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無自覚の差別が、人をころしていく

ころす、なんて穏やかじゃないなと思う。
だけど同時に、悲しい事実なんじゃないかとも思う。

きっかけは、先日とある飲み会に参加したこと。ひさしぶりに、「ノリがいい」という名の押し付けと決めつけの嵐に出会った。

その場にいたのは、総勢15名ほど。
男女は半々くらいで、年代は高校生から60代くらいまでさまざまな人が集まっていた。

「ノリがいい」人たちは、声を荒らげるでもなく、周りの人に話題を振りながら、積極的に明るく楽しげにおしゃべりをしていた。

本人たちも、意識的に誰かに悪意をぶつけているわけじゃない。
ヘイトとも言えない。
だけど、その人たちの言葉が耳に入るたび、ざらっとした違和感と真顔になってしまう圧迫感があった。

その場そのときは、「苦手な感じの飲み会っぽい飲み会だ…」と思ったくらいだったけれど、あとから振り返ってみると、あれは紛れもなく「無自覚な差別」にあふれていた。

そしてそれが溢れ出ていることに、私はひんやりと傷ついていたのだ。

誰もが、いい年になったら結婚するという前提が置かれていること。
(結婚しない選択肢だってあるし、そもそも同性のパートナーであれば、今の日本の制度的に結婚という選択肢をあげづらいということだってある)

その結婚相手は異性であるはず、ということ。
(同性のパートナーがいる可能性は、一抹も考慮されない)

女性を性搾取の対象として、笑いをとる空気。
(なにも面白くない)

こんなのは、ただの一例に過ぎない。ある組織や制度、人々を一括りにラベリングして、「こうだよね」と言ってしまう場面は、その一つひとつを思い出せずにぼんやりとしてしまうくらい、たくさんあった。

そこにあるのは、無自覚の思い込み。

ここ数年、SNSで問題視されている誹謗中傷やヘイトなんかと比べると、どうにも見えづらいし、感じづらい。
なにかモヤモヤはあるものの、それがなんなのか言語化しづらい類のもの。

だけどそれらは、真綿で首を絞めるように、少しずつすこしずつ誰かを傷つけ蝕み、ころしていく。

社会はこんなものなんだ、という諦めを生む。
祝福されない存在なんだ、という悲しみを生む。
ときには、やり過ごすための嘘をつかせる。

飲み会が終わったあとに残ったのは、徒労感とお金と時間を無駄にしてしまったというみじめな気持ち。

なんで嫌な思いをしてまで、他の人がたくさん飲んでいた分を私が平等に払わなくちゃいけないんだろうという気分にまで、なってしまった。

そしてその矢印は、必然的に自分にも向いていく。

なんで飲み会に行くと言ってしまったのか。
なんで嫌な気分になったときに、それを伝えられなかったのか。
なんで、怒れなかったのか。

だけどそれと同時に、なんで傷つけられないために、自分が強くならなくちゃいけないんだという気持ちにもなる。
なぜ傷ついている側が、一方的に声を上げないとと、いつも頑張らなくちゃいけないんだという憤りも湧いてくる。

これは人からの受け売りだけど、声が大きい方や強い方ばかりが平然と生きていられる社会ではなく、「弱いままでいい」世界であってほしいと思う。

そのためにも、完璧でいることなんかできないけれど、少なくとも、無自覚な思い込みで人を傷つける可能性があるということに、自覚的でありたい。

私は、もともと飲み会にはあまり縁がないし、幸運にも、自分が人を傷つけるかもしれないという可能性をいつも心に留めている人たちばかりに囲まれている。

だからこそ、この心地よさが、大体の世界にはあるもんだと思ってしまっていたところがある。今回のできごとで、それを一気に薙ぎ倒された。

そういう意味で、無駄だと思ったお金と時間は、いい勉強だったし、必要なものだったとも言えるんじゃないかと、あとから納得している。同じコミュニティの中で留まっているだけでは、きっと忘れてしまう感覚だった。

社会は、やさしくないわけじゃない。びっくりするくらいの愛と想像力にあふれている人たちも、たくさんいる。

だけど気づくきっかけもなく、無自覚に差別を繰り返し、誰かを傷つけころしていく人たちもいるのだ。それは悲しいけれど、無自覚ゆえのタチの悪さみたいなものがある。

でもだからこそ、もし次に私が同じような場面に出会って、エネルギーがあるときだったら、その場にいる人たちに問いを投げかけ、一石投じてみたいなと思う。

水面に小石を放り込むように、ポチャんと落とされた小さな問いが、その場に波紋を広げ、なにかの気づきを生むきっかけとなり、いつか大きな変化につながっていくかもしれないという期待を持ちたいから。


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