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ダブリンの鐘つきカビ人間

 「いい、すっごくいい」「観て」
 興味のある演目ではあったものの、諸事情で観劇を諦めていたので、観劇予定だという友人の妹に感想のシェアを依頼した結果、友人が観劇、その友人から熱烈なレコメンドを受けて観劇となった。

【ストーリー】
とある山中。中世のアイルランドを思わせる不思議な土地、そして音楽…。
旅行中の聡と真奈美は霧のために立ち往生し、ある老人の住む洋館に一夜の宿を求めた。
問わず語りに老人が語る昔話に、だんだんと心を奪われていく。

むかしむかし。
この土地を不思議な病が襲ったときのこと。
病の症状は人によって違っていた。指に鳥が止まってしまう病。天使の羽が生えてしまう病…。
そんな中でも、最も不幸な病に冒されたのが、心と体が入れ替わり、心は水晶のように美しく、しかし誰も近づきたがらない醜い容姿となったカビ人間。
カビ人間は、その容姿から村人たちに疎まれ、ただ一人で鐘を撞いている。
そんなカビ人間とある日、出会ってしまったのが、思っていることの反対の言葉しか話せなくなった娘・おさえ。最初はカビ人間におびえていたおさえだが、その美しい心に触れて、徐々に彼に心を開いていく。
しかし心惹かれれば惹かれるほどに、おさえの口から出るのはカビ人間への罵倒の言葉。
やがてその言葉が、カビ人間を窮地に追い詰めていく…。

一方聡と真奈美は、老人の話に夢中になっている間に、気がつくとこの不思議な世界の中に入り込んでいた。
そして、病を治すのは伝説の剣・ポーグマホーンであることを親衛隊長から教えてもらった真奈美はしり込みする聡を引っ張って剣を探す旅に出る。
その頃、おさえの罵倒の言葉を信じ込んだ村人たちによって、追い詰められていくカビ人間。
ポーグマホーンと不思議な歌、そして鐘の音が重なった時、悲しくも美しく、残酷な奇跡が起きる…!

出典:公演ホームページ

 人間社会における普遍的なテーマがファンタジーの形に落とし込まれており、ミュージカルという上演フォーマットを選択したい気持ちがよくわかる作品だった。
 友人が劇団四季の子供向けミュージカルにありそうと言ったのが良くわかる(実際結末の変更をすればできそうだ)。
 設定には様々な童話や寓話が用いられており、ともすれば説教臭さを感じてしまうものをコミカルに実にうまくまとめている。

 ポップな衣装は遠目にも映え、奇病にかかった人たちが愛らしい。病気になったことは辛いが悪いことばかりではないとの彼らの歌に説得力が増す。
 舞台セットの高さは国際フォーラムの空間をよく活かしており、特にセンターの階段と照明が次々に表現を変えるところも舞台の醍醐味を存分に伝えるという意味でも、ブラッシュアップにより演劇やミュージカルの敷居を下げることのできる作品だと感じた。

 ミュージカル向きの物語である一方、演出家にとってストプレとしての作品の印象が強すぎて、枷に囚われてしまった作品のように見えた。
 ストプレ版の演出家の方向性が私はあまり得意ではない為、観劇を回避しているのだが、未見であるも関わらず、ストプレであった時にどのような構成であったかが容易に想像できる作品だ。
 もっと言葉を選ばなければ、追加されたであろう要素がみえてしまっていた。

 ミュージカルとして成立しているのだが、ミュージカルがこの物語を表現するにあたりベストなフォーマットであるのかということはどうしても考えざるを得なかった。
 ストプレに対する敬意が印象的なシーンや演出に手を加えることを回避させたように思えるシーンが散見され、その点を勿体ないと感じてしまったのだ。
 もっと言うならば、ストプレとしての完成度が高すぎるが故に、ミュージカルというフォーマットへの変更が思った以上に困難であり。結果、手を入れられなかったとの印象を得た。

 物語の構成は二重三重に深読みができるような多層構造になっており、ストプレにおけるダークファンタジーのお手本のような物語だと感じた。

 私自身が良くも悪くも鉛を呑んだような物語が好きなので、大本のストプレは知らないながらに、ストプレではもう少し色濃く出るであろう全編を通じた退廃的な空気や「重さ」といったものがミュージカルというフォーマット選択によってそがれたとの印象を持つ。
 最早これは私の言葉の捉え方の問題かもしれないが、ダークファンタジーというほどのダークさを感じられなかったということかもしれない。
 市長にかけられた呪いが物語の早い段階で示唆されていたが、ミュージカルというフォーマット、そしてケルト音楽の軽やかさ、それ以上にポップな衣装がファンタジー色を強めており。幕切れに集約されたダークな部分がコントラストとして負けてしまったように思われる。

