25歳 携帯販売からインド就職まで。社会人6年目終了にて#キャリアの棚卸し
こんにちは。ひろみです。
わたしの個人的な執筆へ「いいね」をくださる方、本当にありがとうございます。
「いいね」をいただきながら、嬉しさと同時に毎度驚いています。笑
さて、今回は、過去を振り返ります。笑笑
今年で社会人6年目が終了。日本での就職、転職、インド就職、結婚、子育てを経て、ちょっとひと段落した感があり、かつ、次なるステージへ向かっているような変化の渦中な気がするので、このタイミングで自分について、キャリアを中心に棚卸しをしてみたくなりました。
高校卒業後ファッションの専門学校へ入学。
同年にドロップアウト。
高校を卒業した当時(2014年)は、ものづくりの道を志しており、
ファッションの専門学校へ入学しました。
と思いきや、同じ年に中退(苦笑)
途中でやめた理由は、そこが
自分の求めていた"クリエイティブの場"じゃない
と感じたからです。
"自分のつくりたいものが、つくれそうにない環境だな〜"
という感じです。
当時のわたしがつくりたかったもの、熱中していたもの、
それは、チームラボ的なものだったり(そもそも服でない笑笑)、服だとデザイナーの山縣良和さんという方のブランドwrittenafterwards的なもの(この方の当時つくっていた服も服を越えた服です笑笑)でした。
要は芸術に近い行為をしたかったんですよね。
あれ、学校選びミスった説が濃厚ですかね笑笑
(余談:チームラボが鬼好きなはなし。
代表の猪子さんが大好きで(今でも一番好きかもしれない)
今はアホ人気で、知らない人はいないレベルですが(言葉遣い笑笑)
2014年当時はまだ知らない人も多かったと思います。
日本で初の展示会に、高校卒業時の3月に1人で佐賀までいきました。
猪子さんには会えませんでしたが、情熱大陸とかにちらっと映られていたスタッフの方と直接お話もさせていただきました。
そして、展示会スタンプラリーを制覇すると抽選でチームラボの大きな絵(虎の若冲のドット絵)がもらえるのですが、これに見事当選して、今でも大事にもっています。
これは本当に思い出ですね。)
さて、()内が、今もなお、興奮するレベルの思い出で脱線しましたが笑笑、さておき。
中退後、かといって、なんとか道を切り開き、現在クリエイティブまわりにいるかといえば、全然そんなことないので(苦い)
結果、今でも、辞めるよりは続けておけばよかったんかなー
と思うことは、普通にあります。
今やってることも楽しいけど、やっぱ未だにクリエイティブまわりのこともやりたいと思っているが故にです。
中退してからは、実家にも居づらくなり、貯金もなかったので、すぐに社会人として(=フルタイムで)働くようになったのですが、そこから今年の冬で6年です。まぁ、そのくらいか。
当時19歳だった、わたしも25歳。
他人の25歳に対しては、
「まだまだ若いな〜、挑戦しほうだいだ〜、焦らんでも〜」
と思うわたしですが、自分の25歳に対しては、
「もう25か、、やばいな、、はよ、何者かにならんと、何か一つに決めないと、焦れ焦れ」
という感じで、いつも"成功の締め切り(期限)"のようなものに、追われている感じです。
19のときも、20のときも、そうでした。
周りの大人からは、
「なんで、そんなに生き急いでんの?」
と言われることも多かったです。
急ぐがあまり、目先の選択肢の範囲内でしか、行動してこれなかった。
ふと、ひと段落を迎え、素になれた今、そう思います。
この6年間、本当にいろんな経験をしました。
まぁ6年もあれば、誰しも、いろんな人とであい、いろんな仕事をして、いろんな選択をして、、と、本当に多くのことを経験をしますよね。
ただとにかく、
自分にあう服を片っ端から試し、似合わなければ、即脱ぎ捨てる
脱いだ服はそのまま
そんな、6年間でした。
いろんな人に、本当に失礼なことをたくさんしてきたな、と自覚があります(汗)。今だからこそ、お詫びをしたい人がぱっと思い浮かべるだけでも何人かいます(汗)。
そんな私ですが、今少し立ち止まることができ、新たなどこかへ向かう為の準備期間というような心持ちです。
走り続けてきた私を立ち止まらせたこと、それは、
★23歳でのインド就職
★からの昨年、24歳での結婚、出産
です。
この2年を経て、今、圧倒的な変化の渦中にいるんだ、と感じています。
まぁお察しのとおり、これだけのイベントがあれば、そりゃ変化は訪れそうですようね笑笑
子どもが1歳になり、だいぶ母親である自分に慣れてきた感もあり、ほんの少しですがひと段落という感じです。
大したことないものばかりで恐縮ですが、いい機会なので記しておこうと思います。
★棚卸し|仕事編
1.携帯販売笑(19歳)
