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Daddy Dear - Daddy Long Legs 2022

 ジョン・ケアードのことが好きだ。
 何故そんなにも彼のプロダクションが自分の心をとらえるのか、ずっと思案しているが最終的に分解しきれずに終わるのが常だ。
 仕方がない。
 映画でしかミュージカルを見たことのなかった私に劇場でミュージカルを見せてくれた人こそがジョン・ケアード、その人であり。
 ひな鳥が初めて見た成鳥を親だと信じるが如く、演劇作品のベースを作ってくれた親がジョンなのである。

 今回、感想をnoteに記すことは避けようと思っていた。
 この作品については音楽的な魅力を説明したり、素敵なセリフに込められた相関性を詳らかにすることは「幸せの秘密」を紐解いていない人に対して勿体がないとも思うし。
 また、真綾ジルーシャを知る者としては、感想を書くに際しどうしても対比表現を用いなければ書けなくなるということが分かっていたからである。

 だが観劇を終え、それぞれのプロダクションを観て。
 ひとつの作品でひとりの演者が変わったことで起きたことをきちんと書き残しておきたいと思うようになった。
 よって、ふたりをあえて対比させつつ、以後の文章を記したい。

 先に記載しておこう。
 私はふたりのジルーシャとそのジルーシャに対峙したひとりのジャーヴィスに対し、それぞれに演劇やミュージカルの面白みを感じている。
 「どちらがいい」といった優劣をつけるような感想は持っていない。
 その点、悪しからず。

 ジルーシャの代打が萌音さんだと聞いたとき。井上さんが続投という条件の中、考え得る限りベストな役者がキャスティングされたと思った。
 日本でダディ・ロング・レッグズが上演されてから10周年。井上さんが自身の代名詞ともいえる作品に出ないということは考えられなかったし、ハードな歌唱に耐える喉と体力。
 なにより、複雑な背景を持つ少女が自立した女性にひとり立ちしていくまでを的確に表現できる演技力のある人など、そうそういないのだ。
 だが、不安がなかったと言えば噓になる。

 年の離れた者同士の恋愛を否定はしない。ただ、どこか犯罪的なニュアンスを感じてしまうことは日常においてもあることだろう。
 「あしながおじさん」は日本人にとって身近な物語であるが、100年以上前の話と頭で理解していても、歳の差のあるふたりの結末に「そういったもの」や違和感を感じる人は相応にいる。

 舞台では嘘が許される。
 人間の想像力に立脚した空間だからこそ許容される嘘がたくさんあるのだ。年老いた者が子供を演じることも、またその逆も。

 過去の公演において、彼らが生きた時代の100年後を生きる我々が物語を違和感なく没入できたのには、ジルーシャとジャーヴィスという大きく年齢の離れたふたりを同級生(同世代)の坂本真綾と井上芳雄が絶妙なバランスで演じたことに無関係ではなかった。
 萌音さんの演技者としての実力に対し、一片の不安もなかった。キャスティングを聞いただけで彼女がどう演じるか想像ができたし、実際、思い描いたジルーシャが舞台上にはいた。
 ただ、自らの無意識の意識がどう影響するは、幕が上がるまで大いなる不安として残っていた。

 実年齢やキャリアはともかく、似たような背格好をした坂本真綾と上白石萌音。
 物語冒頭、ジルーシャが我が身について語り出す"一番年上のみなしご"。舞台に上がった瞬間から、ふたりのスタンスの違いが大きく表れた。
 ジルーシャととの距離の取り方、そしてジルーシャという少女の精神的成熟度だ。

 2020年の観劇記において、この歌について以下のように評している。

「哀れなジルーシャ…」
この歌の巧みさは「ジルーシャ」という自らの呼び方に現れている。
「哀れなのは私自身」と歌っているのだが、「哀れな私」とするのと「哀れなジルーシャ」とするのでは大きな違いがある。
自分を一人称ではなく三人称の名前で呼ぶことで、ジルーシャは自らが口ずさむ歌の主人公があたかも自分以外の誰かであるかのように表現するのだ。
(略)
だが、彼女は孤児であったがために、あってないような選択肢しか自分には残されていないー与えられてすらいないことを痛いほど理解している。人生を達観し諦めている、それでもどこかで諦めきれない、大人になる直前の揺れる少女の心にぴったと嵌る表現だ。
余談だが、英語版では彼女は自身の事をフルネームで呼び、より一層その客観度が上がるように私は感じている。

