「何者かになりたい」という自意識を手放した時に存在感が増す
ただのライターで終わりたくない。何某かにならないとダメだ。
何か際立たせないと埋もれていく。
そんな風に思ってキャッチフレーズを作ったことがあります。
それは・・・
「心を描く文筆家 ほうきばらりょうこ」。
なぜそのフレーズをつけたかというと、
わたしはその人自身の表面的な成功法則よりも、その人の心の奥にある葛藤や迷いもすべて余すところなく描く物書きでありたいと思ったから、そう名付けたわけです。
一時期、名刺にもそのキャッチフレーズを入れてみたんだけれど、だんだん自分で言っていて恥ずかしくなってしまって、名刺が切れた段階でやめてしまいました。
いいんです。キャッチフレーズを作ることは。
自分が心からしっくり来る言葉ならば、それは一歩前に、自分を押し出してくれるから。
でも、わたしはどこか自分の存在感に自信がなくて、「自分は他のライターと違うぞ」と、「差別化するぞ」と、「何者かになったるぞ」と。そんな浅知恵で付けたもんだから言葉が上滑りしているように感じてしまったのです。
だから、自分が自分に痛々しく感じてしまった。
他の人から見たら、「ああ、そうですか。そうなんですね」と気にも留めないと思うのですが、自分が一番、「やっちまったな」とじわじわボディブローが来るんです。
職業名に魅かれてその人を選ぶわけじゃない
今、いろんな職業名やキャッチフレーズが世にあふれています。
それはどこまでもクリエイティブで、
もはや、なんの仕事かもわからなくなってきています。
いるかどうかわかりませんが・・・
あなたの愛と豊かさを引き寄せる〇〇セラピスト
あなたの使命を見つけるワクワク創造プロデューサー
愛の戦士やら、地球防衛軍やら・・・ワンダーランドになっている。
いたらごめんなさい、なんだけど・・・
そうした職業名やキャッチフレーズに魅かれて、その人の商品を選ぶわけじゃない。
そうした職業名やキャッチフレーズに魅かれて、取材には行かない、絶対に。
自分が取材に行くなら、その人の過去の記事、作品をすべて見て、一本筋が通っているかどうかで判断します。
職業名やキャッチフレーズは見ないと言っても過言ではありません。
何者かになるよりも、大事なことがある
何者になるか、何者として売り出すかを考えるよりも、もっと大事なことがあります。それは・・・
自分が今伝えられることを伝えること。
自分が今やれることをやること。
それを続けた先の先に、何者かになっているのです。
わたしが取材した、何者かになっている人がこう言っていました。
「わたしは何者でもありません」
「わたしは常に何者でもないと思っています。目の前にあることをただひたすらやっていたら、こうなっていました」
1人じゃありません。
取材した有名企業の社長・役員が立て続けにそう言っていたので、自分へのメッセージか?と思うぐらい。
その人たちは、自意識がてんでありません。
自分のことなんてどうでもいい。
自分に一切ベクトルが向いていなくて、ただ目の前の相手のために仕事をしていました。
そういう人たちの言葉はすべてがパワーワード。
生きた言葉になっているのです。
だから、その人の言葉は聞きたくなるし、取材が殺到するのです。
何者かになろうとして、職業名やキャッチフレーズを作るのはいいんです。
自分が心から納得して名付けているなら、それは上滑りになりません。
でも、何者かになろうとして、選ばれる人になりたくて、無理やり付けたものならば、あとからじわじわボデイブローがやって来ます。他の誰かじゃなくて、自分に。
それは、毎回自分の名刺を見るたびに、ブログを書くたびに、「なんか違うな」って違和感が訴えてくるから・・・。
その時点でやめていいんですけどね。
何者かになろうとしたり、選ばれる人になろうとしたりして、自分の売りを無理やり作り出そうとするより、
今の自分で、語れる言葉を語り続ける。今の自分でやれることをやる。
それが圧倒的な存在感を生み出します。