珈琲を飲めるしあわせ堪能す罪悪感は夜に閉じこめ
母乳が出なくなったので珈琲が飲めるようになったんです、みたいなことを言ったら、良かったですね、というようなことを言ってもらえた。そのひととはその時が初対面だったけれど、ついったやメールで何度かやりとりをしていて、やさしいひとだと知っていたし、実際その言葉には嫌味のひとかけらもなくて、とても素直な肯定だった。本来なら喜ぶべきところだった。
でも、わたしは後ろめたい気持ちになった。それはつまりわたしのなかにいなせない気持ちがあったのだ。次女はまだ三ヶ月。本当なら搾乳でもいいから母乳をあげていたかったけれど、このいたかったは、ほかのいたかったに押され潰されてしまったのだ。ごめん。次女にというよりわたしの母乳をあげたかった気持ちに謝りたい。守ってあげられなくてすまなかったと。
最近、珈琲を飲むとそのことを思い出す。思い出しながら飲む。たぶん、しあわせと思われる時間を過ごす。でも絶対に、裏側にはある。後ろめたさが。罪悪感が。ごめん、ごめん、ごめん、ごめんね。
きっと、次女が八ヶ月になるぐらいまで思うのだろう。長女の搾乳をやめたのがそれぐらいなのだ。せめて同じぐらいまではあげようと、あげたいと、思っていた。現実には二ヶ月で出なくなった。出さなかったからだ。出すための時間より長女との時間を優先し、自身の睡眠時間を必要とした。乳パッドと搾乳用のパックが大量に余ってもったいないくて捨てることができなくてその辺に転がってるのも痛い。
それはともかく、珈琲を飲んだのだ。久しぶりに外で。アイスコーヒーをブラックで。細かい氷がたくさん入っていて、ガリガリと食べたいのを我慢した。珈琲は苦味も酸味も少ないすっきりとして飲みやすい味だった。ベーグルの専門店なのに珈琲もちゃんと珈琲の味がしたことにびっくりしながらこれまた久々に本を読んだ。カマタまで文学だらけで購入した、みなもとはなえさんの『Letter to ME』というエッセイ本だ。
ピンクの表紙に白の文字が、文字の中の斜線の手書きっぽさが大人かわいい。偶然珈琲のコースターの色もピンクで、こういう一致にわたしは運命みたいなものを感じて嬉しくなる。ドヤァとなる。
それで、この本は、noteに書いた文章をまとめた本だそうで、わたしも、日記を、備忘録かもしれないけれど、書きたくなった。本当は、別の人(冒頭で書いたやさしいひと)がはてなブログで日記を書いているのを読んで、書きたくなっていたのだけれど、現状のわたしのはてなブログでは、ちょっと文体とか文章とかその他諸々が違いすぎる気がして書けなかった。変なこだわりだ。
この本を読んで、アカウントだけあったnoteの存在を思い出し、今書いている。たぶん眠い時に書くことが多くなるだろうし、内容もあまり見直さない、ついったのひとりごとの延長のようなものになるだろう。ネガティブなことが多くなる気がする。ペースもしばらないからいつ書くかは適当だ。とか書くとたくさん書きそうな気もするけど本当にわからない。そんな感じで書いていきます。
とりあえずみなもとさんのアカウントはフォローして、誕生日が長女と一緒であることを知り、またドヤァとなった。
では、おやすみなさい。
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