Daddy Long Legs (2020) 観劇記より

 坂本真綾が演じたジルーシャはふたりのジルーシャで構成されている。
 現実を生きている実態としてのジルーシャ、そして、そんな自分を数歩ひいたところから傍観するもうひとりのジルーシャである。

 彼女は「諦め」という言葉を知っている。
 傍観者たる理性的なジルーシャは孤児であることで自分が活きる世界が狭められている現実を理解しており、人生を「豊かに」生きることを諦めている。そして、実態としての彼女も無自覚に諦めている。
 だが、孤児院という世間とは隔絶された特殊な環境下にあって、現実世界の厳しさを真に体験していない彼女は、最後のところで一片の諦めきれない思いを抱いている。
 現実を受け入れ、諦めたことにさえ無自覚な少女がどこか「他人事」として歌う「哀れなジルーシャ」というワンフレーズには自らの置かれた立場に対するある種の皮肉を感じる。
 皮肉と書いたが彼女に卑屈さや絶望感はない。そういった卑屈になるところさえ「許されなかったのであろう」少女のバックグラウンドに、観客は思いを馳せる。それは「孤児」という存在に対し潜在的に自分が抱いている思いそのものに近いのではないだろうか。
 観客はあくまでもジルーシャの傍観者であり無関係な第三者として坂本真綾が演じるジルーシャを見つめている。

 一方の上白石萌音のジルーシャ。
 気だるさを感じさせる彼女の歩き方には重さがある。ルールはいやいやながらに遵守しつつも、裏には反骨とまでは言い難い反発が潜んでいる。
 もし、音を立てて廊下を歩いたことを注意されたのなら。たっぷりと皮肉を込めた「はーい」という生返事をしつつ、つま先で歩くようなタイプだ。
 好奇心旺盛な少女の姿をしている萌音さんのジルーシャは上目遣いで大人を観て(観察して)いる。思ったことを隠すことできない素直さ、更にその裏に年相応の「幼さ」も見える。
 自分の人生の主役は自分であることを知っている彼女は「哀れなジルーシャ」というモノローグを、目の前に存在しないジルーシャの周囲にいる人間に向かって歌う。
 劇場空間においてはこれが観客に向かって歌われることになり、観客はジルーシャという少女の心の友となる。

 三人称でジルーシャを演じる傍観者たる坂本真綾。
 一人称でジルーシャを演じる当事者としての上白石萌音。
 また、クローズマインドの真綾ジルーシャとオープンマインドの萌音ジルーシャという観点でも語ることができよう。

 この構造こそが、井上芳雄という同じ俳優を相手としながらもまったく異なる作品として其々に成立した鍵になったと思っている。

 ジャーヴィスが語る通り、ジルーシャには頭がある。
 彼女の頭の良さというのは地頭の良さであり、そこに感性の鋭さが加わることで魅力的な言葉が綴られていく。
 作文でしか彼女を知らないジャーヴィスには知る由もないが、観客は真綾さんには「ウィット」を、萌音さんには「センス」を感じる。

 真綾さんは孤児院で得られるものは全て手に入れているように見え。動きにも余裕がある。理性的なジルーシャのすっと伸びた背筋、その先で虚空を滑らせる視線からは精神的な成熟を感じる。
 萌音さんは常に前のめり。彼女からこぼれる言葉は天性のもので、同時に感覚の鋭さを感じさせる。茶目っ気のある彼女は年相応の少女だ。

 ミスター・スミスの9か条に対する反応から彼に初めての手紙を書く姿に至る姿も対照的だ。

 己の身に起きた幸運がどこか他人事であり訝しがる真綾ジルーシャは、自分自身に才能があるとは思っていない。
 萌音さんは9か条のひとつひとつに疑問を持ちこそすれど自分の身に降りかかった幸運に対し、不信感に先立つ喜びの感情を抑えることができない。才能があるとの評価を素直に受け取り思わず破願してしまう。

 萌音ジルーシャは目の前にあるものに追われており、孤児院を卒業した後にまで思いを馳せるには至っていなかったのだろうということが推察できるし、ジョン・グリア・ホームを出ていくのにおさがりの服を勢いよく脱ぎ捨て、その勢いのまま大学へ向かう姿は無邪気で微笑ましい。

