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ループライン#11

【坂ノ下駅】…………Kei Tateno (4)

 あの日は、朝から今にも泣き出しそうな空模様だった。
 試合が行われるのか中止になるのかギリギリまで決まらなくて、小学六年生の自分は母親と共にジリジリしていた。結局催行されることになって、茎は近所に住んでいるチームメイトと乗り合いでこのグラウンドに向かったのだ。
 試合が始まって暫くして、雨がパラついてきた。

 ――ああ、降ってきちゃった。

 グラウンドのコンディションも時間とともにどんどん悪くなっていって、足を取られるメンバーも両チーム増えていた。そんな時。

『うわあっ!?』
『柴(しば)ちゃん!』
『けー君、後ろ!』

 運が悪かったと言えばそれまでだ。だけど。
 ボールから少し離れたところで、自分を含めた二、三人が固まっていた。パスを待って牽制し合っていたから、意識は自然とボールを持っている味方の方へ向かっていて反応が遅れてしまった。

『痛……っ』
『けー君!』
『大丈夫か? 柴ちゃんも』

 何がきっかけだったのかは分からない。チームメイトか敵の選手のどちらかが、ぬかるみに足を取られたようだった。気が付けば、団子になって転がっていた。もつれた二人の下敷きになったと言った方が正しいか。

『柴ちゃん、血が出てるよ! 監督ーっ!』

 チームメイトの柴山(しばやま)君の足を見たチームメイトが、血相を変えて監督を呼ぶ。柴山君もそこでようやく自分の出血に気付いたのか半泣きで。次第に周りが騒然となっていくのを、当事者の一人であるはずの茎はボンヤリ眺めていた。

 ――何かおかしい。

『柴山、……立野も、念のため病院行くぞ。お母さんが車出してくれるそうだから、とにかく移動しよう。今柴山の家にも連絡入れて貰ってるからな』

 一見何の外傷も痛がる素振りも無かった自分を、どうして監督は病院に連れて行ったのか、ずっと不思議だった。だけど結果的にはそれが茎にとっては最良の判断だった訳で、監督には感謝してもしきれない。
 柴山君の怪我は出血は多かったものの大したことはなく、消毒を終えてすぐ家に帰された。引き留められたのは茎の方で、診察の結果、打撲が酷く神経を痛めていたことを知った。おかしい、と違和感を覚えたのは、足の感覚がなかったからだったのだ。暫くは痛覚が麻痺していたから全然ピンと来なかった。腫れもなかったし。だけど病院から帰って、痛み止めが切れてきたその夜は満足に眠れなかった。
 痛みや時折襲う痺れが完全に無くなるまでには結構な時間が掛かり、茎はチームをやめた。
 サッカーが大好きだった。

 ――だから正直、精神面がかなりキツかった。

 揉めたりはしなかったけど、やっぱり楽しそうな姿を見るのが辛くてチームメイト達と疎遠になっていったり。好きなことが出来ないことでストレスが溜まったり。更にそれからすぐ中学に上がり思春期に突入したことも相まって、家族には随分心配をかけたと思う。

「――もしもし、大丈夫ですか?」

 そこでふっと意識が現実に引き戻された。 慌てて顔を上げると、例の男性が気遣わしげに覗き込んでいる。

「あ、っと……大丈夫です。すみません、ボーッとして」

 顔が熱くなる。

 ――恥っずかしい。すっかり自分の世界に!

「よかった、ご気分でも悪くなったのかと」
「全然問題ありません! それより、あの子達は――」
「子ども達も怪我はなかったようですよ。ほらご覧なさい、そろそろ試合再開です」
「そっかー……」

 大きく胸を撫で下ろした。無意識に強張っていたらしい身体からストンと力が抜ける。

「貴方のことを好青年だと言いましたが、本当にお優しいんですねえ」

 男性が笑みを深くして言う。面映ゆくて、茎は大げさに手を振って否定した。

「いえいえっ、普通ですよ、普通!」

 褒められるのはもちろん嬉しいけれど、こうも手放しに絶賛されると尻の座りが悪くなる小市民である。

「……昔、同じようなシチュエーションで怪我したことがあるんです。それが結構堪えたんで、あいつらに同じような思いはして欲しくないなって……そんなもんですよ」
「――そうでしたか」
「やっぱり好きなことを思いっきり出来るって、幸せなことなんですよね」

 そして、好きなことがあるというのがまず幸せなのだ。
 茎は照れ笑いをしながら男性に目配せした。彼の手に握られたままの鉛筆。日差しを照らし返すスケッチブックは、それ自体が光っているようだ。茎はその明るさに目を細めた。鼻先をくすぐるのは少し湿った風の匂い。

 ――今でも時折思い出すあの雨の日。

 我ながら謎だった。痛みの記憶はとっくのとうに薄れているのに、どうして何年経っても思い出すのか。
 その答えが今日、何となく解った気がした。

 ――忘れることは逃げることだって……

 そう、心のどこかで思っていたのかもしれない。
 続けることも出来たけれど、ブランクが悔しくてサッカーから離れた。そして別の趣味を見つけた。それをどうして後ろめたく感じたんだろう? 好きなことが増えるのは、ちっとも恥ずかしくなんて――ましてや悪くなんてないのに。

「サッカー、ずっと変わらず好きですけど、同じくらい好きなことを他にも見つけまして。今では両方楽しんでますよ」

 言葉にすればより実感出来た気がする。思わず胸を押さえた茎の耳に、再びスケッチブックに鉛筆を走らせ始めた男性の声が歌うように響いた。

「世界は広がる。貴方が望めば。――若いとは、素晴らしいことですなあ」

 機嫌よさそうに鉛筆が揺れる。
 広い広い世界のほんの一部を、あっという間に過ぎ去っていく今という時を、彼はスケッチブックに描き留めているんだろうか。
 高らかにホイッスルが鳴った。パッと弾けた子ども達の笑顔に、あの頃のチームメイトの笑顔が重なる。

 ――あー、今無性にあいつらに会いたいかも。

 そろそろバイトに向かう時間だ。シフトを終えたら、久しぶりに元チームメイト達に連絡を取ってみようか。傍らに無造作に置いていたバッグからスマートフォンを取り出す。少し先までの予定を頭の中で確認しながら、茎は小さく微笑んだ。何だか、とっても楽しみだ。
 集まる時には手作りスイーツを手土産に。甘いものを皆でつまみながら、近況報告や懐かしい話を沢山するんだ。
 そう、世界はどこまでも広がり、そして何度でも繋がる。

 ――僕が、望めば。




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■2020.11.17 初出

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