「充電してくれよ」っていう警告。
うつ病になって分かったこと思ったこと
それはある日突然起こりましたなんてよく言いますけど、本当にそうでした。
はじめて感じたのは、謎の嘔吐感でした。
六花が初めて就職した先は介護職、体力も気力もいる仕事です。高卒すぐに出来る仕事は地元では限りがあって、やりたい仕事に受かることがなかった私は何とか採用を戴いた介護のお仕事をしていました。
どんな仕事もそうですが、楽な仕事はありません。誰かにとって重要なもので、社会にとってなくてはならないものだからです。
どんどん業務内容が増えて行ったり先輩が仕事を教えてくれている中で、どうしても耐え難いほどの喉元から何かがせり上がってくるような気持ちになりました。
何度もトイレに行って深呼吸をしました。
「きっと緊張がまだとれていないせいだろう」
そう言い聞かせていました。
けれど、嘔吐感は止まらず、他にもいろんな症状が出てくるようになったのです。
夜勤仕事をしているときのことでした。
日付を確認しようとカレンダーを目で追いながら先輩の説明を聞いていたときにふと、「曜日」という単語に違和感を覚えたのです。
「…曜日?曜日ってなんだっけ」
何日って何曜日だっけ?という事ではありませんでした。
曜日そのものが分からなくなったのです。
幸いなことにすぐに思い出しましたが、あの時ほど自分にびっくりしたことはありませんでした。
小さい頃から忘れ物をすることが多い六花でしたが、さすがに「概念的なものの意味」まで忘れることはないだろう。そう思っていたからです。
そこからでしょうか、体も心も考えも、仕事に追いつかなくなってきました。
朝が来るのが怖くて眠れない日々が続き、仕事に行くときに行きたくないと泣いたこともあります。職場でも家でもご飯が食べづらくなりました。ひとくちふたくちが限界でした。食べても仕事中にトイレに行っていまいますし、栄養になっていないまま仕事をまた迎えます。
遅番の帰り、家族から借りた車で帰宅するときでしょうか。
駐車場の車の中で思いっきり声を上げて泣きました。あれは悲鳴に近かったと思います。
別の話になります。演技をするとある有名な方から教わったのですが、動物ドキュメンタリーなどを観る中で動物の咆哮は、命の危険を感じ取ったときに威嚇するようなものだそうです。人間が真の恐怖__例えば何かから逃げるとき、自分の怖いものを見つけたときの悲鳴は、命の危険を感じ取ったから。ただ叫ぶのではなく、威嚇するように叫ぶ、そう感じているとわかることによって真に迫る演技が出来るのだそうです。
あの時の悲鳴は、心の底に溜まっていた嫌だという感情を本能が「命の危険」だと感じたのでしょうか。とにかく叫んで泣いて、1時間ぐらい運転できない状態になりました。帰りたいのに帰れない。そんな事があったので、「さすがにこれ以上は無理だな」と思い、後日上司に退職の相談をしました。
ここで私は初めて精神科を受診し、「うつ病」だと診断されました。
心の警告サインが体に出てくる
スマートフォンやタブレット、パソコンなんかでエラーが起こると警告が表示されたり、バッテリーが切れかけるとパーセンテージが減っているので皆さん何かしら解決しようとしますよね。
でも心身の不調は、何故か誤魔化しつづけます。
特に心の不調は、本人の自覚も無いまま動けなくなる寸前まで放置してしまうこともあります。
それにはいろいろな要因があると思います。
家庭環境、自分の置かれている状況、金銭面、病気になったことを認めたくない気持ちなど。
なんとか一人で解決しようとすればするほど、このうつ病というものは厄介に絡みついてきます。
今まで当たり前のように出来ていたことが出来なくなったり、回復に異様に時間がかかったり。でもそれは身体の回復だけでなく心の回復に時間がかかっている証であると思います。
心を休める方法は様々、人によって効果も効率の良さも違います。
身体を動かすことで癒しになる人もいれば、お風呂に入ることが癒しにもなり苦痛になる事もあります。
特に、簡単なことが出来なくなるほど焦って治そうと頑張ってしまいます。私もそうです。休んだ時間を取り戻そうと考えてしまいます。
そうした焦燥感にも似たものが、また心身を休めるという目的を阻害してしまう可能性もあります。人によっては収入減が少ないなどの理由でどうしても働かざるを得ないでしょう。六花もそうです。
「まぁ、なんとかなるだろう」に至りたい。
この言葉に至るまで、私は様々な感情になります。
特にうつ病になってからは、抑えきれなくなった感情が涙となって出てくることが多いです。昔から不平不満は言ってもしょうがない、頑張れと言われ続けられたから頑張る。それだけでした。
でも意外と私が休んでも、手を抜いたとしても(もちろん時と場合によりますが)人生はそんなに思ったほど「どうしよう」と思った方向に進んだことはありません。
幸いにも、家族にも友人にも親切にしてくれる人たちに恵まれた私は、時々どうしようもない気持ちに戻りながらも、心のどこかで少しの余裕のようなものを感じることが出来ます。
これはある意味、昔の私には無かったものかもしれません。