 真綾さんは正反対だ。
 孤児院を出て、どう生きて行こうかと思っていたところに降ってわいた話に喜びよりも先にある種の不信感や戸惑いが垣間見えた。いつものように着替え、ミスター・スミスから与えられた衣服を身に纏った自分を一瞥し。小さく息をついた彼女の姿に新しい人生へ踏み出す覚悟をみた。
 新たな世界に足を踏み入れるのに小さく覚悟をした彼女にー別れと旅立ちの間に揺れる年相応の「素」のジルーシャの姿が初めて垣間見える瞬間だ。

 「さぁ、頑張れ」
 真綾さんのジルーシャはそっと背中を押してあげたくなるし、萌音さんとは孤児院からの卒業を手を取り一緒に喜びたいとなる。

 ミスター・スミスへの「家族に宛てるような手紙」にもふたりの性格がはっきりと表れる。手紙の相手への距離の取り方をわからないのは同じ。
 だが、素直に想像しうる家族との関係にまで一気に距離を縮める萌音さんは好奇心のまま扉を叩かずに部屋を入るかのようだし、真綾さんはドアをノックし入室を促されてもそーっと扉を開けるかのようだ。だが、素のジルーシャがむくむくと疼きだし、好奇心の片鱗を覗かせる。

 さて、ふたりのジルーシャと相対した井上ジャーヴィス。
 本人も口にしているように、今回のジャーヴィスは以前にもまして、部屋の中でゆったりとしているように見えた。身の置き所はゆったりとしているが、身振り手振りはハッキリとしている。

 さらりと演じる真綾さんに対し、セリフのすべてに抑揚を付け、芝居っけのたっぷりにミスター・スミスへの手紙を読み上げる萌音ジルーシャは、観客に溢れんばかりの笑顔を向けて語りかける。
 そんなジルーシャと対峙する井上ジャーヴィス。台詞も自然と抑揚がはっきりとするし、歌詞に合わせ動く腕にも強い感情が乗っている。
 真綾ジルーシャとは手紙を通じての対話であった。だが、客席に正対することの多い萌音さんのジルーシャを前にすると、ジャーヴィスは歌唱にあたり観客と正対する時間が増える。
 二人にとっての手紙はあたかも客席で、観客の反応を通してコミュニケーションをとっているような錯覚さえ覚える。
 その結果、元々偏屈なきらいのあったジャーヴィスの「変人度」は正面切って歌唱されることにより高まったように思う。

 そして、ジョンが丁寧に物語を構築しなおしていたことに気が付いたのはジルーシャの手紙の一文だった。

 「ジルーシャ・アボットと知り合える機会ができたわ。
  私、彼女のことが好きになりそう。」

 萌音さんのジルーシャを観たとき。
 こんなセリフがあったかとー彼女はこれほどまでにポジティブな少女であっただろうかとー引っかかった。それが将にこのポイントだった。
 目の前にジルーシャ自身がいるかのように、そしてそんな自分を見て本当に彼女を好きになれるだろうー曇りのない声で萌音さんはこのセリフを口にする。
 真綾ジルーシャは「知り合える機会ができました」との「報告」であった。確証は持てないものの、好きになれそうな気がする。いや、好きになってあげたいという決意表明のようにすら聞こえた。彼女は口にすることで自分が思っていることを知り、理解しようとするタイプなのであろう。

 演者が変われば人物のキャラクターが変わり、同じセリフであっても異なる印象をもつは当然のこと。
 語尾の、たった3音。その小さな変化がふたりのジルーシャ、それぞれにとても「似合って」いるのだ。

 この小さな変化はこの後連綿と続いていく。
 ダディへの呼びかけ方、ジャーヴィスへの畳み掛けなどー

 そのおかげで、ジュリアの父親の先祖は「アダムとイブ」ではなく、更に遡り「エリートの猿」となったわけだが。
 ジルーシャが皮肉だけを詰め込んで書いたこの一文に、ジャーヴィスが斜に構えることなく心から笑う姿を見せるこのシーンは、2022年のジャーヴィス像が最もクリアに現れたシーンだと思う。

