私が“いい”と思ってきたものは、本当に“私にとってもいい”ものなのか。ーこめ氏のこころぐー
1月25日月曜日。
多分、こうしてnoteにまとめていくうちに、知人の目にもいつかは留まるのではないかと思う。
そうして書いている人、私にも気づくのではないかとも思う。がしかし、そんなことは関係なく、自分の気持ちを表明していきたい。
そのためのnote。
私が"いい"と思ってきたものは、
本当に"私にとっていい"ものだったのだろうか。
そんなことを最近思うようになった。
以前少しばかり言葉にしたことがあると思うが、というかこのnoteを読んでいれば言わずもがなわかっていただけると思うが、
私は地域(日本の田舎のこと)が好きだ。
なんで好きなのかについて今のところ明確にこれというものがあるわけではなくて、これから少しずつわかっていくかなと思っている。
でも、地域がいい。地域にいたい。
その、"いい"については私の心の中に本当にあるものだと思う。
心でそう感じているのだ。
今日に至るまで、地域に関心のある人たちと出会うことはたくさんあった。
そこで地域の特色を聞いたり、それぞれの好きな理由を聞いたりしてきた。
でも、自分が地域の何がどういいのか言葉になっていない状態でいたからなのか。
地域に関心を持っている人の口にした言葉、彼らの"いい"と思うものが、自分の"いい"に、知らず知らずのうちになっているような気がしている。
例えば、~踊りなどの芸能、漆器などの工芸品など、そういった地域特有の受け継がれている文化的なものを、よく地域関係のトークでは耳にする。遺産などの名所になり得るところも多い。
私が日頃通い詰めている大保木という地域で一つ例を挙げれば、石鎚ふれあいの里にある炭焼き窯とか。
ふれあいの里の主にBBQで使われている、売られている炭は全て自家製である。炭焼き用の土窯があり、中に原木を入れて燃やすことで炭を作る。それは古くからずっと使われているもので、ところどころ直しながらも今も現役で使い続けられている。
自家製の炭を作って使うキャンプ場など、あまりないような気がする。
こういった、その土地ならではの産物には、すごく想いを寄せる人がいたり、熱狂的なファンがいたり、関心を持たれやすいもので、
地域に関わり事業を起こしたり、好きでよく地域に出向いたりする人たちの間では話題に上がりやすい。
「□□村にはこんな伝統的な舞があって~」とか、
「○○町は昔ながらの和紙の生産が盛んで~」とか。
そこまでのただの説明だったら、そうなんだ、という情報止まりになることもある。
が、その後に、
「すごく心が震えて、"いい"ものだなあって感じて、次世代に残していきたいと思っているんです」
「今は担い手が高齢者ばかりで、やがてなくなってしまうかもしれない。でも"いい"ものだから、担い手を見つけたいと思っているし、もし見つからなくても世の中の多くの人たちに知ってもらいたくて活動しています」
こうした想いが続くと、心に迫ってくるものがある。
自分はこれに興味関心があって、好きで、いいと思っていて、だから残したい、届けたい、自らやりたい…
そういう言葉はやはりすごく、強い。エネルギーがある。
だからその言葉を耳にするこちらも、胸に響いてくるものがあるし、そのものや人のことを考えさせられる。
それ自体はとてもいいことだと思う。
実際そうして、人が共感して全く縁も所縁もなかった人が、好きです、やりたいです、って動き出すことはあるし。
けれど、これまで私が直面したそういう場面を振り返ると、
本当は私自身はそれを聞いて、心から"いいよね!わかる!"と思っていないのに、いつの間にか気づいたら心が勝手に自分にとっても"いい"ものだと思い込んでいたようなのだ。
確かにそういうものっていいよね、と。
わかりやすく一つ言うならば、
「その土地ならではのモノっていいよね。なくなったら寂しいよね」ということ。
これまであまり疑いも持たず、私は当たり前のようにそう思っていた。
でも、それって私の本音…?本当にそう、思ってる…?"いい"って感じてる…?
