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そうじと日本人

「そうじ」というと、あなたはどんなことを想像しますか?そもそも「そうじ」とは何なのでしょうか?辞書で調べてみました。

新村出編 広辞苑 第五版 P1545
そう・じ サウジ〔掃除〕
①ごみやほこりをはいたりふいたりして取りのぞき、清潔にすること。比喩的に害悪を一掃すること。「部屋をきれいにーする」「ー機」
②便所の糞尿を汲み取ること

一見、日常と大きな関わりが無い様に思えますが、過去や歴史を振り返ってみると、そうじはかなり重要視されていたようです。そうじに関連する著名な方の記録例をご紹介してみたいと思います。

松下 幸之助さん(1894-1989)パナソニック(旧松下電器産業)グループ創業者、PHP研究所創設者     
➡ 常識・礼儀作法
「大正12年の暮れ。工場では従業員一同が大掃除を行っていた。満足げに見回っていた幸之助は、従業員の便所だけが、なぜか汚れたままなのに気づいた。幸之助はしばし見守っていたが、だれも掃除しようとせず、上司も言いつけない。どうやら、職場でいさかいでもあった様子で、その余波で便所掃除にだれもが手をつけ難い状況になっているらしいのを、幸之助はその場の不穏な雰囲気から察した。「事情がどうあれ、このままでは汚い。このままで新しい年が迎えられるか」----。幸之助はほうきを手に取り、バケツで水を流しながら踏み板をゴシゴシこすり始めた。所主自らの行動にみかねて水くみを買って出た一人を除いて、多くの者は、ただ、見ているだけであった。                                 「便所はみんなが使う、自分たちのものである。それを掃除するのに、何の理屈があるものか!」幸之助は激しく憤りを感じ、そして考えた。「これではいかん。たとえ仕事ができても、常識的なことや礼儀作法がわからないままでは、社員にとって松下ではたらく意義は薄い。人間としての精神の持ち方を教えるのも工場主たる私の責任だ。言いにくいことも言わねばならない」と。                               便所掃除が終わったら、何と言われようが、みんなに強く注意をしよう。そう思いながら、幸之助は便所の踏み板を何度も何度もほうきでこすった。
【引用】:パナソニックホールディングス株式会社 松下幸之助物語 2-2.便所掃除

本田 宗一郎さん(1906-1991)本田技研工業株式会社 創業者
➡ 徳義心
「働らく者の徳義心」 創業5年目の1953年(昭和28年)、社内報『ホンダ社報』の創刊号の中で、本田宗一郎は掃除や整理整頓が会社にもたらす効用を次のように説いています。  
 「若し、眞にお客様に対するサービスの精神、即ち、従業員としての徳義心を持つているならば、どのように苦心をしてでも工夫をし、改善してお客様の満足を得るはずです。お客様の満足を得ないのは、満足して頂こうという心がないからです。仕事の根本は、やはりその人の徳義心にあります。私は、以前から、「工夫発明は、苦しまぎれの智慧で或る。」と、申しておりますが、高い徳義心は、必ず優れた創意工夫を生むものであります。    従業員諸君に、私が「工場を綺麗にするように」と、云うのは、外面を繕うためではありません。工場を汚くし、不整理、不整頓のままにしておいて顧みないような心からは、決して、優れた製品は生まれないからです。工場は、全従業員の生活するところです。ここを整えようという心の無い人に、優れた製品が作れるはずはありません。心はそのまま製品に通ずるからであります。                
 埼玉工場を建設する時、私が先ず、水洗便所を作り、又、工場の機械や建物に色彩を施した事(カラー・ダイナミツクス)も、整えられた環境が、優れた製品を作る高い徳義心を養うことを知つているからです。       
 創意工夫は、技術だけではありません。その職場職場で、仕事に対する高い徳義心のあるところには、必ず優れた創意工夫が生まれ、よい改良があり、進歩があります。」
【引用】:EGOBインターネット同好会 【トイレ掃除と日本企業の100年】
昭和28年 本田宗一郎が徳義心を説いたのはなぜか?  より
 
※整理整頓は今回省かせていただいています。

千利休(1522-1591)茶人、商人
➡ 日本の美                             利休が若い頃、庭のそうじをしてうるわしくはき浄めた後、紅葉の木の葉を散らしておいた、というのは有名な話です。
白洲正子 『たしなみについて』二十七 より 河出文庫

幸田 文さん(1904-1990)作家 ※お父様は作家の幸田露伴さん
➡ しつけ
 バケツには水が八分目汲んであったが、「どうしてどうして、こんなにたくさんの水が自由になるのか」と、六分目にへらされた。小さい薄べりを持ってきて廊下に敷き、その上にバケツを置く。
 「いいか、はじまるぞ。水はきついぞ。」にこにこしているから心配はいらない、こっちもにこにこしている。稽古に慣れたからもある。雑巾をしぼるのである。私は固くしぼれる、まえにおばあさんにも父にも叱られたことがあるから、ちゃんとできるようになっている。褒められることを予期している心は、ふわふわと引締らない。雑巾を水に入れて、一ト揉み二タ揉み、忽(たちま)ち、「そーらそらそら」と誘いをかけられる。何だかちっともわからないけれど、それなり黙ってしまったから進行する。こんな時におどおどしたり、どうしたんですかなんて間抜けな質問をしようものなら、取って押えられるにきまっているから、すましている。しぼり上げて身を起こす途端に、ぴんとした声が、「見えた」と放たれる。
幸田 文 『父・こんなこと』こんなこと 「水」より 新潮文庫

禅のことば 
➡ 「一掃除、二信心」
 
しかし、禅ではその掃除を何にもまして重要なものだとしています。それをあらわすのが「一掃除、二信心」という言葉。信心より前にやることがある。それが掃除だ、というのですから、禅の修行は、まず、掃除を持って始まるといってもいいですね。
 事実、禅寺はじつによく掃除が行き届いています。廊下に塵ひとつないのはもちろん、姿が映るくらいに磨き上げられています。しかし、くる日もくる日も、雲水たちはそのピカピカの廊下を磨き続けるのです。何も知らない人が見たら、「汚れてもいないのに、なんで?」と思うかもしれませんね。
 そうして廊下を磨くこと、掃除をすることの意味を、禅ではこう考えます。「掃除=心の塵を払うこと」。
【引用】幻冬舎plus 禅が教えてくれる美しい時間を作る「所作」の智慧 信心の前にまず掃除。禅修行で掃除が何よりも大切にされる理由 枡野俊明 より

生きた時代や考え方、習慣、置かれた環境など異なる点はありますが、そうじは教育や人間形成の一環として捉えられていたことがわかります。近年、一般的生活の中に於いて そうじの方法や考え方は大きく変化しました。これから先も進化の一途を辿ってはいますが、人を家に呼ぶときに自然と家をキレイにしてから招き入れることひとつを例にとってみても、そうじの根底にある考え方は現代にも通じる共通点があるのではないかと思います。

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