 そもそも、原作にあるジャーヴィスという人間は凡人たる私には理解し難いところが多い人物である。それがジョンの潤色によりちょっと変わったところのある不器用な人間として登場した。
 魅力的な人物として描写されるジャーヴィスの一部言動を愛おしいと思うことはあれど、理解するには程遠い人物であることには変わりはなかった。

 2022年のジャーヴィスが舞台上で初めてライトを浴び、表情を見せた時。
 ひとめで偏屈と分かる男性の表情に「この男のことを【私は】好きになれそうにない」瞬間的にそう思った。
 一段と偏屈になったジャーヴィスを私は果たしてどんな目で見るのだろうと心に浮かんだ。「嫌な奴」と思うのだろうかーそんな心配が彼の「素」の部分が見えたことで一瞬にして霧散した。
 この小さな変化により「偏屈に輪をかけ、変人度が増したおじさん」がジルーシャの手紙に翻弄されていく様を従前と変わらず愛おしい…いや生暖かい視線をもって、見守ることができるようになった。

 ただ、一瞬の彼の微笑に彼を受け入れることができたのは私自身が井上芳雄という役者を好きでその彼が零した「素」に近い笑顔だったからなのか。
 それとも「ばかで愚かで無分別で非現実的で間抜けで頑固な子供」のようなジャーヴィスがみせた「素」であったからなのか。
 そこについては未だ結論は出ていない。

 ジョンは、役と演じる役者が互いに歩み寄り、なんとなくその中間を目指すように演出を付けるという。
 前述の一瞬の微笑がジャーヴィスのものだったのか、演じる井上芳雄のものだったのかーそんなことを考えるのは彼の演出方針を知っているからかもしれない。

 そして、萌音さんのジルーシャは将にそんなジョン演出を感じさせるものだった。くるくるとよく変わる表情に確かな技術ー

 「ジルーシャって多分こんな女の子だったんだわ」

 そう思わせる要素が詰まっていた。
 萌音さんが演者として持つ一番の強みは、非現実を究極のリアリティまで引き上げる力、説得力だと思っている。
 それは「千と千尋」でも「ナイツ・テイル」でもそうであったように。
 稽古の段階でハイレベルのエグゼキューションを求め、それを安定的に舞台上でパフォーマンスすることを求める海外クリエイティブにとって得難い役者だと思う。
 そして、舞台上での彼女は、一見、「やりすぎ」に見える演技も自然な演技として観客に受け入れさせることができる。

 2020年の観劇において、私は自分でも信じがたいほど真綾ジルーシャへ感情移入をすることとなった。

 真綾ジルーシャの「さらり」とした演技ー井上さんが言う「シニカル」な役作りーはとにかく「さりげない」。どこまで行っても自然であった。
 観客は幕開きにおいて物語の傍観者としてジルーシャと対面することになるが、ウィットに富んだ言葉の数々に、彼女に興味を持たずにはいられなくなった。

 彼女のジルーシャにはひとめでわかる激しい感情の起伏はない。
 萌音ジルーシャは大人をよく観ている(観察している)と書いたが、真綾さんのそれには庇護者である大人の間で、大人の顔色を窺って生きてきた少女の生きる術が見える。
 彼女に卑屈さはない。ただ無意識の我慢や強がりが見えーどこか飄々とした自分を演じている。
 そんな彼女がミスター・スミスに手紙を出し、その返事がもらえないことにストレスを抱えていくのだが、無意識であるが故にその過程が見えることはない。
 扁桃腺炎で寝込み、初めて感情を爆発させるに至って初めて彼女が「普通の女の子」であることを観客は実感する。
 私が、ジルーシャの感情に支配され、傍観者の立場から孤児ジルーシャの視点で舞台を観るようになったのはこの病気のシーンからだった。

 そして、2022年の萌音ジルーシャは出てきた瞬間から大きな瞳がきょろきょろと動き、目まぐるしく表情が変わる。彼女自身の若さ、そして物怖じせずにはっきりとものを言えるキャラクターが垣間見える少女だった。
 感情の振幅が大きく、思ったことをはっきりと言える意志の強さはジャーヴィスのいうところの「激しくて愛嬌のある生き物」そのものである。

