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ある夏日のコンサート 招かれた客

 音楽家の晶子さんから誘いがあった。チャリティーコンサートでコントラバスを演奏するから聴きに来ないか、というものであった。

 打診を受けた時点では、その「チャリティー」の意味を深読みしておらず、即座に快諾した。人様からの誘いは先約が無い限りは断わらないようにしている。

 コントラバスと言われてすぐにはピンと来なかったが、何やら大きそうな楽器だと考えるくらいの常識はあった。

 黒いキャスケット帽を深く被ったショートカットの彼女は、コンサート会場である教会の入り口近くの階段下に立っていた。彼女の腕には何の楽器も見られなかった。

 「今日は演奏でけへんねんて。上でやるはずやったけどな、そこ上がっていく階段めっちゃ狭いからコントラバス入れへんかってんて、今日やらんでええみたい。しやけどコンサートは見ていこな。お昼ゴチやて、食べてこ」

 彼女は淡々と、楽器を持参していない理由を説明した。彼女の関西弁はかろうじて理解出来る、かもしれない。


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 彼女の弾くコントラバスの演奏を是非聴いてみたかった。

 以前彼女の在籍していたバンドのギグには何回か行ってみたが、ベースギターの音が、ボーカルの叫び声(歌声)に押されて判別不可能になっていた。そのため、彼女の演奏をまともに聴いたことはないのだ。


 プロテスタントの国に長年住んでいると、(キリスト教徒ではないに拘わらず)何かと教会にお世話になることがある。教会主催の保育園、冠婚葬祭、洗礼式、堅信式、青少年教会活動、クリスマスのミサ、観光、さらに場合に依ってはお金を恵んで頂けることもあるらしい。

 「お金が無い人は教会で申請すれば、クリスマスを凌げるほどの補助金は戴けるって知ってる?」

 ド貧であった時代に、同じくド貧であったスウェーデン人女性に有難い情報を戴いた。しかし、私の意味するド貧は、贅沢は出来ないという程度で、クリスマス料理を揃える予算もない、という程度ではなかった。

 しかし、その女性の場合は当時、文字通り、当面を凌ぐ家計にも困窮していた。彼女は王立オペラ劇場におけるメークアップアーティストであったが契約が切れてから数か月間、次の職に恵まれなかった。スウェーデンにおいてもフリーランサーの待遇は比較的不安定である。


 さて、コンサートが始まった。

 むろん演奏される曲は賛美歌である。あるいはキリスト教絡みの歌謡曲である。

 晶子さんはコンサートを愉しんで居るように感じられた。しかし、私はステージよりも教会の入り口のほうに注意が行きがちであった。次々と現れる客の大半はイケアの大きい袋を担いでいた。その袋にて布団一式らしきもの運んでいる人もいる。

 私は彼女に、これは何のためのチャリティコンサートであるのかと小声で尋ねた。


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 「ホームレスの人達の為のチャリティーコンサート」、と彼女は返答した。

 ホームレスの人達、そう言われて改めてまわりを見まわしてみると、確かに大半の人は大きな袋を横長の座席の横に置いてあった。

 斜め前に座っている男性には見覚えがあった。彼には国営酒店の前で小銭を無心されたことがあった。そこでお金を恵むと言うことは、彼のアルコール消費をさらに推進するということである。お金ではなく、ハンバーガーを買って渡そうとしたことがあるが、あまり喜ばれなかった。

 私の関心はすでにコンサートどころではなくなっており、完全に神経過敏モードに入ってしまっていた。隣の晶子さんは相変わらずステージに全神経を集中させていた。そして私の神経は相変わらず教会の入り口に集中していた。


 「次のナンバーはガブリエラの歌です」

 数年前、北欧にて空前のヒットとなった教会絡みの映画の主題歌であった。

 教会の入り口近くには若い女性が立って居た。教会でイベントが催される時には、数人の青少年ボランティアが会場整理をしたりしている。化粧っけのない痩身の金髪の少女、スウェーデン人にしては蒼白過ぎるほどの顔色、大きく澄んだ緑翠色の瞳、上品な白いワンピース。

 天使とはこのような姿かたちをしているのであろうか、と陶然と思案していたその時、入り口近くに人影が現れた。年齢不詳、長身痩身の男であった。彼は他の客のように大きい袋を抱えていなかった。

 彼が腕に抱えていたものは細長い袋であった。そしてその井出達は狩人そのものであった。狩人に猟銃? 