 なお、チケットを取る際に友人と国際フォーラムの照明機構の弱さ、発色の弱さについて会話していたのだが、本作においてもやはり白んだ感覚は強くあった。元が「ホール」であるので、期待をすべきところではないのだろうが、これだけ演劇利用も多いホールではもう一段いい照明が欲しいところであり、改修に期待したいところである。

 登場人物の内面吐露が音楽に委ねられているわけではないこともあり、ミュージカルというよりは音楽劇のようであった。
 一方、音楽劇としてみると聊かの物足りなさもある。
 1幕におけるケルト音楽の使い方が秀逸であるが故に、物語の局面が変わった2幕ケルト色が失われ、ケルト楽器を使った普通の音楽になったところについて言語化できないものを感じている自分がいる。

 音楽劇的だと感じた理由のひとつはリプライズの単調さ、すなわち転調のない形でのリプライズというのがありそうだ。
 ケルティックのチューンやターンはミュージカル音楽に向いていそうなのに採用されない理由というのをしばしば考えていたが、音階的に転調が難しく結果として楽曲の根幹が揺らぐのではないかとの仮説に行き着いている。

 友人からのレコメンドのひとつが「七五調」のセリフにあった。
 台詞だけではなく、病気の者たちが自己紹介をする歌などにはその要素がふんだんに盛り込まれており、ラップのようにも聞こえる。セリフ劇としてのテンポの良さがミュージカルによって失われている箇所を勿体なく感じてしまった。
 ただ、このミュージカルに書き下ろされた楽曲たちが実に魅力的である。
 特にカビ人間とおさえのデュエット、そして、ラストシーンの四重唱は本当に素晴らしく、世界の浄化と物語の昇華を担っており。
 それだけに再演(があると信じたい)で台詞と歌唱のバランスの調整を期待したいところだ。

 物語の主人公、カビ人間は過去の悪行により街のみんなから嫌われているが、本人は記憶を失っており、自分がなぜ嫌われているかを理解していない。
 彼は物語において知力のない者ではあるが善良な人間として描かれており、因果応報の色がなく、そこにあるのは弱者差別だ。無視というシンプルな虐めに頭を抱えたくなる。
 徹底的に彼を「可哀そうな人間」として描写することによる効果については私の中でまだ整理がついていない。彼の過去の悪行を知り彼を忌避する街の人間たちを観客からの非難の対象としないことで、必要以上にカビ人間に対する可哀そうという感情を観客に抱かせることの意味を未だに考えている。

 思ったことと裏腹なことを口にしてしまう病に侵された少女・おさえが物語のかじ取りを担っているが、この少女の「嘘」が悲劇を生み出す。
 おさえの言動が一致しない演技は面白い。
 カビ人間が彼女の病を理解したうえで会話・歌唱する2幕は特にその言葉の面白みを感じさせられる。ふたりの心が通じていく過程でちぐはぐな演技から伝わる甘酸っぱさに思わず頬が緩んでしまう。
 だが、おさえの言葉にできないもどかしさを微笑ましく見ていられるのも途中までだ。

 カビ人間が放火犯に仕立て上げられ、街の人間たちに追われる中。
 おさえがカビ人間を群衆から遠ざけようと必死の説得を試みる。彼女が必死になればなるほど、その言葉はちぐはぐなものとなっていく。
 そんなおさえの否定の演技を、台詞をー笑っている観客という構造がとても怖くなった。
 おさえ中心に物語を観ていたからか、はたまた私が座した席が1階後方のセンターに近く、物語を俯瞰できる位置にあったからであったかもしれないが。彼女の言葉を笑う観客がダブリンの群衆のようで。
 底冷えのする怖さを感じずにはいられなかった。

 カビ人間・七五三掛龍也の役作りは徹底的に観客の懐に入るー観客の同情心をひくものだった。記憶を失っているだけではなく、少し頭が足りないといった風情の七五三掛さんのカビ人間は控えめに困惑した笑みを常に浮かべており、その微笑がひたすらに哀れさを誘う。
 聡・吉澤閑也は初舞台。主体的に何かをするタイプとは言い難い聡は良くも悪くも特徴を出しづらく、吉澤さんは稽古したことを実直にアウトプットしていた。

 「濃い」キャラクターが多く、どれだけでも枠を逸脱する演技が可能になってしまう舞台にしっかりとくさびを打っていたのはふたりのヒロイン、おさえ・伊原六花と真奈美・加藤梨里香だった。
 これまで伊原さんの芝居は比較的小さな箱でしか観たことがなかったのだが、箱に合わせて感情をコントロールすること、また「綺麗に動くことができる」人が芝居としてみせる「汚さ」に関心しきりだった。
 加藤さんの元気はつらつとした役は元々当たり役だが、今回は舞台経験のない吉澤さんを役の性格を上手く利用して歌に芝居にガイドしてったところが圧巻だった。役として生きるのに必死で突っ走り気味との印象が強かった加藤さんが手に入れた俯瞰力に次の舞台が楽しみになっている。