 登場する多くの人物を少々大仰に演じ分けるジルーシャ。
 農場で描写されるつっかえ棒付きの窓などもしっかりとパントマイムを用いて観客の目の前に出現させてみせる。
 そして、感情がたっぷりと込められた彼女の書く手紙は手紙でありながら劇中劇のようでもあった。ひとつひとつのセリフに「かぎカッコ」が付いているので、物語のどことどこがつながっているのかがセリフ回しひとつで明確にわかる。
 こうして振り返ってみると、萌音さんはジルーシャであると同時に、物語の狂言回しでもあったのだ。
 結果的に物語の進行はとてもクリアで分かりやすかったように思う。

 彼女が多彩な感情を持つ愛くるしい少女であり続け、手紙の返事をもらえないことにフラストレーションをためていく過程を緻密に表現していった。その結果、扁桃腺炎で感情を爆発させるに至ったシーンにおいて私がジルーシャの感情にのまれることはなかった。
 幼さを感じさせる少女が大人の女性へ成長する姿を彼女の友として見守り続けた感覚であって、引きずり込まれるものではなかったのだ。

 井上さんは、今回自信が演じるジャーヴィスについてこのように表現していた。

この作品はコメディーの要素もあるので、ユーモラスなところは誇張してやっていたし、そういう演出でもあったのですが、今回はジョンの演出の方向性がすごくリアルになりました。

井上芳雄「エンタメ通信」上白石萌音さんと新コンビ 息をあわせて 第121回

 彼のこの記事、私にとっては実は少々意外なものだった。
 ロックウィローで無邪気に振る舞うジャーヴィスのユーモラスさや、"煮え湯"、ダディの正体を告白するシーンは確かに自然になっていた。
 だが、全体で見ると萌音さんのジルーシャに合わせ、寧ろ井上さんの演技は強弱が強くなったように感じていたし、ユーモラスなシーンはよりユーモラスにコミカルに演じているように私の目には映っていたからだ。
 (もっとも、井上芳雄という役者は千穐楽に近づけば近づくほど自分の枷を手放して自由になって行くタイプであるので、稽古場や初日付近はそうでなかったのかもしれないが。)

 淡々と進む物語の中で、限界を迎えた少女が感情をむき出しにした姿に、ほぼすべての感情を持っていかれた2020年。
 ジルーシャが主人公である物語で、ジャーヴィスがチャーミングな姿をジルーシャにアピールすることはあっても、観客に強い自己主張をするシーンは少なかった。
 そんな彼が、初めて観客に向き合うシーンが"チャリティー"であった。
 幕が上がってから2幕の半ばを過ぎるまでージルーシャの気持ちにいたく揺さぶられ続けていたものが。この"チャリティー"の間だけ、強烈にジャーヴィスに惹きつけられる。
 ジルーシャの思いを知っているからこそ、より一層強く、彼の感情が雪崩を打って心に押し寄せる。
 そして、歌が終わると再びジルーシャの物語へと回帰していく。
 ジルーシャとジャーヴィス、それぞれが主張すべきところで主張していたため、要所要所で心が強くえぐられ、終演後に残ったのは温かく幸せな気持ちだった。

 感情豊かなジルーシャによって様々なジャーヴィスの表情が引き出された2022年。ジャーヴィスは節々で自分の感情を観客に明確に披歴する「はめ」になる。
 ジルーシャを好きだとジャーヴィスが自覚するタイミングが後ろにずれたことで、彼の情けない姿が畳みかけるように次々とでてくる。
 萌音さんのジルーシャに対し友達のように寄り添いたくなるのと同様に。
 情けない中年の男性の心の動きをこれまでよりもストレートに井上さんが表現するものだから、とりあえずジャーヴィスの隣に座って話を聞いてやろうかといった気持ちが芽生える。
 ジルーシャのジャーヴィスに対する恋心と、ジャーヴィスの人間的な弱さが同時に表現されたことで、物語の主人公はジルーシャであるにもかかわらず、ジャーヴィスの物語をも同時進行で追いかけている気分になった。

 感情がふたりに分散された結果、胸が抉られる感覚はなくなり。
 また、ふたりそれぞれにちょっとしたお節介を焼きたくもなり。
 温かい気持ちは変わらず、陽だまりの中にまどろむかのような幸せな状態が全編にわたって続く作品に変わったように思う。