 彼は、蒼白の少女の斜め後ろに立った。


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 スウェーデンにおいてホームレスになるスウェーデン人は、大抵の場合、複雑な家庭の事情、病気、薬物、アルコール中毒等が原因となっている。それ故、大抵の人の顔にはその長く複雑な歴史が深く刻まれてはいる。しかし、その男の顔面には、怒り、失望、卑屈、嘲笑、憎しみ、と非常に描写し難い歴史が、さらに深く刻まれていた。

 一番怖い人間は失うものを持たない人間である、と誰かが言っていた。

 その男が、猟銃の形状の長い袋を抱えて天使のような少女の斜めに立っている。その招かれた客を一度も振り返らない少女には、その様相が見えない。彼女だけではなく、招待客は私以外は誰も後ろは振り返っていない。

 狩人の姿が映っているのは私の視界の中だけであった。私は目を合わせないように努めた。

 若い女性の美しい声で奏でられる「ガブリエラの歌」に聴き入っている晶子さんの横顔を盗み見た。

 私は、先日彼女から突如頂いた携帯メッセージを思い出した。

 「何ちゅう幸運が降って来た!」、の出だしとそれに続く沢山のお祝い絵文字。彼女は、世界的に有名なミュージシャンのバンドにベースギタリストとしてスカウトされたらしい。


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  天使のような少女の背後に立つ、猟銃の形状をした袋を持つ男。永年の下積み期間を得て、ようやく陽の目を浴びるチャンスを獲得した音楽家の晶子さん。私たちの左右前後を挟んで座っているホームレスの人達。

 もし、男の猟銃の銃口がこの教会の中で火を噴いたらどうなるのであろうか?

 私は、会社においては、何故か、非常時の避難誘導員という役割を頂戴している。以前の勤務先でもセキュリティ・タリバンという意味不明な仇名を戴いたことがある。すなわち「起こり得る危険」に対しては触覚が敏感に反応してしまうのである。被害妄想症とは全く別物である、おそらく。


 ステージでは「ガブリエラの歌」の演奏がちょうど終了したところであった。会場は一瞬静寂に包まれた、が次の瞬間、大喝采に支配されていた。喝采の間からはすすり泣きも漏れて来ていた。

 私は再び会場の後ろを振り返った。

 狩人風の男の姿は見えなかった。天使の姿も視界に入らなかった。しかし、座席から腰を浮かせて目を凝らしてみたら二人の姿が目に入った。


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 男は壁に背を持たせながら座って居た。うなだれていた。そして、おそらく嗚咽していた。そして天使のほうは跪いて男の肩を抱いていた。彼女の表情は見えなかった。

 

 「生きている歓びを心から感じたい」というフレーズで有名なこの歌は、日本でも多少話題になったらしい映画「歓びを歌にのせて」の主題歌である。この映画を見たあとに二時間、涙が止まらなかった人も居るそうである。敗北者、DV被害者、虐げられた人達が、最後には自分の足でしっかりと立ち、教会にてこのフレーズを歌う。

 狩人のような井出達の場違いな男性、どのような目的で教会のチャリティーコンサートに姿を現したのかは不明である。

 しかし、人生に絶望している人間の冷たく硬直した心を一刹那でも溶かすことが出来るのであれば、映画の力、歌の力というものは何と偉大なものであるのか。

 私は、神社に初詣に参り、お寺で法事を行い、12月24日にはクリスマスプレゼントを買っているごく普遍的な日本人であるが、苦境に追い込まれた時には「神頼み」をしたくなることもある。街頭で寝泊まりするようになった人達の中にも、信仰の有無に限らず、どこかに頼りたい、話を聞いてもらいたい、と思う人々は多いであろう。

 神社、教会、あるいは信仰とは関連のない救済機関、救いの手は求めればどこかにあるのではないかと、多少前向きに考えられるようになった真夏の午後であった。


最後までお付き合い頂き有難うございました。

オランダ語訳と英訳入りのガブリエラの歌の動画を最後に紹介させて頂きたいと思います。

サムネイルの写真は旧市街のドイツ教会、文中の写真は街中の教会、ドイツ教会近辺の街角でした。

さらに、最近弊記事をご自分のNoteにて紹介して下さった方々(今日はGirls)を紹介させて頂きたいと思います。

miyumaのーこさん、

とても包容力のある自己紹介文に感動致しました。どんなことでも受け入れて下さる雰囲気がありますが、間違っている時は間違っているとハッキリと言える勇気もある方です。他のNoterさんを熱心に応援していらっしゃる姿が非常に健気です。


Miyukism様

スペインバルセロナの辺りに住んでいらっしゃる方で、手先がとても器用で、靴を始めとした工芸品を多く制作されていらっしゃいます。つかみどころがなく、コメントさえもとても芸術的なのですが、とても謙虚で思いやりのある方です。


猫様とごはん様

この方も最初はとても不思議な方だと感じましたが、知り合えば知り合うほど味のある方だと感じます。とても学のある方なので時々非常に長い学術的記事も投稿されますが、この方の書かれる小説「本当に怖くない猫の話」は、とても人気があります。

それにしてもNoteには何故これほど猫好きの方が集まっていらっしゃるのでしょうね?