 強烈なインパクトのある役が並ぶ本作だが、キーパーソンという意味では戦士・入野自由と親衛隊長・小松利昌の空気の読み方、間の取り方が絶妙だった。入野さん・小松さんともに「猪突猛進」で、それが結果としてコミカルであることが求められる役どころが難しいが、どこまでが自分のターンであるかの線引きを綺麗にしているのでこのふたりがいると場面が締まる。
 男女混合の殺陣はどうしても女性が弱くなってしまいがちなのだが、入野さんは加藤さんの身体能力に合わせて(と言っても、加藤さんは力=Powerがないだけで、俊敏な動きでガンガンと殺陣をこなしている)体を動かしているので、場面としての緊迫感が出ているところが流石。
 口が回らぬほどの早い台詞で立てかけながら、次の瞬間には「馬」を演じている小松さんの「変わり身の早さ」は見ていてこれも笑わずにはいられない。カビ人間とおさえの会話を聞いてしまうところなど、陰で対応すべき芝居の加減がとても良いのだ。
 余談だが、聡と「中村さん」のバトルはとても楽しいシーンであったが、真奈美と戦士の戦いにフォーカスさせなくてはいけないところで舞台の別階層を使用してまで観客の目線を散漫にさせる必要があったのかということを考えざるを得ない。
 もし、聡が吉澤さんでなかったならば、このシーンはなかったのではないだろうか。ファンサービスのためのシーンによってわき道にそれた演出については私ははっきりとNOという。
 なお、もし聡と「中村さん」のバトルを組み込むのであれば、盆を回しながら要所要所で彼らのバトルが見えるようにするなら成立するだろう。このシーンの主軸はあくまでも真奈美と戦士が剣を交えて互いを理解するところにフォーカスされなくては物語が弛緩してしまうからだ。

 天使・竹内將人は天使とは言い難い歪んだ人間の卑しさを演じる。その性格とは裏腹に竹内さんのクリアな歌声が街中に噂を広げていく不気味さときたらない。彼の歌唱力を持ってしては勿体無い役ではあるが、確かにはまり役である。

 おさえの父・中村梅雀は何をしても上手い人だが、演技が過剰になりやすいタイプの脚本の中で自然な芝居を淡々と無理なくこなすところがとてもよかった。彼のファンとしてはよもや舞台においてベースを弾くところを見られるとは思わなかったが、前述の通り冗長になる一因を作ってしまっていた点は残念である。

 神父・コング桑田と市長・松尾貴史はもっとも「想像通りの遣われ方をした」との印象である。コングさんのパンチのある歌唱は国際フォーラムの箱のサイズに必要であったし、松尾さんの得体のしれない感じも「らし」かった。
 個人的に松尾さんの「いかにも何かありそう」というのは見慣れているところもあるので聊かの意外性が欲しかったという気持ちがある。

 物語としての丁寧な描写を心掛けたことは理解するものの、3時間に迫る上演時間には驚いたし、物語の濃度・密度とのバランスで、全体的に冗長さを感じてしまった。特に、カビ人間とおさえが出会うまでが間延びしているとの印象はぬぐえなかった。
 ウォーリー作品としては必要以上のプロジェクションマッピングが使用されていなかったが、それでも過剰に感ずるところはあった。特にカビ人間の過去を語るところはカビ人間と街の人たちを関係性を見せる重要シーンだと思うのだがポップになりすぎて断裂の色が薄くなったところが残念である。
 登場人物や歌詞がプロジェクションマッピングで表示されるが、登場人物については真正面に座っていなければほとんど読めないという点で、歌詞については文字にされることで集中力がそがれるという点で、それぞれ不要であったかなと感じた。
 ウォーリーさんは舞台に出ている人のファンに寄りそう演出が多いとの印象がある。今回はネームバリューはあるも出番があまり多くない吉澤さんへの配慮が随所に見られた。役として生きることでしっかりと印象に残る役なので、安易に出番を増やす細工は不要だと感じている。


 ストプレとミュージカルは楽しみ方も物語の作り方も違うので、これだけの魅力的な脚本をもっと大胆にミュージカルに落とし込んで欲しかったと思う。流麗な台詞の心地よさと音楽の魅力が共存する道はまだまだある。
 素材はすべてそろっているので、ぜひブラッシュアップ版を期待したい。

 謎の奇病にロックダウンされた街ー
 顔の見えない情報発信ツールの発展した今の世で、すさまじい勢いで拡散されていく「嘘」に尾ひれがついていく過程ー
 四半世紀前に書かれた戯曲は今の世の中に「宛書」されたもののようだ。
 ファンタジーであるからこそ持ちえた圧倒的な普遍性が軽やかに突き付けてくる現実と対峙することを我々は求められている。

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