#1 バンコクじゃない、東京だろ
2018年3月1日。
今日はこのうえなく忙しい。
いつもならこの時間にはメールも片付いて、お昼休憩も終わっているのに今日はまったく先が見えない。
午後三時までにメールを片付けないと・・・。
大きく背伸びをして、目を閉じてみる。
そうだ。そうだった。こういう時こそまずは休憩を取らなきゃだ。
そう思って立ち上がる。
「お昼に行ってきます。」
ぼそり独り言のようにそういって、駆け足で階段を下りた。
外に出ると3月の風はまだ冷たい。空は突き抜けるような青空だ。
天気予報では、「今日は暖かくなります」と言っていたのに、やっぱりコートが必要な肌寒さだ。
ほらね、私だけではない。
天気予報をうかつに信じた人たちはみな背中を丸めて歩いている。
なんとなくの安心感と連帯感。
こんなことで安心するなんて、結局は私も日本人だ――
そう思いながら、コンビニに向かった。
東京の街は1ヶ月後に控えた新しいスタートに、寒そうに歩く人たちでさえも、どこか浮かれたっている。
楽しんでいないのは私だけか―。
コンビニから戻ると、おにぎりを片手に再びマウスを握る。
時間が気になって仕方ない。
お昼休憩はちゃんと休まないと、なんて言いながら、私ってばいつもこう。
そんなイケてない、まじめすぎる自分にイライラしながら、後回しにしていた未読メールをチェックしていくと、新規取引を希望する海外の会社からメールが届いていた。
「今度、バンコクに行くので、お時間を取っていただけませんか?」
っていうか、まじ意味不明。
ここは東京のど真ん中ですけど?
よほど忙しくて頭が回らない人か、宛先構わずメールを送りまくっているかのどちらかだ。
聞いたことのない会社だし、こんな内容だし、後回しにしよう。
とそう思った時、私の目も手も止まってしまった。
なにじん?
差出人の名前―初めて見るその名前を何度か口に出してみた。
響きもスペルもとっても美しい。
手だけでなく、時間も一瞬止まったかのように心を奪われる名前だった。
私の仕事は日本人を海外に派遣することだ。
取引先というのもつまりは海外の会社で、訪れる営業担当のほとんどが外国人である。
このメールの差出人もまた、その一人だった。
あまりにも美しい名前に、芸術とさえ思ってしまった私は結局、
「私たちの会社は東京なのですが、何かお間違いでは?」
と、丁寧なメールをすぐに返した。
すると、ものの数分で返信が返ってくる。
「すみません。間違えました。今、バンコクにいて、これから東京なんです。会えますか?」
欧米人は自分の過ちに言い訳をする人が多いのだが、ずいぶんと素直で率直な返事に好感を抱きさえした。
かくして、私はこのメールの差出人と会うことになったのだった。
続く・・・