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真鶴町の坂道

 決して気分の浮き立つような訪問ではなかったが、昨年の秋に、急遽日本へ一時帰国をすることになった。冠婚葬祭のためではない。休暇ではなかったということもあり、やたら多忙だったので、知人との連絡事項等はほとんど移動中に行っていた。

 そんな中でも、せっかく訪れた日本訪問の機会、せめてどこか近場へでも観光に行きたいものだ、と考えていた。そういえば、知人が、日本に帰国をするなら真鶴あたりで余生を過ごしたい、と語っていた。理由は失念したが、私も真鶴が好きだ、その名前が。

 真鶴、小田原から熱海に行く時にいつも素通りしてしまう駅である。


 
 
 作詞:永六輔、作曲:中村八大の「知らない街を歩いてみたーい」、という永遠に共感される歌があるが、真鶴はそんな雰囲気を感じられる町である。文字通り町なのだ。

 「町」の定義は、人口が五千人以上五万人以下であること。真鶴の現代の人口は七千人を多少下回る程度である。市になるためにはかなりの人口流入が必要となる。しかし、人口増加どころか真鶴町は過疎地域に指定されたらしい。

 地方の町、あるいは村が過疎地域になり得ることは理解出来るが、都心に近い神奈川県においても過疎地が生まれてしまった。

 イーロン・マスク氏が、日本は出産率が低下する一方なのでいつかは消滅する、というようなことを宣言されていたような記憶がある。

 高齢化が進み、町から人が離れていくからであろうか。シャッターが閉まっている店も多い。

 ちなみに、シャッターが閉まっているのは、私の実家近くの商店街も同様である。子供の時から馴染みのあったスーパーマーケットの門に掲げられた。「永年の愛顧、誠に…」の看板の前に佇んでいたら、過ぎ去りし日々の商店街の活気が懐古された。


 
 思わず見惚れた侘び寂び感半端ない理容室、建物の外に設置されているモダンな空調を見ると営業しているようにも考えられたが、どちらとも言えない。実家の近所の美容室も軒並み閉まっているが、中を覗くと椅子などがバラバラに散らばっているため、閉業はかなり確信出来る。



 入り江に下る中途に出現したこの建物は、コミュニティ真鶴と紹介されている。私には要塞のように見えるが、何をするところであろうか。多少は高台にあるため、入り江に津波が押し寄せて来た場合は避難所にも指定されているかもしれない。そのような事態にならないことを祈るが。


 真鶴が「町」であることに反応したのはこの消火器の文字を目にしてからである。坂の多い町だ。

 駅前の観光案内所では、食事処を探しているのであれば、入り江へ下って行けばよい、と紹介された。

 観光案内所を探すときは多少戸惑った。駐車場の料金精算所のような小さい箱に女性がポツンと一人座っている、それが案内所であった。しかし、案内所があるということはやはり観光地なのであろう。



 入り江にて一番印象に残った建物がここ、「旅館 網元料理 入船 磯料理」、荒くれた海の男たちが取れたての新鮮な魚を納品したあと、この旅館でごろりと疲れを癒す。そんなことを想像してしまった。料理が素晴らしいとの紹介があった。いつか是非、この旅館の中に入ってみたいものである。昭和に迷い込んだような錯覚を起こすかもしれない。

 真鶴には、小学生低学年の時に一泊したことがある、どこの宿泊施設かは失念したが。今考えてみたら奇妙なことであったが、親は同伴していなかった。習い事の先生とその夫、私達生徒何人かで大部屋に泊まったのだ。

 旅というものは面白い、追憶の引出しの奥からしまい込んだ記憶まで引っ張り出して来てしまう。


 
 
 この町には、昭和風情を髣髴させる景観が多すぎる。「社員寮」、この建物の中で、サラリーマン小説家の源氏鶏太先生の小説のようなドラマが展開されていたかもしれない、などと想像してしまうと、またもや種々の空想に浸ってしまう。

  結局は昼食は、海沿いの長屋の食事処にて頂くことにした。唯一空きがあったからである。他の食事処は満席であった。しかし私が店を出た時にはここにも十人程度の行列が出来ていた。やはりここは観光地であったのだ。

 そこは、炉端焼き 「傳 DEN」という店で、「ひまつぶし」ならず「ひつまぶし」というものをいただいた。

「このお豆腐は湯河原のお豆腐コンクールで賞を獲得したものなので、お醤油をつけないで召し上がって下さいね」

 人生経験の豊富そうな若い女性がそう促した。

 ずっと日本に住んでいたい、と切に感じた瞬間。



 そのあと徒歩で、観光地「真鶴ケープ」へ向かった。




突然現れた文明、次回があったらここに入ろう


風光明媚サイクリング、頑張って



 
 歩き始めてしばらく経ってから気が付いたことだが、私はいつの間にか深い山道を歩いていた。12月の半ばというのに、汗ばんで来た。

 ふと、ある不安感に駆られた。

 ここで熊が出現したら、逃げる術がない。まさか山道を歩くことになることは予定していなかったため、熊よけラジオも持って来ていなかった。人はおろか車もあまり通っていない。

 この日が人生最後の日だったとしたら、最後の食事は果してひつまぶしで正解だったのか。

 
 
 山の奥に注意をやりながら、ひたすら足早に山中の坂道を登り続けた。

 真鶴ケープに到着した時は、ようやく生きた心地が戻った。この施設には風光明媚なレストラン、数々の貝殻、焦げたみかん等を中心としたお土産屋等が設備されている。





 真鶴の名前の由来は、真鶴半島の形状が、鶴が羽を広げた姿に似ている、ということであるらしい。

 一週間後にはスウェーデンへの帰国を控えて、日暮れ前の太平洋をゆったりと拝んでみる。今回の日本滞在、時間に余裕があったら日本在住のNoter友達にもお会いしたかった。

 この日が、太平洋の見納めであった。

 羽田空港に向かう途中、私の乗る空港バスはみなとみらいと京浜工業地帯を横目に太平洋の上を通ってゆくが、その行程は太平洋は既に帰途の一部なので、ゆっくりと眺める醍醐味はない。

 真鶴駅に戻るためには、再び山道を通って下山しなければならない。日暮れ時に熊と対峙する気力も無かったため、バスを利用することにした。

 真鶴ケープからは男性三人と女性一人のグループと同じバスに乗り合わせたが、彼らはことあるごとに大笑いをしていた。何がそれほど可笑しいのかと、耳を立ててみたが、私にはその笑点は掴めなかった。

 これも海辺の町が与える開放感なのかもしれない。


あっと言う間に一月も終わりですね。
最近、こちらは雪は降りませんが、霧がかかり、雨の降る日が多いように感じられます。連日晴天の日本の空が偲ばれます。

皆様、どうぞご自愛下さいませ。

ちなみに真鶴音頭の踊り方は下の動画で習得できるようです、笑。


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