風さんの手はどこにあるの?
二年半前に娘が生まれた。
娘が最初に発した言葉は「パパ」だった。それから少しずつ言葉数が増えていき、その数ヶ月後には、「パパ、アンパンマン」などと2語以上の複数単語を並べて発することができるようになった。
動詞や形容詞を使って、ある程度意味のある文章を話すようになったのは2歳を過ぎてからのことだ。「パパ、アンパンマン、会いたい!」とか「パパ、見てて!」とか「パパ、お花、きれいね」とか、少ない単語数でありながらも、それまでに覚えた単語を使って意味の通じる文章を話すようになった。
娘が最初に言葉を発したときのことははっきりと覚えている。1語から2語に増えたときのことも印象深い。だが、そこに動詞や形容詞が加わって文章化したのは、つまりは英語で言うところのSVOやSVCとして形作られたのがいつだったのかは、はっきりと覚えていない。
まだ赤ん坊の頃の娘は、観察していると、対象を知覚し、認識し、それに対して反応を示すまでがとてもゆっくりであるように感じられた。対象を追う目の動きもゆっくりだったし、首すら自分で動かすことができなかった。自分で首を動かせるようになるまで娘の見える世界は、視界に入るベッドメリーと天井、そして上から覗く僕と妻の顔だけだったように思う。その後、首が据わり、寝返りができるようなり、ハイハイができるようになり、歩くことができるようになった。少しずつ少しずつ娘の世界は広がり、ただ見えるものを見るだけだった状態が、見たいものを見られるようになった。その頃、最初の言葉「パパ」を発した。
行動範囲が広がると、自分とそれ以外の区別がはっきりとするようになる。自我が芽生えた。人間以外のものに触れる時間も次第に増えていった。
公園に行って草や花を見て時に手で触る。空を見上げるとまぶしいと感じ、鳥や蝶々が飛んでいるのが見える。蝶々を追いかけたいと思う。
花を見て、なんだかキラキラして美しいと感じる。花を見ている僕や妻は「きれいだね」と言っている。きれい。
「パパ、お花、きれいね」「パパ、蝶々と、よーいどんするから見てて」
娘が生まれてから、両親から僕自身の子どもの頃の話を聞く機会が増えた。僕の最初の言葉は、ありきたりの「ママ」だったそうだ。
娘が生まれるまで、僕は自分が初めて発した言葉が何だったか知らなかったし、興味がなかった。自分自身の言葉の始まりを覚えている人はたぶんいない。人生最初の記憶では、既に言葉を話していたという人がほとんどだろう。
両親からは、僕の子どもの頃のことだけでなく、母と父の子どもの頃のことも聞いた。それらの多くは彼ら自身には記憶がないことで、周囲にいた人たちから伝え聞いたものである。
母が最初に発した言葉と、その経緯はとても奇妙なものであった。
母はとても無口だった。
言葉を覚えているようではあるがほとんど話すことがなく、外をただ見てぼーっとしていることが多かったという。そんな母のことを祖父母は心配していたそうだ。
2歳を迎えてしばらく経ったある日のこと、母は突然言葉を話すようになった。
「風さんの手はどこにあるの?」という言葉がそれだった。その言葉を発してから、母は溢れ出る言葉を抑えることができないようにとてもおしゃべりになったそうだ。
もちろん母自身にはそのときの記憶はない。だが、唐突に発せられたその言葉があまりにも奇妙で不思議なものであったため、祖父はずっと覚えていて、その後大人になった母に伝えた。
母と酒を飲むときには、よくこの母の最初の言葉についての話題になる。とても興味深く、いい肴になって盛り上がるのだ。記憶にないことだから、母も他人事のように話している。
「風さんの手はどこにあるの?」と言葉を発するまでほとんど話さなかったのは、人間よりも人間以外のものと対話していたかったからかもしれない。外の風景をじっと観察していたのだろう。
まだ言葉を持たない母はあるとき思った。木々の葉や草花が揺れている。その揺れ方には強弱があって、強いときには音もする。揺れているのではなくて、何かが揺らしている。庭いじりが趣味の祖父は、庭全体をその何かが強く揺らしているのを見て「今日は風がひどかねぇ」と眉間に皺を寄せてぶつくさと言っている。どうやら揺らしているのは「風」と呼ばれるものらしい。でも、風は見えない。実体がない。どうやって揺らしているのだろう?それに音はどこから発せられているのだろう?頬に風が当たるのを感じる。祖父の髪も風で揺れている。揺らしているのは何なのか?風はどこにいるのだろう?風は木々のうーんと高いところにある枝と葉も揺らしている。長い長い手がないとあの高さのものを揺らすことはできない。風の音は移動するから、どこからかやってきてはすぐにどこかに行ってしまうように思えるが、実はあるところに仁王立ちでどんと立っていて、長い手を自由自在に使って草花や頬や髪の毛を触っているのかもしれない。
どこに立ってどこから手を伸ばしてるのだろう。風さんの手はどこにあるのだろう。
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