 萌音さんをジルーシャにキャスティングしたことで「ジルーシャの物語」ではなく「ふたりの物語」を描くことを意図し、ジョンが今回の演出を付けたのであれば。間違いなくその意図は伝わったと思う。

 小さな変化の積み重ねが物語を大きく変えていった。
 改めて芝居とは、舞台とは魅力的なものだと感じた時間だった。

 そして、私が一番感心したのは"My Manhattan"だった。

 ハムレットの観劇を終え、再びニューヨークの街に繰り出したジャーヴィスが歌う。

 「描きとめてマンハッタン  プラザ
   袖触れ合うのはオスカー・ハマースタイン」

 嘗てのジルーシャは主旋律を歌うジャーヴィスの裏側でーマンハッタンの「ッタン」から「オスカー」と歌うまでの間ー「オスカー」と歌っていた。
 そして、今回「オスカー」が「描きとめて」という言葉に変更された。
 ジャーヴィスがハマースタインに軽く挨拶をしたとき、ジルーシャは初めてその存在を認め、目を見開くと慌て足を折って挨拶をする。慌てすぎて少し深く折り過ぎてしまうジルーシャの姿から興奮が伝わる。

 他の歌と異なり、繊細な感情表現が求められるわけでは全くない"My Manhattan"。だが、私には真綾さんと萌音さん、ふたりのキャラクターの差が明確に見えるシーンとして強く印象に残った。

 真綾さんのジルーシャはスポンジのようにあらゆるものを吸収していくようで、興味の方向性が多方面に向いている。
 それは彼女が演じるジルーシャが、虚空を見つめるとき真っすぐに、でも柔らかく視線を滑らせるーそこに強い意志を感じさせないようにしている点に起因している。
 周囲の情報が真綾ジルーシャには届いているように見えるのだ。そんな彼女は勉学以外ー新聞や雑誌といったものにも日常的に触れており、そこから世界を広げているのだろうと推察する。
 萌音さんのジルーシャは自分が興味を持ったことに一直線で一途に邁進するタイプ。熱のこもった意志の強い視線は常に目の前にあるものー教わっているものに一生懸命向けられており。
 それ以外のものに目を向ける余裕がないように見えていたのだ。

 オスカー・ハマースタイン1世はニューヨークを席巻していたユダヤ人として有名人ではあったが、萌音さんのジルーシャが街中にいる彼を即座に見つけ出し、頭の中で彼を特定できるとは思えなかったのだ。
 これが彼女が進級し、経済学を選択するようになった3年生のことであるならばまた話は別なのだけれども。
 2年生、そしてニューヨークの華やかな街並みを口をあけるほどに見上げながら歩くジルーシャに「描きとめて」というのはぴったりの表現だった。

 そして、ハマースタインから呼応し、ジルーシャの口から出てきた言葉はモーツアルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」。
 音楽にかかる教育を彼女は既に受けている。でも、それだけではない。
 あぁ、だってここを「ドン・ジョヴァンニ」に設定したのは、ドン・ジョバンニを当たり役とし、オペラから引退した後は彼の孫であるオスカー・ハマースタイン2世の南太平洋でブロードウェイを席巻したエツィオ・ピンツァへのオマージュであるに違いないのだ。

 元々、JPモルガンと歌われていたシーン。
 タイムズスクエア周辺にあった劇場を出てブロードウェイを南下し、百貨店のMacy’sに立ち寄り、ブルックリン方面へ歩きながらファイナンスのJPモルガン、リゾートエリアのコニー・アイランドにというその行程は好奇心旺盛なジルーシャがいずれも興味を示すものであるだろうけれど。

 前述の理由で萌音さんのジルーシャ「らしく」ないと感じた「オスカー」と「JPモルガン」の2語。
 たった2語が「描きとめて」「ドン・ジョヴァンニ」に変化したこと。
 この一見些細な変更がジルーシャの輪郭をさらに明確なものにしたことに気が付いたとき、私はジョンの仕掛けに脱帽するとともに、笑わずにはいられなかった。

 坂本真綾さんが演じてきたジルーシャという役ー
 真綾さんの印象があまりに強烈であるが故に萌音さんは勿論、周囲にもプレッシャーがあったに違いない。
 萌音さんの演技力だけではない。微細な調整の積み重ねが上白石萌音のジルーシャを違和感なく舞台上に出現させたのだ。