私は常に完璧とまではいかなくても、ある程度できて当たり前を目指していたように思います。いつだったからか、小さい頃からの教育なのかは覚えていませんが、「他の人に迷惑をかけないように生きる」ことを徹底していました。それは私の中では「自分でほとんどのことを出来る」という極論に至ってしまいました。
人間、なんでもできる人はいないと思います。
どんなに頭がいい人でも絵を描くのは苦手だったり、逆に絵を描くのが上手くてもスポーツが苦手な人、その人の「出来ない」は千差万別です。
仕事もそうです。ある程度やる事はみんな同じでも得意、不得意は存在します。完璧に時間を守って、時間内に終わらせる。それが出来たら、今頃世界中で「時間外労働」や「残業」という言葉はなくなっているでしょう。
ひとつのものを抱え込み解決しようとするよりも、分担してやればその分自分の抱えていたものから解放される時間も量も減ります。
時間は有限であり、でも人生に戻すと途方も無く長く感じることもあります。その途中少し休んでも、代わりにやってくれる人がいたりします。だからと言って自分に価値がなくなるわけではありません。別の場所で、誰かが価値を見つけてくれます。そもそも自分を形成するのに、自分ひとりでは完結しません。「観測してくれる誰か」が居て初めて「自分」になれるのです。
人生ゲームでいう1回休みが長く感じるだけ、なのです。
それまで早くゴールに至らなきゃ!稼がないと遅れてる!と思いがちでしたが、「1回休んで冷静になればもっと効率の言い回し方ができる?代打してもらえればいいのでは?」と発想の転換が重要なんだと思います。
「まぁ、何とかなるだろう。自分は次にやれることのために、今は身体と心に休暇をあげよう。ご褒美だ。頑張ってきた自分の為のご褒美なんだ。」
そう思えるようになれば、少しだけうつ病というものも、心の半分より軽くできるのかなと思います。
充電してて怒られるかと思うけど、楽しく遊べない人が働ける元気出るかって聞かれると答えられないよね。
休む=寝る。
うつ病の最初は、とにかくひたすら寝ながら何かをぼーっと眺めることしかできませんでしたが、それだけで治ればたぶん苦労してません。
投薬治療ももちろん必要だと思いますが、特に心が動いていない(感動していない)状態って何をやっても「・・・」となっている、とにかく「無」になっていると思います。六花はそうでした。
求職活動中、休職中に仕事をしている人もいるのに外に出るのは億劫でした。だって職場の人に会うかもしれない。人と会うのが怖い。
でも怖くなくなっても家でふさぎ込んでいるのは改善に繋がらなくなってきます。少しずつでも外に出て何かをする。外に出なくても、「いってみよう、やってみよう!」がひとつでも出来るようになると、ちょっとした自信にもなります。(いってみよう、やってみよう!知ってる人いるのかな)
コロナ禍で制限が多い中、躊躇うこともあります。
最初はぼーっと動画を見て過ごしたりしても全然大丈夫。
重要なのはそこからどんどん楽しいことにまた興味を抱けるようになることなんです。
だって心が動いてないのに、何かを成し遂げるのって体力無いのにグラウンドもう1周してこい!って言われているようなもんです。いや体力無いんだって!けがするって!
例えばご飯を食べて「おいしい!」と思って「満足する」
これだけでも感動になります。心を動かしたことになります。
観たかった映画を観て泣いたり、面白いと思えたらちょっと戻ってきたな、と自分の不調を治していくために必要な治療の一環になり得るんです。
文句を言う人が出てくるかもしれません。が、罪悪感はそんなに思わなくて大丈夫です。心が動く練習の実習みたいなものをやってるんです。仮免許取って道路出てます!ぐらいの勢いです。
うつって結構、厄介でしつこいこびりつき。でも、なんとか生きていける方法は結構ある。
いろいろ散らかった乱文になりましたが、この通りです。
インターネットが普及した世の中で、良いも悪いもありますが、色んな人が情報を提供してくれる時代が来ました。
タッチひとつで知りたい事が出てくる時代、そこには知らなかった制度やもっと早く知りたかったことなんかがあります。
特に精神科に通うとめちゃくちゃ出費します。それが心の不安にもつながります。「やばいお金ない」。公的なちょっと面倒な手続きをすればちょっとでも軽くなる方法があったりします。
他にもいろんな制度があって、それを受けるのにちょっとした試練を受けるような覚悟が必要な気持ちになったりします。
それでも焦らず色んな人に相談することで、「あ、なんだもっと早くやってたら良かった!」って思う事は必ず出てきます。
そういうものは、受けてもいいんです。むしろ頼って大丈夫。生きていく上で必要だから使う。それだけです。ずるいも何もありません。
公的な制度に関しては、色んな人が紹介しているので六花の説明は割愛しますが、調べてみるとYouTubeで取り上げてわかりやすく説明してくれる人もいます。一度拝見して、考えてみるのもよいかもしれません。
それでは今日はここまで。
誰かの何かになれたら幸いです。
キャンドルの火の揺らぎを見て落ち着こうとするも、なかなか最後まで使いきれない六花でした。