じゃあ悪いと思っているのかと聞かれたらそういうわけではない。
それはその人にとっての"いい"なのだから、それでいい。ただ、"いい"と思っているかは別だ。私の真の気持ちはどうなのか。
聞く人が聞いたら、そりゃ伝統は大事だろうとか、文化的なものは知ってもらうべきとか、総じて"いい"と言うかもしれない。
でも、それはその人にとっていいのであって、私にとっていいとは限らない。
先述したようにいいと思う人たちがわりといることも分かるし、共感する人も多く、知った人が口々にいいと言うものでもあるのは確かだ。
私も、それをいいとすること、自分もいいと思うものなのだ、と当然のように思っていた。
だからあまり気にすることもなく、心に沁み込むように"いい"と思い、人の話を聞くたびに、そうですよねぇ、いいですよねぇとか言っていた。
でも、私は地域で何がしたいのだろうか…、とこの頃また問うようになってみて、
自分の想いを寄せるもの、関心のあるものを考えてみても、そうしたその土地固有の伝統文化的な背景のあるものに、想いが湧かなかった。
そのときに私は今日のこのnoteで綴っている疑問が浮かび上がったわけだ。
「私って別に、地域にあるそういうものに特別関心なかったんじゃない?」
そしてその答えはここまでの文章からするに、イエスである。
周りが"いい"と言うから、私も"いい"と思うようになっていた。
いや、もっと正確に言えば、いいと思おうとした、いいものだと刷り込んだ、の方が多分近いのだろう。
いいものだと思わなきゃだめな自分がいる気がしていたんだと思う。
だって、伝統だよ?この土地にしかないものだよ。貴重じゃん。今の担い手がいなくなったらもう見られなくなっちゃうものなんだよ。大変、それは残さなきゃ。語り継ごうよ、これを題材に何か企画しよう。"いい"ものなんだから。
そんなことを思ってたし、実際そう思って何かやってたこともあった。
でも、そんな私に、私は問いたい。
それって、"私にとっていい"ものなのか?
とりわけ伝統文化に関して、学校など教育の場では大切だと思う心を育む傾向が強い気がしている。
私は小学生のとき自分の住む地域の伝統文化に触れる機会がそれなりにあったような気がする。
確かに伝統文化を知るという点ではいいと思う。だけど、興味を持つとか好きになるとかいうことになると、誰かの手で操れることではなくなる。
人はきっかけを作ることはできても、そこでどんな感情が生まれるかは、その人自身によるものだからだ。
とはいえ、もちろん、伝統文化でもなくても自分がいいものだと心から感じるものはあるし、本当はもっとよく知れば"自分にとっていい"に変わるものだってあるのかもしれないし。
知り方、知るタイミングって、自分をかたちづくる上で、けっこう大きな人生の出会いになり得るんだ。
私ってそうやって、地域にあるものはいいものだとひとまとまりに思ってきたんだなあ。
別に地域だけじゃない、他のこともそう。多分、口から「いいよねー」とかなんでか先に出ちゃって、そう心も思っちゃったり。
気持ちとしては自然なことじゃないのに、そういう反応するのは自然になっているんだよね。
私の地域に対する想いは別のところにある。
これまでたくさんの地域のモノに出会ってきたけれど、それそのもの自体にはあまり関心はなく、
それ(があったという事実)と何かを結びつけて人が活かされることとか、
それ(を何かかたちに変えたもの)を通して育まれる人々の心とか、そういう類のことに関心があるかな。
つまり、私の関心は人にあるのだなと。
人もただ、そこにいるどんな経歴の誰、ということは前提として必要な情報ではあるのだが、それ以上に、人の心に関心がある。感覚、感性、そういったこと。
私はそういう心の、感じる部分において、何かやっていきたいのかもしれないな。
そういうことを地域の中でできたらいいかもしれない。
というか、地域関係なく。
私がやりたいことは、もっと、そういうことだ。
素敵だなあ、いいなぁと自分が本当に感じるものだってある。
例えば山。私は木が、自然が、緑が、山が好きなのだ。この景色ある大保木の夏が、いい。
このnoteでは、ものを扱う中で、そういう気持ちの部分はきちんとしていきたい。
自分がいいと思うものも、そうじゃないものも、取り上げるときの自分の気持ちをちゃんと見るようにしたい。
私が本当にやりたいことは、地域活性化ではないかもしれない。そんな気がしている。
ちょっと自分でも、びっくりな気もするけど、意外とすんなり受け入れられる気づきでもあった。
目に見えない。でも確かなもの。
私がいいと思うのは、そういうもの。
他の誰かが本当に心からいいとは言わないかもしれない。
そうかもしれない、きっとそうだ
ではなく、
心から"いいよね!わかる!"である気持ちが大切なんだ。
以上、今日のこめ氏でした。
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