 同じ演目を繰り返し見るなんてと人は言う。
 でも、丁寧に作られた脚本と秀逸な構成の楽曲が揃った魅力的な演目が、ひとり入れ替わったことで異なる色に染め上げられていくこの感覚を知ってしまったならば。
 それを同じ演目として定義することはできないし、新しい世界を観たいとそう願ってしまうのだ。

 2022年のダディ・ロング・レッグズがこれまでとは異なる魅力を放っていたのは間違いない。
 ただ、どうしてもひとつだけー2020年の演出で観たかったシーンがある。

 ダディ・ロング・レッグズの正体がジャーヴィスだとわかり、ふたりの感情がぶつかり合い、そして思いが通じ合うシーンだ。
 2020年、コロナ禍での舞台ということもあり変更となったラストシーン。

 ジルーシャが差し出した右手をジャーヴィスが両手で包みー
 その上にもう片方の手を重ねるジルーシャ。
 あぁ、心が通じたのだなと温かな空気に包まれた客席を裏切るかのように「私が上!」「僕が上!」と一番上に置く手を互いに入れ替える。顔を見つめるのではなく、ただただその、入れ替わる手を見つめるのだ。
 そして、その手の動きをジルーシャがそっと止め、そして見つめ合い。
 ジャーヴィスがジルーシャを強く抱きしめた。

 この一連のふたりのやり取りがあまりにもジャーヴィスとジルーシャらしく。とても気に入っていたのだ。
 ジャーヴィスの嘘に烈火の如く憤る萌音ジルーシャと情けない表情を見せる芳雄ジャーヴィスの間にあっても。
 その表現は既存のそれより、しっくりくるような気がしている。

 2022年のダディ・ロング・レッグズは幸運にも劇場で2回観劇することが叶った。
 1回は劇場最後方で、そして2回目の観劇は横通路より少し前、0番の位置であった。2回目の観劇においてはジャーヴィスがランプを付ける音まで聴こえ、細かな演技も、舞台全体の情報もーオペラグラスなどを使うことなくすべて受け取ることができた。

 演目や劇場によって、ベストな席は変わるが、あの席は「ダディ・ロング・レッグズ」を観るに間違いなくベストポジションであった。少なくとも、私にとっては。
 観劇後、配信も観たが、第三者によるスイッチングが為されている舞台は自分が見ていた景色とはあまりにかけ離れたもので。当然ながら受ける印象も大きく異なった。
 自分の記憶を大切にしたかったこともあり、1度だけ観て、あとは画面を消し、1週間音声を楽しんだ。

 舞台はやはり生ものであり、劇場で観るに限るのだ。
 だからこそ、この宝物のような舞台が長く愛されて欲しいと思うし、たくさんの方が劇場で観られるようになって欲しいと願っている(だからと言って大きな劇場で上演するのは間違った判断である)。

 最後にひとつだけ。
 今回、ジルーシャが変わったことで、物語の世界観が大きく変わったことは間違いない。

 ただ、とても、とても気になったことがある。
 一部の観客が「ここで笑うぞ」と決めて笑っていたということだ。
 もっとも私が観劇したのは公演最終盤の2公演。初見の観客が少なく、どんなシーンが来るのかを観客が理解していたからかもしれないけれども。
 お笑い番組でスタッフがコメディアンを盛り上げるために笑っているかのような、不快とまでは行かないがある種の違和感をおぼえるものだった。

 舞台はナマモノであり、その場で起きたことに客が反応をする。
 日によって演者のパフォーマンスは異なるし、観客の反応も然りだ。
 一部の観客による「意図的な演出」がない状態で2022年の「ダディ・ロング・レッグズ」を観てみたかったー

 私の小さな心残りである。

ダディ・ロング・レッグズ ~足ながおじさんより~
2022/8/28 (日) 12:30
2022/8/31 (水) 18:00
シアタークリエ
21列 センターブロック / 9列センターブロック

ジャーヴィス・ペンドルトン 井上芳雄
ジルーシャ・アボット 上白石萌音

音楽・編曲・作詞:ポール・ゴードン
編曲:ブラッド・ハーク
翻訳・訳詞:今井麻緒子
演出:ジョン・ケアード


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