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人生の再著述―マイケル、ナラティヴ・セラピーを語る 読書会メモ(第11回)

2023年4月13日からスタートした「Narrative Kia Ora(ナラティヴ・キアラ)主催の「人生の再著述―マイケル、ナラティヴ・セラピーを語る(マイケルホワイト(著),小森康永(翻訳),土岐篤史(翻訳)」の全22回の読書会の第11回のメモをここに書いておきます。

読んだ本の内容が雲のように流れて、読んだ端から忘れていくので、ちょっとでも記憶に残すために書くという行為は大切だと思っていましたが、思いながら10回目まで終わってしまいました。


はじめにのようなもの

この読書会は、「前回の内容の振り返り(3~4名)」➡「当日の該当ページを輪読」➡「当日の内容のディスカッション(3~4名)」とう形で進められます。

「人生の再著述」はわたしにとっては、なかなか手ごわい本です。
この本だけではありませんが、ナラテイヴ・セラピーの本はどれも理解するのが難しいです。

一つには社会対する観方が、これまでと違った新しい観方「社会構成主義」が基盤になっているからだと思います。

Google検索での「社会構成主義とは、社会に存在するありとあらゆるものは人間が対話を通して頭の中で作り上げたものであるという主義・考え方のことを指します。 人間が議論して「存在する」と考えるから物事は存在するという考え方」との説明は、なんとなくOKという感じがしますが、この内容で社会構成主義がある程度説明されているかどうかはわかりません。

社会構成主義関連の書籍としては以下のようなものがあります。

また、読んでも著者が言っていることがよく理解できないーつまり、自分の経験と書かれている文章の内容が結びつかないことが理解を妨げていると思います。

そう言う意味では、読書会で参加メンバーが、自分自身の経験とつないで、その文章の内容を話してくれることでぐっと理解が深まります。

昨日は「虐待の名づけとその影響を断ち切ること」の章の149pから164pまででした。昨日の内容の中で、語り合ったところ等を中心に書き留めておこうと思います。

◆今回の内容のポイント

・「虐待を経験した女性は、虐待される関係を積極的に求めるものだという考え方」は、病理的に説明していて現状維持のために働いている。

・このような状態に女性がおちいるのは、「識別困難」に由来しているからである。

・虐待を経験した人が識別能力を身につけるためのストーリーの再解釈するためのナラティヴ・セラピー

◆虐待を経験した女性は、虐待される関係を積極的に求めるものだという考え方について

児童期や思春期に虐待の経験をし、成人した後に、男性がさらなる虐待にその人をさらすような関係に踏み込んでいった女性というのは、しばしば、その手の関係から逃げ出しても、結局、別の男性から虐待にさらされるような関係に戻るというものです。

「人生の再著述」150p

マイケルは上記について、ある観察に基づく一つの解釈であり、このような説明の大半は、そのような関係に入っていく女性の「動機」「病理的」に説明しており、現状維持のために働いていると語っています。

このような病理的な解釈ではなく、他の解釈として、このような状態に女性がおちいるのは「識別困難」に由来しているという考え方を支持する証拠が沢山あると語っています。
「識別困難」は、何だかわからない状態が続いていると混乱するという理解でいいのではないかと思います。

★「識別」とは何か

識別とは、養育と虐待、ケアとネグレクト、そして愛情と搾取の間にある区別のことです。(中略)もしもある女性がある関係の始まりにおいて、養育から虐待を識別できなけば、虐待の徴候に気づいて直面化するのは不可能なのです。

「人生の再著述」151p

識別について、参加メンバーが、「秋葉原事件の犯人が、テレビを見ることを禁止されていた」ことについて、「それは虐待である」と発言されていたと話してくれました。

テレビを全く見ることができないということは、学校に行って友だちと共通の話題が持てなかったりすることに繋がってしまい、孤独感を感じることになり、結果として子供にとっては、親からの「虐待」になる可能性もあるということです。親としては良い「養育」環境で育てるために、子どもにテレビをみせなかったのだと思います。

子どものために良かれと思ってやっている親の行為である「養育」が、一方では「虐待」という側面をもっていということを物語っています。

子どもの将来を心配して、小学生の時から塾に行かせて、いわゆる「良い学校に行く」は「良い未来がある」という考え方が未だに日本社会に通底しているように思っていますが、「識別困難」な人が増えるばかりかもしれません。

「子どもが望んでいるから」という言葉もよく聞かれますが、子どもいかに親の期待に応えようという存在であるかということをもっと私たちは知る必要があると思います。私自身もいわゆる「毒親」でした。

そして、この「識別困難」の背景にあるのは、「家族は辛い世界のなかの天国」であるという神話が貢献していますが、原家族での虐待経験だけが私たちに「識別困難」をもたらすわけではありません。

私たちを「識別困難」な人にしてしまう、言い伝えー日本の場合であれば「かわいい子には旅をさせよ」等々によってもたらされる文化の中で、私たちが成長しているのだということも語っています。

◆虐待を経験した人が識別能力を身につけるためのストーリーの再解釈

まず、彼女たちがさらされたと虐待というものが彼女たちの人生において実際どのような影響を及ぼしたかを明らかにすることから始めます。そして、虐待経験の表現としての自己破壊的行為を同定します。

虐待経験の表現であるようなことがらと、虐待自体の再解釈ないし名づけ直しに基づいたことがらとのあいだに区別をつける会話に人々を読み込みます。

さらに私たちは、人々と一緒になって、ユニークな結果、つまり、自己拒絶ではなくセルフ・ケアとして読まれる得るような個人的行為を同定するわけです。ユニークな結果は、女性の人生の対抗プロット、つまり、サバイバル、リジリアンス、プロテクト、レジスタンスといったことに関する説明の入り口を提供するのです。

「人生の再著述」153p~154p

上記の引用文の内容は、ナラティヴ・セラピーのプロセスです。
このプロセスを経て、女性たちは、日々の人生経験を新しいプロットとこれまでの古いプロットあてはめて区別して行くように励まされます。

「この出来事は、虐待あるいは自己虐待にフィットするだろうか? ケアあるいはセルフケアにフィットするだろうか?」「このかかわりは、自己拒絶を誘導するだろうか? あるいは、自己受容を誘導するだろうか?」等々

そして、一つの成果として、「女性たちが、誰かにさらされていた行為と自らさらしていた行為のあいだの区別がずっと容易につけられるようになり」、もう一つの成果としては、「女性たちの人生の対抗プロットがそれまでより、ずっと明確に言葉される」、そして「対抗プロットを『厚く』する」ことができるようになると語っています。

「そして、しばしば、女性たちは初めて、自分たちの欲求、思考、願望、目的、目標、希望といったものについて好ましい説明を同定し始めるのです。」
*「同定」は「探求」ともいえますが、「分ける」という意味が強い。分けて探求していくこととが、「同定」と言う意味であると、読書会の場で説明されました。

ここまで書いてきたことは、昨日の読書会の半分の内容ですが、いったんここで終わりにしたいと思います。
続きもどこかで書けるように願っています。

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