのだから、あとはどうとでも遊べる。

習い事をさせてはいるけれど、習い事をさせることに常々逡巡はしていて、それは習い事をすることで型にはまって娘本来の遊びが損なわれるのではないかという思いがあるからだ。一方では、やはり基礎を学ぶことは重要で、ダンスやピアノを早い時期から習ったことで、ダンスやピアノだけでなく、それに付随する体の使い方だったり音感だったりと身につくことはあったように思われる。基礎を学んだあとに何かしら遊びが出てくるのではないかとも思うし、基礎を学んだ後でなければ出てこない遊びの発想もあるだろう。しかし、それはまっさらな状態での遊びとは違うはずで、親として子どもに何かを経験させることは子どもに変化を生じさせること、それはある種不可逆なものであることへの責任を感じずにはいられない。それに対するためらいを失わないようにしておきたいと思う。

一番長く習っているダンスはほとんど遊びの要素はない。が、それは今は基礎を固め、1ヶ月半先に迫ってきたどんたくに向けての練習を重ねているからで、それが過ぎ去ればまた自らの踊りに変化が現れるかもしれない。去年がそうだった。そのときにどういった踊りをするのか今から楽しみだ。

とりあえずノートを1冊使ってしまったので、また新しいノートを買わなければいけない。

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