IMAX映像をブラウン管テレビで見せる
久々の更新。
かなり仕事が立て込んでいることもあるが、2割くらいはおさぼりだ。
書きたいと思った内容のnoteの下書きは30件弱溜まっているものの、書き上げるまでに至らなかった。
なにか作業を開始する際に
0から1を始める『着手』が心身ともに最もエネルギーを要することを皆さんも経験上おわかりいただけるのではないかと思う。
つい先日まで私もその特性を昔から有し続けているという確信を持っていたが、加齢とともにそれが変化してきていることに気づいた。
新書、専門書等を問わず年間150冊以上は読書をするが
以前は買いっぱなしで書店の袋からも出さずに、自宅の本棚に重ねる『積ん読』が多かった。
買った以上いつでもすぐに読めるという安心感からくる満足も多少はあったとは思う。
購入後、読み始めるまでの時間は長かったものの一度読み始めると4〜5冊程度なら平気で寝ずに読み切ることもあった。
ただ思い返すとここ最近は
買ってきたらすぐに読み始めるが1冊を読破する前に他の本にも手を出してしまう。
読みかけの本が数冊ある状態。
カバンにも文庫本が3冊くらい入っている。
サブスクで映画を観る時にも似た事例がよく起こる。
エンドロールまで再生しきっていない映画がリストにたくさんある。
結末を知ることよりも新しいものに触れたいという感情が優先されていく。
0を1にする『着手』より
70〜80から100にする『仕上げ』に要するエネルギーの方がより必要になっていきているのだ。
個人の特性によるものか一般論としてかはわからないが
結論は『集中力の欠落』と『飽きの早さ』が年々加速しているからだと断定する。
誤解を招きかねないので念のため言うが
断じて「三日坊主」というわけではない。
決して。
間違いなく。
上記を以て更新が滞った理由とさせていただく。
(一点、冒頭の比率に関してであるが2割から4割に訂正しておくことにする。)
さて、ここ最近感じるストレスの話をする。
ある事象に対してクリティカルな表現ができる単語や慣用表現、言い回しがあるにも関わらず、
その語彙がない人たちにも理解できるように噛み砕き、簡素に置き換えての発言を求めれることに大変強いストレスを感じている。
自分がなにかを発信する際に、事前に解像度を下げて物事を表現しないといけないことにまだ納得できていない子供の自分がいる。
愚痴めいて申し訳ないが
以前、仕事で専門的な解説を要求された案件があったので資料を作り説明会を行った。
より専門性の高い解説を求めた張本人から
「もうちょっと簡単に言うと?」が乱発され
低次に置き換えて説明すると「専門性に欠ける」の一言
経験上この手の人間は自身の知識量や理解力の低さを省みることはない。
感覚的な例を出すと
「ジョニーデップがシベリアンハスキーを連れて歩いていた。」
この文章をジョニーデップもシベリアンハスキーもわからない者のための説明として
「60歳くらいの中年男性が犬を連れて歩いていた。」
と言い換えるような感覚。
「何がすごいの?」と聞かれても
2つの説明をしているうちにこちらとしても共有したい感動の熱は冷める。
この解像度の違いをわかってもらえるだろうか。
頭の良い人、仕事ができる人は誰にでもわかるような説明が上手。
よくこう聞く。
ならば私は生涯頭が悪く仕事ができないままなのであろう。
甘んじて受け入れようではないか。
ガンバレ日本🇯🇵
よろしくどうぞ。