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 1981年のロボットアニメ「黄金戦士ゴールドライタン」の主題歌の歌詞に次のようにある。

「悪の大魔王 お前だけ憎んだ お前だけ愛せない」

 この歌を知ったとき、私は軽くショックを受けたものだった。
「正義の味方が、『憎い』とか『愛せない』とか言っちゃっていいの?」
と感じたからである。
 それまで私は、正義の味方といえば、たとえ敵が悪であっても「罪を憎んで人を憎まず」的に接し、嫌な奴であっても「愛する」みたなものでなければならないと思っていた。
 いや、たとえ、本心は「憎い」とか「愛せない」とか思っていたとしても、それを前面には出さず、表面上はあくまでも「許す」「愛する」行動をとる――それが正義の味方だと考えていたのである。
 でも、このアニメでは主人公の正義の味方の主題歌が悪の大魔王に対して「憎んだ」「愛せない」と歌っている。
 私が受けたショックは、「偽善的でなくていい!」とこの歌詞を歓迎する、プラス方向のショックだったのだ。

 悪の大魔王とはもちろん仲良くする必要は無いし、大魔王じゃなくても自分に害をなす相手と仲良くする必要は無い。
 害をなさない相手でも、ウマが合わない相手と仲良くする必要も無い。
 要するに、全員と無理に仲良くする必要は無いのである。
 自分が心地いい相手と、一緒にいて楽しい相手と、仲良くすれば良い。

 しかしながら、教室はそうではない。
 基本的には、たまたま一緒になった学級のメンバー全員と仲良くすることが求められる。
 教員自身、自分がそういう学校生活を送ってきたし、学校の教育目標に「みんな仲良く」とあったりするから、みんなと仲良くすることは、自然と、果たさなければならない義務のようになるのだ。

 だが、世の中にはいろいろな人間がいるのだ。
 自分に害悪を及ぼしてくる人間がいる場合だってあるのだ。
 その人間と仲良くする努力をしなければならないのだろうか?
 付き合う努力をしなければならないのだろうか?
 その努力を強いられたら子どもはつらいだろう。

 担任は、学級の子どもたちに「みんな仲良く」を強要すべきではない。
 誤解しないでいただきたいが「みんな仲良く」するなと言っているのではない。
 「みんな仲良く」を強要するなと言っているのである。
 推奨はしていいだろうし、すべきだと思う。
 無理なく「みんな仲良く」できるのならば、こんな幸せなことはない。
 それが世界に広まれば、この世から戦争は無くなる。
 だが現実はそうではない。

 子ども同士でトラブルが起きた場合、時には修復不可能なくらいに人間関係が壊れてしまうことがある。
 なのに、「さあ、これで仲直り。お互い仲良くしようね」と両者が強制的に仲良くさせられたら、双方の子どもたちにとってどんなにつらいだろうか。
 だが、教員には先述のとおり「仲良し病」みたいなものがあるから、子ども間にどんなトラブルがあったとしても、その先、トラブルのあった者同士は仲直りしなければならないのだ――みたいに思い込んでいるところがありはしないか。
 自分の学級に仲の悪い子同士がいてはならない、必ず年度末までには全員が仲良くなって、進級なり卒業なりしなければならないのだと考えているところがないだろうか。

 そういった学校に蔓延している「仲良し病」からこそ、我々教員は卒業しなければならない。
 無理に全員を仲良くさせようとすることは、誰も幸せにならないのだ。
 教員は多大な労力を費やす。
 該当の子どもたちはつらい思いをする。
 誰も幸せにならないことを、どうしてしなければならないのだろうか。

 もし、人間関係修復不可能なほどのトラブルが生じてしまった子どもたち同士がいたならば、教員にできることは、その子たちが以後、適切な距離をとって学校生活を送れるように配慮することだけである。
 無理に距離を近づけて、仲良くさせる必要は無い。
 適度な距離を保つことで、お互いが幸せならば、それが一番だ。

 人は、みんなと仲良くする必要は無い。
 1人1人の子どもたちが学級全員と仲良くする必要はない。
 悪口言ったり、嫌がらせをしたりしないのであれば、あとは同じ学級の同居人で良い。
 運動会や発表会など、行事のときに必要に応じて協力はするけれど、ほかはライトな感じ、軽い感じの付き合いで良い。
 子どもによっては、ほとんどの学級の子どもたちと仲良しになる子もいるだろう。
 子どもによっては、1人の子と仲良しになる子もいるだろう。
 私は、たとえ1人でも仲良しの子がいるのであれば十分であると考える。
 1人も友達がいない子の場合は、友達ができるように人間関係の調整をすることは担任の教員にできるかもしれない。
 あくまでも「調整」だ。
 「強制」ではない。
 友達というのは強制してつくるものではない。
 無理に「あなたと、あなたは、今日からお友達ね」などとやるのは、子どもにとっては迷惑だ。
 それで友達同士になれるくらいなら、教員が働きかける前にもう友達になっているだろう。
 いや、教員が働きかけることで友達同士になれる場合もあるだろうが、そういったケースは少ない。
 気の毒なのは、それをやったことで、一方の子は相手を友達と思い込んだのに、もう一方の子はそうは思っていないケースだ。
 友情の片思いだ。
 不本意な相手と無理やり友達のマッチングをさせられ、迷惑に思っている子がいる。
 でも、そういう子はたいがい「いい子」だったりするので、先生の頼みを無下にもできず、つらい思いをする。
 それで熱を出して体調不良になってしまった子を私は知っている。

 「仲良し病」だが、私は学校の教職員集団も同様に考えている。
 全教職員が仲が良いのは理想だが、そうでなくて構わない。
 私は校長としてそう考えてきた。
 教職員にもいろいろな人がいる。
 すごく性格のいい人もいるが、そうではない人もいる。
 すごく感じのいい人もいるが、そうではない人もいる。
 授業のうまい人もいるが、そうではない人もいる。
 働き者の人もいるが、そうではない人もいる。
 そんなバライエティ豊かな人たちがいる教職員集団を仲良くまとめていくのは簡単ではない。
 エゴ丸出しの人、独善的な人、他人を攻撃する人、怠け者の人、人権的にそれどうなのという言動をする人。
 「お前だけ愛せない」みたいな教職員は、いっぱいいるのだ。
 だが、管理職になると、そういう教職員とも関わらないわけにはいかない。
 こっちから見れば「お前だけ愛せない」みたいな教職員も、その当の教職員からしてみれば、こっちのほうを「お前だけ愛せない」と思っていることだろう。
 管理職は、教職員の仕事ぶりについて、ときには言いづらいことも指摘しなければならない。
 言われたほうは、それを聞いて
「おっしゃる通りですね。ご指摘ありがとうございます!」
と言うだろうか。
 たいていは逆である。
「自分はちゃんとやっている。そんなことを言う管理職がおかしい」
と言うわけである。

 校長や教頭に「自分は学校管理職なのだから、すべての教職員とうまくやっていかなければならない、仲良くしなければならない」と考えている人がいるのなら、その考えは捨てたほうがいい。
 表面上の「仲良し」が壊れるのをおそれ、管理職が言うべきことを教職員に言えないとしたら、本末転倒である。
 学級も学校も、仕事の場だ。
 私たち教員は、仕事として学校で働いている。
 最小限の人間関係を作ることができるのであればそれで良い。

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