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ループライン#14

【桜台駅】…………Nao Kobayashi(2)

   その騒ぎに気付いたのは、本のページを三分の二ほど読み進めた頃だった。我ながら随分集中していたらしい。目がシパシパする。少し休憩して目薬でも点そうかと顔を上げた時、窓の外で様子のおかしな人影を見たのだ。菜緒のいる図書室からは距離があるし、何より屋外。騒ぎといっても声が聞こえてきた訳ではない。ただ何となく不穏というか、険悪……とまではいかないまでも、常とは違う雰囲気をその一団に感じた。チラリと視線を走らせてみるが、周りの人間はそれぞれ本の世界に没頭しているらしく、誰も外の彼らには気付いていないようだ。

 ――まさかとは思うけど、事件……ではないわよね?

 一度意識してしまえばどうしても外が気に掛かり、菜緒は自前の栞を挟んで本を閉じた。
 貴重品だけを小さなバッグに入れて静かに図書室を出る。センターの昇降口脇には自動販売機がある。投入口にコインを飲み込ませながら、菜緒は例の一団がいた方へ目を向けた。瞬間、自動ドアの向こうの様子に目を剥く。

 ――え、う、嘘でしょ……!?

 折しも表では、現行犯な雰囲気がクライマックスだった。
 緩やかな弧を描くスロープの終着点。車止めのすぐ向こうの公道に彼らはいた。弱々しく抵抗する素振りの帽子の男性。その腕をどこか遠慮がちに、けれど逃がさないようにスーツの男が掴む。もう一人のスーツ男は見るからに高級そうな黒い車の後部ドアを開け、帽子の男性を車に乗るよう促している。左ハンドルのため菜緒からもよく見える運転席では、サングラスのやはりスーツを着た男がヘッドセットで何か話している。
 火事場の馬鹿力というやつは、視力にも適用されるのだろうか? 普段ならばそんなに見えるはずのない詳細な光景に、菜緒はクラリと眩暈を感じた。どうしよう。どうするべきか。さすがに見て見ぬふりなどもう出来ない。誘拐に拉致監禁――物語やニュースの中の縁遠いものだった言葉が、急激に現実味を帯びて頭の中を巡る。ここはまさにその現場だというのか。

 チャリンッ!

 突然硬質な金属音がして、菜緒は文字通り跳ね上がった。

 ――あ。

 そういえば自動販売機に小銭を入れたままだった。しばらくボタンを押さずにいたために、返却口にコインが戻ってきたらしい。そこで菜緒はハッとした。急いで再び小銭を入れて、適当に飲み物を選ぶ。ガタトン、と音を立てて出てきたロング缶を震える手で取り出した。キンキンに冷えた缶を一度強く握り締める。

 ――怖いけど……でも!

 キッと覚悟を決めた菜緒は自動ドアをくぐり、くだんの車の方へと思い切り、けれど目立たないように気をつけながら、その缶を転がした。
 運動の苦手な菜緒の渾身の一投は、あやまたず狙いのコースを転がり落ちていく。中身が入っているからかそんなに派手な音はしないが、重さがある分思ったよりスピードは出ている。すうっと小さく呼吸を一つ。菜緒はその缶を追いかけた。

「すみませーんっ!」

 ドキドキしていた割に声は出たと思う。
 緩い坂の下でもめていた三人が、揃って顔をこちらに向ける。帽子の男性は自らの窮状を忘れたかのようにキョトンとした表情で、他の二人は突然の乱入者にギョッとした顔をしている。

「その缶、拾って貰えませんかーっ」

 走るのに適さない華奢なサンダルに足をもつれさせながら、菜緒は短いスロープを小走りに下る。呆気に取られてまごつく男達の足元をあっという間に缶は通り過ぎた。一瞬ドアに手をかけていた方の男が足を伸ばそうとしたように見えたが、他人の飲み物を足蹴にすることが躊躇われたのか、その一瞬の隙に缶は通過してしまった。誘拐犯(仮)のくせに妙なところは良識的だ。
 数秒の後、ガコッと鈍い音が響いた。

「ああっ入っちゃった!」

 少しして彼らの元にたどり着いた菜緒は、身を屈めて車の下を覗き込んだ。右前のタイヤの裏側に当たって変に跳ね返ったのか、図ったように缶は車の真下辺りで動きを止めている。

「拾ってくださいって言ったのに……」

 緊張が悟られませんようにと心の中で祈りながら、少しだけ恨めしそうに彼らを見上げてみた。男達はバツが悪そうに顔を見合わせている。運転席の男だけが怪訝そうにこちらを見た。バツが悪いのは缶を止められなかったことか、それともマズイ現場を見られたことか。菜緒にとってはどうでもいいことだ。彼らの足元に膝を付いて、彼女は車の下に手を伸ばした。

「ん……届かないわ。ちょっとどいて頂けます?」
「え、あの……」
「うーん、やっぱり無理ね。あの、どなたか届きませんか? それとも何か棒みたいなものがあれば貸して欲しいんですけど」

 言いながら帽子の男性にチラリと目配せをする。『逃げるなら今でしょう!』と視線に込めるも、何を誤解したものか、真っ先に隣にしゃがみこんだのは今にも車に乗せられそうだった張本人だった。

「私が試してみましょうか」

 ――あなたは違うでしょう!?

 菜緒の心の叫びは届かない。仕立ての良さそうなズボンが汚れるのも構わずに、男性は車の下を覗き込んでしまう。ポカンとしていた男たちも次々しゃがみ込み、『あ、自分が……』などと言いながら地面に這いつくばった。その際『あつっ』と零したスーツ男の声に、夏の直射日光に照らされ続けたアスファルトの熱々フライパン具合を思い出した。必死過ぎて熱を感じていなかったらしい。自分でもビックリだ。

「駄目ですねえ。車を動かすしかなさそうです」

 帽子の男性は自分のことのように眉尻を下げ、しばし豊かな髭を撫でて考え込むと、おもむろに運転席の窓をノックした。ギョッとする。一体何を。

「申し訳ないのですが、車を少し前か後ろに移動させて頂けませんか? そっとですよ、そ~っと」
「は、はい。分かりました」

 ウィンドウを下げた運転席の男が了解し、ノロノロと車を前に出す。かくしてスポーツドリンクの缶は再び菜緒の手に戻ってきた。あちこち凹んで傷がついているし、ついさっきまでの冷たさは薄れてしまっていたけれど、菜緒が気になったのはそんなことではなく。

 ――あれ? なんだろうこの感じ。

 背中を、暑さのせいではない汗が一筋伝って落ちていくのが分かる。目の前には身体の前で軽く手を組んだ帽子の男性と、気後れしたように顔を見合わせるスーツ男達。

「今日のところはお帰りなさい。気勢を削がれたでしょう」
「は。……ですが」
「なあに、人助けをしていて予定を違えたとでも言えば問題ありませんよ」
「しかしですね」
「これに懲りたら、どうぞ次からはあまり強引な行いは慎んでくださいねえ」
「……申し訳ありません。また参ります」

 帽子の男性が穏やかに見送るピカピカの車(某スポーツメーカーのエンブレム、跳躍するピューマみたいな飾りが付いていた)が角を曲がって見えなくなると、彼はこちらに向き直った。

「助け舟、ありがとうございました」

 ――ええと、つまり、結局……

「どういうこと、だったんでしょう?」


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■2020.12.08 初出

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