私が私に恥じてる話をしようか
生き方なんて、誰かに押し付けられるものでもないし、ましてや教えられるものではない。
2022年七夕を1日過ぎたあの暑い夏の日、ある政治家の悲報が飛び込んできた。
正直、私は国の行く末や政治に熱心な大人じゃなかった。だからこそ、歴史の教科書に載っている出来事が繰り返されたと一瞬だけ思った……撃たれただけであれば、回復をした話で持ちきりになり、また日常のニュースに埋もれる。
けれど、亡くなってしまった。紙面になるのは何年後になるかもわからない、今起きている現実の出来事。
SNS上の友人も職場の知人も誰もがショックを受けていた。私自身、誰かが亡くなったときに直ぐにショックを受ける人間ではなかった。じわり、じわりとなる。
私はあの政治家が死んで、惜しむことは出来なかった。
あの政治家が行った政策も、功績も応援をしなかった。きっと日本にとっては惜しい人なはずなのに、私に惜しむ資格なんてなかった。
きっとこの先、
大手のオンライン書店を利用して、街中の書店を利用しない、
まとめ動画や記事を見て、本を読まない、
サブスクリプションのその他大勢の曲に埋もれて聞いて、1曲の音楽を大事に聞かない、
映画のネタバレサイトを読んで、映画を観に行かない、
愛してる家族に愛していると言わない、
優しくしてくれた人にありがとうと言わない、
……そうやって、失くなったときに惜しむ権利が消えていうんだろう。
でも、私は今思っていることを忘れない。
銃声、そして、戸惑いの顔、そして倒れた足。
悲劇の共感性が高い自分はきっと、この先ずっと忘れられない。
そして、私はテレビやネットの仕打ちを忘れない。
亡くなった人の遺族にコメントを求めることや、医師に家族の様子を聞くこと、
数秒後には倒れているのに直前の映像をテレビに流したこと、
ネットで批判ばかりしていた人間や無関心だった人間が、亡くなったことを惜しむこと、
アクセス数を稼ぐために、ネットの海で記事や動画にする人がいること、
きっと私は忘れない。
私はこの記事でアクセス数を稼ぐこともしたくないし、これは私だけの生き方なのでそっといつかの私に向けて目が入るようにネットの記事にしておく。
未来の私へ、私は失くしたものを愛せてますか?
最後になりますが、亡くなった方のご冥福と遺族と関係者、友人の方にお悔やみを申し上げます。私に惜しむ資格はないですが、日本のためにあの方は尽力してくださりました。