専門学校1年目に中退してすぐ就いた仕事。とりあえず稼ぎたかった私はそこそこ時給が良かった仕事を選んだ。
イベント特別販売員として、週末になると日本全国各地の大型ショッピングモールを訪れ、携帯を販売する、というのが私のファーストキャリアです笑
→接客が鬼苦手でしんどかったので、1年で退職
2.カスタマーサポートの運用部門(20〜22歳)
ここでパソコンが使えるにようになった。
大手ライフスタイル系サービスをいくつも展開する企業からの仕事で、カスタマーサポート周り全般を経験。
問い合わせフローの作成や、FAQや対応マニュアルの作成、コールセンターからの問い合わせを事業担当者へつなぎ回答をおろす(いわゆる2次対応?)、お問い合わせ分析、サービス改善案の提案、
お問い合わせシステムを別システム移管する際には上司に駆り出され、エンジニア的業務のサポートをしました笑(これはかなり無茶振りだった笑)
こんな感じで実際にカスタマー対応することは少なかったですが、この職場でかなり多くのことを学び、できるようになったと思います。
一番大きかったのが、パソコンを使えるようになったことです笑笑
今となっては、さらさらタイピングをして、リモートのみで仕事を進める私ですが、この仕事につくまでは、パソコンがそんなに好きじゃなかったです。持っていたパソコンのせいかもしれませんが、しょっ中アップデートはじまるし、更新に時間かかるし、壊れそうで触りたくない、みたいな感じでした。
それはともかく、やりがいもあり、人にも恵まれましたが、この職場を離れたいちばんの理由は、
先頭に立てないだいだろうな
と、思ったからです。
やりたいことがあっても実現しにくい立ち位置にいたと思います。覇権を握れるほどの地位に登りつめるためにも、長い年月がかかるだろうし、長い年月をかけてまで登りつめたいとまで思わなかったので、
タイミングをみて、退職の決意をしました。
3.コワーキングスペースの運営(22〜23歳)
はじめての正社員。やりたいフィールド×好待遇だったが。
大企業をやめた私(といっても契約社員でしたが)は、都内のものづくりに特化したコワーキングスペースで働き始めました。10人以下の小さな会社でした。私以外バイト契約でしたが、正社員にしてもらえました。(早速のぼれた笑)服飾の専門学校を辞めた時から、心の中ではいつか「ものづくりのフィールドにもどりたい」そう思っていたため、選んだ就職先といえます。
しかし、わたしは
やりたいフィールド × 正社員
という絶好の機会を手に入れたにもかかわらず
半年ほどで退職を決意し、インド就職をするのでした。
なぜ?
コワーキングスペースで働くようになって
社会人になってから、はじめて、自分が自分でいれる時間が増えていました。
それまでは、大企業で淡々と仕事を進める日々。クリエイティブへの許容も狭く、ドキドキすることもない。
そこから一転し、与えられた自由でクリエイティブな環境。
退職は、我慢がなかったといえば、そうだとも思います。
正社員として雇ってくれた社長さんには、本当に申し訳ないのですが、
自由な時間が増えた中、転職してからもなお、自分はここでいいのか、と
よく考えるようになっていました。
そこで、自分はどういうふうに生きてみたいかなー
と思いを巡らせる中、であったのが
インドでの学校運営、留学事業でした。
それは、わたしのクリエイティブ職への憧れとは別に、昔からもっていた漠然とした夢、
"海外で働きたい"
そして、
"教育に携わりたい"
この2つをかなえる就職先でした。
わたしは早く渡航しなければ、と焦っていました。
いくらなんでも転職して半年は早すぎると分かっていました。
でも、なぜ?
たびたび、コワーキングスペースの社長さんには申し訳ないのですが、
本当に自己中な理由がそこにはありました。
当時アメリカとの遠距離で付き合っていた彼がいました。
彼とはその時点で4年。
彼は、あと1年後に本帰国する。
彼が帰ってきたら、日本で一緒に暮らし、きっと家庭をもつだろう、
そんな予定でした。
でもわたしは日本で落ち着く前に世界をみてみたい
そう強く思いました。
だから、今行くしかない。
今行って、
・彼が帰ってくるまで、さっさと行って帰ってくるか、
・彼も一緒にきてもらうか
・数年間、今度はわたしの帰国を待ってもらうか
そんな選択肢を思い浮かべながら、、
決断を下しました。
コワーキングスペースの社長さんには、
あほ怒られました。
そりゃそうですよね笑笑
そんなこんなで、ほぼ強行突破でインドへ。笑笑
これが、変化のはじまりでした。
写真は、タイでの乗り継ぎ中にとった1枚。インドまであとわずか。
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