年に2,3回人骨を食う話

ここ数年は、1年に2度ほど人骨を食っている。

骨だけになる前は、母だったものと、友人だったものだ。母は大腸癌で死に、友人は脳にできた癌が脊髄に転移し死んだ。

食うことにも、食い続けていることにも理由すらない。理由があった(ような気がする)のは最初の1回だけだ。1回目は納骨された日で、それから命日だとか誕生日だとかそういうことには全く関係なく気が向いたときに食べている。

味はしない。そして最近では自分でもよく分からないタイミングで食う。アイス食べた後とか、酒飲みながらとか、テレビ見ながらとか。しかも一番最初は粉々になった砂みたいな部分を食べていたのに、最近では結構大きな部分を歯でガリガリと砕き、大きさが残った状態で適当に飲み込んでみたりすることさえある。雑に食ってる。人骨を。

人は人骨食うという異常な行為にすら「慣れ」ていくのだ。あ、言っとくけど人骨食うのがノーマルな行為だとは思ってません。私は案外常識がある方なので。うんことか食わないし。うんこ苦いとか聞くし。うんこ食う奴はどう考えてもヤベエよ。

私の書く話には必ずうんこという単語がまるでダリの蟻くらいの頻度で出てくる。蟻よりうんこは隠れるのが下手なのでさりげなく出しているつもりでもめちゃくちゃ出しゃばってくる。しんどい。

うんこの話は置いといて。

そういえば私の母はカツラをかぶった奴を見つけるのが超得意でよく自慢げに「ひよちゃん、あの右斜め前の人アレだよ」と「アレ」=「ズラ」という何も隠れていない隠語を我が家の公用語としていた人物だった。

友人の方はといえば、私が中学生のときに知り合いになったのだが、その当時から死ぬまでずっと精神を病んでおり生活保護を受けて暮らしていた。太っていて、たまに自分で自分の髪の毛を金髪や緑や青色に変えたり、創作のBL小説をコミケで売ったりしていた人物だった。銀色夏生の詩を愛読していた。

2人とも聖人的な要素もない、ただの変な人たちだった。母なんか「Xファイル」観てモルダー役の俳優さんのこと好きになってたし、その次はヨン様だったし。ヨン様に至っては空港まで出迎えに行って自分でレタリングしたうちわ振り回していた。さらにお約束で武道館でのイベントに行ったり半裸の写真集買ったり。まあどこにでもいるようなおばさんだったわけだ。私以外にとっては。こういう風に彼女たちの情報をいくら羅列したからといって、本当のことをあなたに伝えることは出来ないと思っている。理由は簡単で、事実と私の中にある大切だと私が思っている出来事が異なっているから。

J.D.サリンジャーもライ麦の中で書いていた。「だってあなたはあいつのことを知らないもんな」と。その通りである。母も友人もうこの世いない。キャッチャーミットに書かれた詩を残して死んだホールデンの弟と一緒で、私には母と友人との思い出は増えていかないから、残されたものだけを頼りに何度も何度もそれを味わい続けていくしかない。味がしなくなるまで。

そして人間の骨というのは物質で、有限のものである。私は食う他にも、綺麗な土地や海などにばら撒くこともあるので量はどんどん減っていっている。十数年の旅行先での散布や経口摂取によって半分以下に。こうなれば無くなるまで食い続けていくのが正しいことのような気がしているが、「人」が「人」の「骨」を何年にも渡り食い続けていることを正しいとか正しくないかと判断できるのかと言われれば出来ないような気もしている。

判断が出来ない領域では「人」が「人」の「骨」を食い続けている。それが世界の片隅で起き続けている事実である。






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