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ループライン#13

【桜台駅】…………Nao Kobayashi(1)

 そういえば、と意識した途端、菜緒(なお)の耳に蝉の声が戻ってきた。

「あっつい……」

 音だけで暑い。げんなりしてしまう。
 一生懸命日陰を選んで歩いても、足元からムワリと立ち上る熱気からは逃れられず、菜緒は溜息を吐いた。

 ――昔からこうだったかしら?

 この炎天下。舗装された地面近くは気温が五度くらいは高くなるそうだ。子どもの熱中症への注意喚起をしょっちゅう見かける。普通に歩いている大人でも油断できないのだ。小さい子や、ペットの散歩なども気をつけてあげないと、確かにひとたまりもないだろう。トートバッグから取り出したハンドタオルでパタパタ顔を扇ぎながら、菜緒は通い慣れた道を歩いた。

 ジーワジーワジー……

 存在を思い出された蝉達が一層高揚したように騒ぎ立てるから、急かされる思いで目的地へ向かう。
 自宅マンションからモノレールでひと駅。そこに、地域の交流センターがある。どちらかというと小さな子どもの為の施設といった感じだけれど、ささやかながら図書室が併設されているのは見過ごせない。散歩のついでに寄るのにピッタリで、この街に引っ越してきて以来重宝している。

 ささやかな林の脇道を歩きながら、開けた反対側に目を向ける。そこにあるのはついこの間夏祭りが行われた公園。あまりの暑さに人も少ない。並ぶ屋台や浴衣の人々で溢れていたあの夜の賑わいが嘘のように閑散としている。
 緩やかなスロープを登り、見えてきたのは灰色がかった建物だ。奥に見える丸みを帯びた屋根は、一見するとプラネタリウムのようにも見えるけれど、実際はガラスの丸天井を持つプレイルームなのである。

 ――なんていうか、無駄におしゃれよね。

 そんなに建築に興味のない菜緒でも、そのデザイン性は心惹かれるものがあった。外からただ眺めるだけでなく実際中に入ったことがある人なら、きっと魅せられる気持ちに共感してくれるだろうと思う。
 外からプラネタリウムのように見えた屋根は、中から見上げると温室のよう。実際そういう建築意図もあるのか、頼りない冷房では太刀打ち出来ないらしく、プレイルームの空気は生ぬるい。冬ならいいけれど、ちょっとこれは。

 ――まあ、それでも外よりはマシだけど。

 新学期が始まったばかりの今日は、さすがに跳ね回る子どもの姿はほぼ見えない。古いアップライトのピアノに母親と並んで向き合っている女の子、そして簡易ボールプールの小さなテントでじゃれあう男の子二人……このくらいだ。みんな就学前の幼児だろう。

 プレイルームを覗き込んでいた頭を引っ込めて、菜緒は通路の奥にある図書室へ向かった。こちらにはガラス天井はないので、さっきよりも比較的室内が冷えていた。市の図書館と比べれば笑ってしまうほど蔵書量は少ないが、それでも全て読み尽くそうと思ったらそれなりの覚悟が必要だろう。プレイルームで読み聞かせ出来る、使い込まれた紙芝居も置いてあるのが何だかほっこりする。

「さて、と……」

 読みさしだったシリーズの文庫本が並ぶ棚の前で、菜緒は屈み込んだ。この前来た時は何巻か抜けがあったが、今日は返却されていた。とりあえず、続きを二冊分。ここではあと一冊借りられる。どうしようか。

 ――他も一応見て回って、改めて決めようかしらね。

 キープした二冊だけを持って読書コーナーへ向かうと、先客の中には知った顔もあった。といっても名前すら知らない。たまにここで一緒になる、いわゆる常連同士という訳だ。
 今日来室していたのはシルバーグレーの髪を上品にまとめたおばあさんだった。こちらの視線を感じたのかふっと顔を上げた彼女と目が合って、菜緒ははにかみながら会釈する。老婦人は目を細めて笑い、やはり会釈を返してくれた。

 ――ああ、落ち着くわ。

 空いている椅子に座った菜緒は、すぐには本を開かず目を閉じた。
 聞こえるのは本をめくる小さな音。微かな咳払いだったり衣擦れの音だったり。司書さんが作業する貸出バーコードの音にパソコンのキーボードを叩く音、プレイルームから少しだけ響いてくる子ども達の声……。時間も空間も日常と違うような感覚に陥る。この感覚が堪らなく好きだ。

 菜緒は昔から一人でいるのが苦にならないタイプだった。小さい頃からずっとそうで、休み時間はほとんど読書に費やしていた。幸運にも同じクラスにいつも似たようなタイプの子がいたから、修学旅行やイベント事で孤立することもなかった。恵まれた環境だったのだと知ったのは、この歳になってから。
 仕事関係で出会った人と結婚して、よく相談した上で家庭に入ることを決めた。二ヶ月ほど前に越してきた新居のマンションは割と築浅の物件で、入居者――特に奥さん方の年齢層は菜緒よりも少し上で固まっていた。ご近所付き合いも密なコミュニティで、菜緒自身も何度かお茶会に誘われたことがある。

 その時初めて、“浮く”という感覚を味わったのだ。

 別に意地悪をされた訳ではない。むしろ気遣って貰ったのに、言葉で上手く表せない違和感を自分も彼女達も感じていたように思う。申し訳なかったし、居た堪れなかった。

 ――うちは子ども、まだいないしね。

 奥様会のトークの中心は子どもの話題であることがほとんどで、他には旦那の愚痴混じりの惚気か他愛ない噂話くらい。環境が悪ければご近所の悪口なんかもあるのだろうが、幸い同じマンションの住人達はみんな気の良い人ばかりのようだった。
 だからこそ余計に、子育てで大変なママさん達の息抜きを邪魔したくなかった。今ではお互いに適度な距離を置いて付き合っている。

 ――でも、このままでいいのかしら。

 学生の時はそれでもよかった。兄弟姉妹もいない菜緒としては、どう見られようと個人の問題だったから。だけど今は“小林さんちの奥さん”なのだ。ただの菜緒、だった今までとは違う。

 ――話、聞いて欲しいけど……礼(れい)くん今大変みたいだしなあ。

 夫である礼はとても優しい人だ。それだけに、公私問わず自分を抑えて頑張り過ぎる面がある。きっと菜緒が話せば、疲れていても嫌な顔せず聞いてくれることだろう。最近心なしか目の下の影を濃くした彼の顔を瞼の裏に思い浮かべて、菜緒はゆっくりと目を開けた。

 ――余計な心配はさせたくない。

 細々とした懸念を少しの間忘れようと、菜緒は文庫本の表紙をめくった。

 


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■2020.12.01 初出

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