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ループライン#15

【桜台駅】…………Nao Kobayashi(3)

 パチパチとしきりに瞬きを繰り返す菜緒を、男性は再びセンターへと誘った。段々と戻ってきた暑さにどっと疲労感を覚える。ほとんどが精神的な疲れだろうけれど。スロープをゆるりと登りながら、菜緒は項垂れた。

「私、てっきりあの人達があなたを連れ去ろうとしているんだと思って……」
「間違いではありませんよ。彼らは知人の使いで私を迎えに来たのですが、その招待は私の望むところではありませんでしたから」
「お知り合いの……すみません!」

 ブンッ! と風を切る音が聞こえそうな勢いで頭を下げた菜緒を見つめたまま、男性は柔和な笑顔で肩をすくめた。

「謝ることなど何もありません。私はとっても助かりました」
「でも、余計な横槍を入れてしまいました。角が立ちませんか?」
「人助けで角が立つものですか」

 自動ドアが開く。屋内に入ってやっと体の強張りが解けた気がする。菜緒がぼうっとしていると、男性は先ほど菜緒が向かい合っていた自動販売機に歩み寄り、飲み物を二つ購入した。一つを菜緒に差し出してくる。スポーツドリンクのロング缶。

「そちらは、もう飲む気にはなれないでしょう」

 おかしそうに男性が言う。視線の先には菜緒がまだ握り締めたままだった同じ缶――ただしボコボコの。

「あ……待ってください、いまお金……」

 小銭入れを取り出そうとした手をやんわり止められた。

「お礼です。このくらいは、させてください」

 菜緒は恐縮して頭を下げた。いつもならば食い下がるところだが、あいにくと返せる小銭の持ち合わせがもうない上、お札は諭吉さんしか財布に入れてこなかったのを思い出したからだ。かえって迷惑になる。
 談話スペースに並んで座り、プルトップを引いた。冷たい液体が喉を伝って食道を流れ落ちていくのがよく分かる。どうやら自分は相当渇いていたようだ。

……それも当然だろう。

 よくもまあ、あんな大胆な行動が起こせたものだ。落ち着いて思い返せばあまりに滑稽な手段。自分のとんだ勘違いも相まって、菜緒はついつい笑いの発作に襲われた。

「ああもう私ったら、どうしてあんなことしたのかしら! 他にもっと方法はあったでしょうに」
「素晴らしいコントロールでしたねえ」

 男性もニコニコと楽しそうなので、余計に愉快な気持ちになる。

「私、小さい頃からずっと運動は苦手だったんですよ。ドッヂボールもソフトボール投げも大嫌いだったし、ボウリングなんてガーターの嵐。なのにまさかこの歳になってコントロールを褒められるなんて!」

 収まらない笑いで声が震える。目には涙まで浮かんできた。こんなにお腹の底から笑い転げるのは一体いつぶりだろう? 日々それなりに楽しいことはあるけれど、結婚して新しい環境に慣れるのに必死だったから、“小林菜緒”になってからは初めてのことかもしれない。

「ご、ごめんなさい、私、こんなに笑っ……ふふふっ」

 初対面の人を相手に恥ずかしい。でも止まらない。人差し指で涙をぬぐいながら何とか詫びると、男性はどこか芝居がかった動作で鷹揚に頷きながら言った。

「気にすることはありません。沢山笑うとよろしいでしょう。そういう健康法もあるくらいです。それに」

 ウィンクを一つ。

「貴女の笑い声は心地がいい」

 その一言が、やけに胸を打った。

 笑いのせいではない涙で瞼が熱くなって、菜緒は小さな斜めがけバッグに財布と共に入れ替えてきていたハンドタオルを慌てて目元に当てた。唇は弧を描いたまま。
 大きく息を吸い込むと、笑いすぎた喉が鈍く痛んだ。ほっぺたも痛いし腹筋も痛い。けれどそれはどこか幸せな痛みだった。
 言葉は、いつの間にかまろび出ていた。

「少しだけ、聞いて頂けますか?」

 今では一番近しい人であるはずの夫にも遠慮して飲み込んでいた言葉。それがごく自然に言えたことに不思議と疑問は抱かなかった。男性も、さも当然というように首肯した。

「私、人付き合いが苦手なんです。人が苦手なんじゃなくて……むしろ好きだから」

 男性は口を挟む気はないようで、仕草だけで相槌を打ってくれた。

「さっき言った通り、私は昔から運動が苦手で、ずっと一人で本を読んでいるような子だったんです。環境に恵まれたおかげで、小中高とずっとそうしてこられた。大学では半分以上が選択授業ですから、四六時中同じ顔ぶれで過ごすこともないですし」

 言葉にすると改めて実感する。自分が恵まれていたこと。

「ずっと自分のペースを守ってこられた。でも、最近になって、いざそれだけじゃダメだって場面になって……愕然としました。上手に人とテンポが合わせられないんです」

 目に当てたままのハンドタオルを、ギュッと握る。

「聞き様によっては、何て自分本意な奴なんだって思われるかもしれません。実際そうなのかもしれません。でも、でも私、みんなのテンポに追いつけないんです」

 長い間、家族をはじめとした理解者と、本と、自分の世界に浸ってきたからだろうか。それとも生まれつき? 自分のテンポは人より遅い。伝える言葉を選ぶのも、相手の話を咀嚼して適切な返しをするのにも、一々人より時間がかかるらしい。今まで自覚がなかっただけに、それを理解した時の衝撃は大きかった。合わせたくとも出来ない焦りというのは、とても怖いものだった。

「一対一ならまだしも、対大勢になるともう、ニコニコ聞いてるだけしか出来なくて。私はいいんです。話を聞くのは好きだから。でも、それだと付き合いの浅い相手には愛想笑いに見えたり、気を遣わせてしまうから……何とか言葉を返そうとするんです。でも無理に話せば空回るばかりで」

 奥様会での違和感は、まさにそれなのだと思う。

「私、辛くて……」

 ヒクッと肩が震えた。
 今日会ったばかりの名前も知らない相手に、何を切々と訴えているのだと自分を諌める自分がいる。けれど何故だかちゃんと届いている、届いた上で受け入れられている確信があった。

 ――礼くんに、出会った時みたい。

 言葉を探しながら、たどたどしく話す自分。相槌は数えるほど。それでも伝わっている実感。こんな風に聞き上手になれたらな、と思ったのが始まり。憧れ、尊敬し、彼に好意を持ったのだ。

「貴女は」

 静かに男性が口を開いた。

「貴女は優しい方ですね」

 思わずハンドタオルから顔を上げる。熱くなった目には、室内の生温い風さえヒヤリと感じられた。

「そして貴女が心を痛める相手の方達も、きっととても優しいのでしょう。私には、その様に聞こえました」

 菜緒はコクコク頷いた。

「仲良くなりたいと、望んでいらっしゃるんですねえ」

 そう、だから辛いのだ。歯がゆいし、自分が情けない。
 まだ半分以上中身の入ったスポーツドリンクの缶を、菜緒は溜息と共に目元に当てた。今の自分にはまだ充分に冷たい。気持ちいい。

「貴女は自分に合った方法を、もう知っていらっしゃる」

 チャプン、と缶の中身が鳴った。

「緊張は、相手に伝わります。人間も動物の一種だということなのでしょうか」

 謳うように彼は言う。心から安らいだ声音で。

「大丈夫。出来ますよ――さっき缶を転がしたようにね」

 収まっていた笑いの発作がぶり返して、菜緒はまたもや泣き笑いするハメになった。



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■2020.12.15 初出

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